多賀城・歌枕の地について
 

末の松山
 

末の松山と宝国寺

歌枕「末の松山」を擁する末松山宝国寺は、多賀城駅から歩いて10分ほどのところにある。

三十六歌仙の一人清原元輔が詠んだ「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)の歌碑を参道に見て境内を左に歩いて行くと、470年以上の齢を数える黒松が目の前に迫ってくる。


この老松は平成13年(2001年)3月に雪の重みで南側に迫り

出していた大枝を失ったが、威風を放つ姿に翳りは見られない。平安の昔から、こうした松の佳景を称えられた「末の松山」は、当地に赴いた中央官人らによって都に伝播され、陸奥を代表する一流の歌枕として慕われ続けた。

「末の松山」を詠んだ歌として、古くは、古今和歌集に見られる東歌「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ(あなたをさしおいてわたしがほかの人を思う心をもったら、あり得ないことだが、末の松山に波が越えてしまうだろう)」があり、藤原興風が宮廷で詠んだ「浦ちかくふりくる雪は白浪の末の松山こすかとぞ見る」も同集に採録されている。

[参考]  三十六歌仙
柿本人麻呂   紀貫之   凡河内躬恒(おおしこうちのつねみ)    伊勢   大伴家持   山部赤人    在原業平   遍昭(へんじょう)   素性(そせい)    紀友則   猿丸大夫   小野小町    藤原兼輔   藤原朝忠   藤原敦忠    藤原高光   源公忠   壬生忠岑(みぶのただみね)    斎宮女御(さいぐうのにょうご)   大中臣頼基    藤原敏行   源重之   源宗于(むねゆき)    源信明(さねあきら)   藤原仲文    大中臣能宣(よしのぶ)   壬生忠見   平兼盛    藤原清正(きよただ)   源順(したがう)   
藤原興風(おきかぜ)   清原元輔(もとすけ)    坂上是則(これのり)   藤原元真(もとざね)    小大君(こおおぎみ)   中務(なかつかさ)

歌枕「末の松山」は、「愛の契り」に触れた歌に多く詠まれ、清原元輔の「契りきな」もこうした系統の歌である。この歌は、元輔が友人に代わり「心かはりてはべりけるをむなに人にかはりて」の詞書を添えて心変わりした女性に詠み贈ったものであり、「末の松山」は海岸からかなり離れたところにあるので、ここまで波が越えて来ることはまずあり得ない。この「あり得ない」ことを「末の松山に波が越えるようなもの」として比喩し、「波が越える」となれば「あり得ない」ことが起きる、すなわち愛が破局することを意味した。

下の句の「末の松山なみこさじ」は、上記の東歌を本歌に取ったもので、平安末期の歌人・歌学者の藤原清輔は、「末の松山に波が越える」ことを「奥義抄」の中で次のように説明している。
末の松山浪こゆるといふことは、むかし男・女に末の松山をさして、彼(かの)山に浪のこえむ時ぞわするべきと契りけるがほどなく忘れにけるより、人の心かはるをば浪こゆると云ふ也。彼山にまことに浪のこゆるにあらず。あなたの海のはるかにのきたるには浪の彼松山のうへよりこゆるやうに見ゆるを、あるべくもなき事なれば、誠にあの浪の山こえむ時忘れむとは契るなり。

「末の松山」を詠んだ歌は、古今和歌集の他、拾遺和歌集や千載和歌集などに数多く撰ばれている。

「後撰和歌集」  土左
わが袖はなにたつすゑの松山かそらより浪のこえぬ日はなし

「拾遺和歌集」  人麿 
浦ちかくふりくる雪はしら浪の末の松山こすかとぞ見る
(古今和歌集に載る藤原興風の歌が、拾遺和歌集では柿本人麻作として採録されている)

「金葉和歌集」  大蔵卿匡房 
いかにせんすゑの松山なみこさばみねのはつゆききえもこそすれ

「千載和歌集」  藤原親盛 
あきかぜは浪とともにやこえぬらんまだきすずしきすゑの松山

「新古今和歌集」  藤原家隆朝臣 
霞たつすゑの松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空
                       
「能因集」 
  すゑのまつ山にて
白浪のこすかとのみそきこえける末の松山まつ風の声

「後鳥羽院御集」 
  冬
見わたせば浪こす山のすゑの松木すゑにやとる冬の夜の月

元禄2年(1689年)5月8日、芭蕉一行は、塩釜の宿へ着いたのち多賀城に戻り「末の松山」を見物した。芭蕉は「契り」の歌枕に足を踏み入れた感慨を、眼前の「墓はら」と「比翼の鳥、連理の枝」を対比させ「末の松山は寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞」と「おくのほそ道」に記した。

○「比翼の鳥」とは伝説の鳥で、雄と雌がそれぞれ目1つ、翼1つを持ち、常に一体となって飛ぶということから、男女間の深い契りのたとえとされる。また、「連理の枝」とは、1本の木と他の木が、幹や枝を重ね合って同体化し、木理(木目)が相通じることを言い、男女間の深い契りのたとえとされる。

曽良は、「末の松山」について「塩カマノ巳午ノ方三十丁斗。八幡村ニ末松山寶国寺ト云寺ノ後也。市川村ノ東廿町程也。仙台ヨリ塩カマヘ行ハ右ノ方也。多賀城ヨリ見ユル」(名勝備忘録)と記して、当時、多賀城碑の辺りから「末の松山」が見えたことを窺わせているが、今は、民家やビルが視界を遮って遠望が利かない。
  

沖の石(沖の井)
 

沖の石と末の松山

「末の松山」から南へ抜ける道を下っていくと、民家の間に海の磯と見紛う光景が現れる。ここが、小野小町や二条院讃岐の歌を典拠に多賀城の八幡に設定された歌枕「沖の石」で、曽良は、当所を次のように記している。
奥井(沖の井)。末ノ松山エ弐丁(約218m)程間有。八幡村ト云所ニ有。仙台ヨリ塩釜ヘ行右ノ方也。塩釜ヨリ三十丁程有所ニテハ奥ノ石(沖の石)ト云。村ノ中屋敷ノ裏也。(名勝備忘録)

  
「古今和歌集」  小野小町
 いてのしまというたいを
おきのいて身を焼くよりも悲しきは宮こ島べの別なりけり

「千載和歌集」  二条院讃岐
 寄石恋といへるこころをよめる
わが袖はしほひに見えぬおきの石の人こそしらねかわくまぞなき

「沖の石」は、海から離れていながらもその点景を表し、二条院讃岐の歌の、恋に涙する身を、乾きを知らない海の石に比喩した情景を一部は整えているが、歌中の「おきの石」は、「しほひ(潮干)に見えぬ」から分かるように、潮が引いても姿を見せない海底の石であって特定の石を詠んだものではない。多くの歌枕の起源がそうであるように、「沖の石」も、先に歌が詠まれ、後に歌中の普通名詞を特定のものに定着する過程を踏んできている。

安永年間(1772〜1780年)の「宮城郡八幡村風土記御用書出」に「奥(沖)の井守、寛文九年(1669年)肯山様(仙台藩四代藩主伊達綱村のこと)御代より被仰渡町屋敷御百姓平吉六代以前之祖父平兵衛代より相勤来・・・」とあることから、「沖の石」は、綱村のころ歌枕として当地に定着し、芭蕉が訪ねる以前から藩政の一環として大切に保護されていたことが知られる。
  

野田の玉川
 

野田の玉川(多賀城市)
 
野田の玉川(塩釜市)

「野田の玉川」は、多賀城市と塩釜市をまたぐ小流で、塩釜市の大日向を源流とする。多賀城駅から5分程で、最も下流域に架かる大土手橋に行き着くことができる。

「野田の玉川」は、平安中期の歌人能因が、「みちのくにまかりけるとき、よみ侍りける ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり」と詠んだのに由来する歌枕で、JR東北本線塩釜駅近くの民家の庭先に、これの歌碑が見られる。

多賀城市は、「野田の玉川」が下流域にたびたび洪水を引き起こしたことから、平成4年に「水・緑景観モデル事業」として市内の流域を写真(上)に見る川姿に整備したが、塩釜市側(下)の一部に、昔からの流れが残り、往時の面影を偲ぶことができる。

多賀城市の「野田の玉川」に架かる8つの橋の1つに「おもわくの橋」がある。「おもわくの橋」は、西行が詠んだ次の歌に由来するもので、前九年の役で知られる阿倍貞任がこの橋で恋人と待ち合わせをしたという伝説が残されている。
ふりたるたなはしをもみちのうつみたりける、わたりにくくてやすらはれて、人にたつねけれは、おもはくのはしともうすはこれなりと申しけるをききて、
ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよはぬおもはくのはし (山家集)

  
伊達綱村のころ、この歌に因んで「おもわくの橋」付近の小山に数多くの楓が植えられ、「野田の玉川」のせせらぎに楓の紅葉という絶景が醸し出された。当時の人々はこれを「紅葉山」と呼んで親しみ、現在も地区名にこの名が残っている。「野田の玉川」に架けられた橋の1つに「紅葉山橋」があるのはこの謂れからである。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第13集 芭 蕉 と 多 賀 城
スタートページ

Copyright(C) 2000-2004  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.
 
Maintained online by
webmaster@bashouan.com