多賀城碑(壷の碑)について
多賀城碑

平成10年6月30日、国の重要文化財に指定された多賀城碑は、市北西部の多賀城跡の一角にあり、江戸の昔から創建年代や後年の偽作か否かについて論争されてきたが、近年の発掘調査の結果などから、現在は碑文の通り天平宝字6年(762年)の建立と判断されている。

碑の高さは196cmあり、最大幅が92cm、最も出っ張りの大きい所で70cmの厚みがある。今は、明治8年に建てられた覆堂に納まり雨露を凌いでいるが、芭蕉が訪ねた元禄2年(1689年)当時は野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠すほどの苔で覆われていたことが「おくのほそ道」から知られる。

つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。(おくのほそ道)

義仲寺所蔵「芭蕉翁絵詞伝-壷の碑」

  
碑は、自身と同質である砂岩の基部全体を土中に埋め、正面をほぼ真西に向けて建っている。一般に砂岩はもろいとされるが、碑石に使われたものはアルコース砂岩と呼ばれる硬質のもので、今も碑面の風化はほとんど見られない。昭和40年代の前半に碑近くの丘陵から同質の石が出たことから、多賀城碑に使用された石材は建立地近辺から掘り出されたものと推測されている。

多賀城市撮影の「多賀城碑」拓本


多賀城碑は、江戸時代に土中から掘り出されたか、または草むらに埋もれていたのを掘り起こされたと見られており、その時期は、新井白石の「同文通考」によれば、芭蕉が訪れた15年〜30年程前の万治・寛文の頃(1658〜1673年)という。

仙台藩四代藩主伊達綱村(1659〜1719)のころ、仙台領内の数々の歌枕の地が大淀三千風らによって整備されたが、当時すでに市川村(現多賀城市市川)に本碑が構え、三千風はこれを撰集「松島眺望集」の中で「壷の碑」として取り上げて碑文とともに紹介している。本碑は、多賀城(跡)に存する石碑であるから「多賀城碑」の称は然るべきだが、これを「壷の碑」と呼んだのはどのような謂れからか。

大淀三千風について

 
「つぼのいしぶみ」は、実は歌枕であり、西行や藤原清輔、源頼朝らによって、未知なる陸奥の象徴として和歌に詠み込まれている。

「山家集」 西行
陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風

「家集」 藤原清輔
石ぶみやつかろの遠(おち)に有りと聞えぞ世中を思ひはなれぬ

「拾玉集」 源頼朝
陸奥の磐手忍はえそ知ぬ書尽してよ壷のいしぶみ

歌枕「つぼのいしぶみ」の成立過程は定かでないが、文治年間(1185〜1190年)に歌学者藤原顕昭が著した「袖中抄」が、その伝承に大きな役割を果たしたようである。

顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。(それをつぼといふ也。) 私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。(袖中抄)

[要旨] 陸奥の奥地、日本の東の果てに「つぼのいしぶみ」というものがあって、碑面に、坂上田村麻呂が弓のはず(両端の弦をかけるところ)で彫った「日本中央」の文字が書かれ、それを石文(いしぶみ)という。藤原信家の侍従によれば、石の長さは4、5丈(約12〜15m)ほどで、彫り付けられて窪んだところを「つぼ」という。みちの国は東の果てだが、えぞに島々あること考えれば日本の中央といってもいい。

歌枕「つぼのいしぶみ」が、こうした伝説や和歌によって後世に伝播されていく中、多賀城碑は、江戸時代になって土中から掘り出され衆目に晒された。石碑は一般に「石文(いしぶみ)」または「立石(たていし)」と呼ばれることから、発見当座も、まずはそうした呼び名であったろう。それが彼の事物と絡められて一体化し、次第に「壷の碑」と称されるようになった、というのが事の真相かと思われる。

  
多賀城碑の碑文について

 
            西
 
    将 節 也 軍 此         多
    軍 度 天 従 城         賀
    藤 使 平 四 神         城
    原 従 宝 位 亀 去 去 去 去   去
    恵 四 字 上 元 靺 下 常 蝦   京
    美 位 六 勲 年 鞨 野 陸 夷   一
  天 朝 上 年 四 歳 国 国 国 国   千
  平 臣 仁 歳 等 次 界 界 界 界   五
  宝 朝 部 次 大 甲 三 二 四 一   百
  字 knj_kari1_1.gif (855 バイト) 省 壬 野 子 千 百 百 百   里
  六 修 卿 寅 朝 按 里 七 十 廿
  年 造 兼 参 臣 察   十 二 里
  十 也 按 議 東 使   四 里
  二   察 東 人 兼   里
  月   使 海 之 鎮
  一   鎮 東 所 守
  日   守 山 置 将
多賀城碑
 
西

一般に、碑額にあたる部分に方位を記す碑は他に類例がないとされる。「西」の意味は明らかでないが、碑面はほぼ真西に向けて建てられている。
 
多賀城

「多賀城」という言葉が文献上はじめて見られるのは「続日本記」宝亀11年(780年)の条であるが、このときまでに多賀柵だった呼び名が多賀城に変えられたとされている。「多賀柵」という言葉の文献上の初見は「続日本記」天平9年(737年)の条である。
 
去京一千五百里    (京を去ること一千五百里)

「京」は平城京。平城京からの駅数と、駅間の里程から計算すると「一千五百里」に近い距離になるという。
 
去蝦夷国界一百廿里    (蝦夷国の界<さかい>を去ること一百廿里)

蝦夷国境を、桃生郡の辺とする説、衣川、一関とする説などがある。
 
去常陸国界四百十二里    (常陸国の界を去ること四百十二里)

「東奥紀行」の著者長久保赤水は、同書の中で天平時代の常陸国境が今の那珂湊(茨城県)で、六町を一里とすれば、そこから多賀城までほぼ412里になる、としている。異説もある。
 
去下野国界二百七十四里    (下野国の界を去ること二百七十四里)

下野国と陸奥国の国境は白河関付近。
 
去靺鞨国界三千里    (靺鞨<まっかつ>国の界を去ること三千里)

「多賀城市史3」に、「日本で靺鞨国としたのは、渤海の東北に存在した黒水靺鞨に代表される渤海に服さない靺鞨族を指した呼称か、あるいは渤海国を構成する靺鞨族をも含めて、広義の意味での靺鞨族全体に対して靺鞨国と表したのかもしれない」とある。
 
此城神亀元年歳次甲子    (歳<ほし>は甲子<きのえね>に次<やど>る)

次の「此城・・・」の末尾「所置也」に係り、多賀城創建の年(神亀元年。724年)を示す。「歳次甲子」は、神亀元年が甲子の年であることを表す。
 
按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置也     (・・・東人の置く所也)

「按察使(あぜち)」は、奈良時代に諸国の行政を監察した官。養老5年(721年)陸奥国按察使は出羽国も管轄するようになった。

「鎮守府」は、蝦夷を鎮めるために陸奥国に置かれた軍政機関で、「鎮守(府)将軍」はその長官。鎮守(府)将軍は、按察使および陸奥守兼任が多かった。

「大野朝臣東人」は、元明、元正、聖武の三朝に仕えた武将であり、天平9年(737年)陸奥出羽按察使鎮守将軍在任中、陸奥国から出羽柵へ通じる道を新たに160里開き、出羽柵の蝦夷を治めた。この功により、天平11年(739年)参議陸奥国按察使兼鎮守府将軍大養徳守在任従四位上勲四等となる。碑文の「按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等」は、神亀元年の位ではなく、陸奥国に在任中の位とみられる。

「所置也」は、神亀元年に多賀城が機能しはじめたことを表すと見られる。
 
天平宝字六年歳次壬寅 ・・・修造也  (歳<ほし>は壬寅<みずのえとら>に次<やど>る)

多賀城修造の年(天平宝字六年。762年)を示す。「歳次壬寅」は、天平宝字6年が壬寅の年であることを表す。
 
参議東海東山節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝knj_kari2_5.gif (855 バイト)

「参議」は、大臣、納言に次ぐ重職。

「節度使」は、軍団を統括することを主な任務とする奈良時代の官。東海道節度使は東山道の一部を合わせて所管したので「東海東山節度使」と呼ばれた。

「仁部省卿」は、太政官の8省の1つ、民部省の長官のこと。

「藤原恵美朝臣朝knj_kari2_0.gif (1217 バイト)」は、太政大臣まで進んだ藤原仲麻呂(恵美押勝)の子で、東北の行政・軍事上の全権を委ねられ積極的に東北政策を推進し、軍事施設の造営や修復を大規模に行っている。
 
天平宝字六年十二月一日

「多賀城碑」の建立日(762年12月1日)とされるが、日付は好日が選ばれた可能性もある。  



 
【おことわり】 

ページ上部における表記の誤りを次の通り訂正しています。

天平宝字6年(672年)の建立と判断されている

天平宝字6年(762年)の建立と判断されている
 

 
【参考文献】 

多賀城市史3 民俗・文学
 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第13集 芭 蕉 と 多 賀 城
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