芭蕉について
 
おくのほそみち

元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)、深川の採荼庵を出発してからおよそ150日に及ぶ俳諧紀行の旅は、同年8月21日中山道の城下町・大垣でその幕を閉じた(出発、到着日については異説あり)。芭蕉は、旅中書き留めた様々な句文に念入りな推敲の手を加え、元禄7年4月の半ばになって能書家の柏木素龍に書写させ、自ら題箋に「おくのほそ道」を記し、一冊の紀行文集を仕上げた。

本文の中で「おくの細道」と記され、書名にまでなった小村の「ほそ道」は、仙台藩四代藩主伊達綱村のころ、大淀三千風らによって再整備された仙台領の名所・旧跡の1つで、芭蕉が旅立つ7年前の天和2年(1682年)に三千風が出した撰集「松島眺望集」により全国的に知られるところとなった。

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。(おくのほそ道)

野田の玉河。続古(続古今和歌集) みちのくの野田の玉川みわたせば塩風こして氷る月かげ  順徳院
塩釜に近し。此辺、浮島、野中の清水、沖の石、奥の細道、轟の橋などいふ処あり。(松島眺望集 巻之下)

貞享4年(1687年)、大淀三千風は、新築の亀岡八幡神社に仙台領内の名所二十八景を詠み込んだ発句を絵板に書かせて奉納し、その春の条にも「奥細道」が見受けられる。

亀岡八幡宮二十八景


塩釜   紙鳶 塩かまやぬさの追風いかのほり
本荒里  菜花 本あらの里の花菜や金谷園
木下   鯢声 木の下の花なれ蝶や鐘狂女
田子   鍬天 田子の細井蛙さひたり鍬をのこ
玉田横野 柴馬 柴つけ馬雲雀たはねし横野哉
花淵   曙雲 花淵ちりぬ龍の衣ゝあけ曇り
奥細道  柳塘 西行の袖すり柳かほそみちか


しかし、芭蕉研究家・蓑笠庵梨一は、安永7年(1778年)刊行の「奥細道菅菰抄」の中で「おくの細道は、名所に非ず。十符の里は、名所也。新古今、見し人もとふ(十符)の浦かぜ音せぬにつれなく消る秋の夜の月、橘為仲」と書き、「おくの細道」が名所であることを打ち消している。
    


  
< 2つの絵図にリンクが張られています >

    
元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、芭蕉と曽良は加右衛門が描いた地図を携え仙台をあとにした。一行は、塩釜、松島、石巻、牡鹿半島の西海岸を経由して金華山大金寺に至る金華山道(塩釜街道)を行ったと見られ、七北田川に架かる土橋(今市橋)を渡って左へ6、7丁行くと、北側の谷あいに「岩切新田」があり、その風景の中に、梨一が橘為仲の歌を歌枕の例証とした「十符の菅」があった。「おくの細道」は、その田に通じる畦道(あぜみち)の呼称であった。

今市ヲ北ヘ出ヌケ大土橋有。北ノツメヨリ六、七町西ヘ行ク所ノ谷間百姓やしきノ内也。岩切新田ト云。カコヒ垣シテ有。今モ国主ヘ十符ノコモアミテ貢ス。道、田ノ畔也。奥ノ細道ト云。田ノキワニスゲ植テアリ。貢ニ不足スル故、近年植ルナリ。是ニモカコヒ有故、是ヲ旧跡ト見テ帰ル者多シ。仙台ヨリ二里有。塩カマ松島ヘノ道也。
(曽良「名勝備忘録」)

仙台より今市村へかヽり、冠川(七北田川)土橋を渡り、東光寺の脇を三丁行テ、岩切新田と云村、百姓の裏に、十符の菅アリ。又同所道端の田の脇にもあり。両所ながら垣結廻(かきゆひめぐ)らし、菅は彼(かの)百姓が守となん。
(桃隣「陸奥鵆」)

○「十符の菅」を詠んだ歌。

「夫木和歌抄」 詠み人しらず
陸奥の十符の菅菰七符には君を寝させて我三符に寝む

「金葉集」 源経信
水鳥のつららの枕隙もなしむべ冴えけらし十符の菅菰

   
十符谷

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仙台藩四代藩主綱村の業績を記録する「肯山公治家記録」の延宝5年(1677年)8月15日の条に、「宮城郡岩切村十符カイ屋敷ニ到リ十符カ菅薦ノ名区ヲ歴覧シ玉フ自今以後十符カイ屋敷ヲ十符谷屋敷ト言フヘシ且此地名荒廃セサル様ニ菅ヲモ栽立ヘキ旨柴田中務ヲ以テ邑ノ代官及ヒ村中ノ者共ニ命セラル」とある。

これば芭蕉が当地を訪れる10年ほど前のことで、当時、仙台藩が力を入れていた名所・旧跡の保護政策が「十符の菅」の里・十符谷にも及んでいたことを表し、曽良の「名勝備忘録」にある「カコヒ垣シテ有」や桃隣の「菅は彼百姓が守となん」はこれを裏付けている。

現在、十符谷は菅の栽培が行われていたという谷の中程の
更に上まで宅地化が進み、旧跡の名残を視認すことは難しくなっているが、民家と民家の間には、かつて田んぼとして利用されたことを窺わせる棚田風の畑が散見している。

  
「芭蕉の辻」とは?

 芭蕉の辻」は、その名から松尾芭蕉と無縁ではないように思われがちだが、その実、俳人芭蕉とは関わりが無い。この辻は、正式には「札の辻」といい、道路の中央に幕府の制札(禁令の箇条を記す札)が掲げられていたところ。また、当所は、仙台城の大手から城下を東西に貫く道路と奥州街道が交差する十字路にあたり、諸方への里程の基準となった。

なぜ辻の名に「芭蕉」が用いられたかについて定かではないが、「そこにバショウが植えてあったから」とか「伊達政宗に重用された芭蕉という名の虚無僧が一時住居を構えたところだから」などと説明されている。
 


「おくのほそ道」と仙台/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と仙台
元禄2年(1689年)5月4日(新暦6月20日)〜5月8日(新暦6月24日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 四日
雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折ゝ日ノ光見ル。岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
 
○笠島(名取郡之内)、岩沼・搏c之間、左ノ方一里計有。三ノ輪・笠嶋と村並テ有由、行過テ不見。
 
○名取川、中田出口ニ有。大橋・小橋二ツ有。左ヨリ右ヘ流也。
 
 
○若林川、長町ノ出口也。此川一ツ隔テ仙台町入口也。 
 
夕方仙台ニ着。其夜、宿国分町大崎庄左衛門。
 
一 五日
橋本善衛門殿ヘ之状、翁持参。山口与次衛門丈ニテ宿ヘ断有。須か川吾妻五良七ヨリ之状、私持参、大町弐丁目、泉屋彦兵ヘ内、甚兵衛方ヘ届。甚兵衛留主。其後、此方ヘ見廻、逢也。三千風尋ルニ不知。其後、北野や加衛門ニ逢(国分町ヨリ立町ヘ入、左ノ角ノ家の内。)、委知ル。
 
一 六日
天気能。亀が岡八幡ヘ詣。ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ帰ル。
 
一 七日
快晴。加衛門(北野加之)同道ニテ権現宮(仙台東照宮)を拝、玉田・横野を見。つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行。薬師堂、古ヘ国分尼寺(実際は国分寺)之跡也。帰リ曇。夜ニ入、加衛門・甚兵ヘ入来。冊尺(短冊の誤り)並横物一幅づゝ翁書給。ほし飯一袋・わらぢ二足、加衛門持参。翌朝、のり壱包持参。夜ニ降。
 
一 八日
朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立。十符菅壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩釜ニ着、湯漬など喰。末ノ松山興井
野田玉川おもはくの橋浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩釜ノかま(お釜神社の写真)を見ル。宿、治兵ヘ法蓮寺門前。加衛門状添。銭湯有ニ入。
一 四日
雨少し止む。午前8時頃、白石を立つ。折ゝ日の光見る。岩沼入口の左の方に竹駒明神という神社有リ。その別当の寺(竹駒寺)の後に武隈の松有り。竹垣をして有る。その辺、侍やしき也。古市源七殿(岩沼館主・古市源吉のこと)の住所也。
 
○笠島(名取郡の内)、岩沼と増田の間、左の方一里ばかりに有り。箕輪と笠島の村、並んで有るというが、行き過ぎて見ず。
 
○名取川は中田の出口に有り。大橋(名取川橋)と小橋(現在の大野田橋)二つ有り、川は、左より右ヘ流れる。
 
○若林川(広瀬川)は長町の出口で、この川を一つ隔て仙台町の入口となる。 
 
夕方仙台に着く。その夜、国分町・大崎庄左衛門宅に宿す。
 
一 五日
仙台藩士・橋本善衛門殿への紹介状を翁持参し宿を求めるが、後に、家臣・山口与次衛門が宿を訪れ断りを入れる。須賀川の吾妻五良七からの紹介状、私持参し、大町二丁目・泉屋彦兵衛宅内の甚兵衛方ヘ届ける。甚兵衛留主。その後、甚兵衛来訪し、逢う。大淀三千風のことを尋ねるが消息知らず。その後、北野屋加衛門に逢い(国分町より立町へ入り、左の角の家の内)、三千風について委細知る。
 
一 六日
天気よし。亀が岡八幡ヘ詣でる。仙台城の追手門より入る。にわか雨降る。茶室へ入り、雨止んで帰る。
 
一 七日
快晴。加衛門(北野加之)同道にて権現宮(仙台東照宮)を拝し、玉田、横野を見る。つゝじが岡ノ天神ヘ詣で、木の下ヘ行く。薬師堂、いにしえの国分寺の跡也。帰リ時、曇り。夜に入り、加衛門と甚兵衛が来訪。短尺並びに横物一幅づゝ、翁、書かれる。ほし飯一袋、わらじ二足、加衛門持参。翌朝、のり一包持参。夜に雨降る。
 
一 八日
朝の内小雨降る。午前10時頃より晴れ。仙台を立つ。十符菅と壺碑を見る。
午後2時頃、塩釜に着き、湯漬け飯など食す。末の松山、沖の井、野田の玉川、おもわくの橋、浮島等を見物して帰る。見物の前に鹽竈のかまを見る。治兵衛宅に宿す、法蓮寺の門前。加衛門の紹介状あり。銭湯有り、入る。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第12集 芭 蕉 と 仙 台
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