大淀三千風について
 
松島湾 大淀三千風について「おくのほそ道」では触れられていないが、曽良の随行日記に「三千風尋ルニ不知」とあり、芭蕉は三千風との対面を期して仙台に入ったと見られる。しかし、三千風はこのとき既に仙台を離れ、「日本行脚文集」(元禄3年刊)の旅にあった。

談林俳諧の流布に力があった三千風は、本名を三井友翰と言い、寛永16年(1639年)に伊勢射和の商家に生まれた。
20代前半までに父、母ともに亡くし、30歳くらいまで家業の手伝いに精を出したが、寛文9年(1669年)、15歳の春から学んでいた俳諧に身を投じ、松島に赴くところとなった。

芭蕉が東下して2年後に当る延宝2年(1674年)、三千風は、松島を詩歌で詠い上げる、撰集「松島眺望集」の刊行を構想し、40余ヶ国の作者に「雁のつばさをたのみ」(跋文)、松島の島々や地名を盛り込む作品を募集した。その結果、松尾桃青(芭蕉)、井原西鶴、池西言水、鈴木清風など、500余人にのぼる作者から5000を越える発句、和歌、漢詩が寄せられた。

過にし延宝二のとし、此集をおもひたち半帋の題号付を遠つ国ちかき境に、雁のつばさをたのみ、すでに九年の春秋をへぬ。されば不至徳至道不凝といへり。然にかゝるおれものゝわざには、おもだゝしきや国数四十余ヶ国、作者五百余人、詠草のとめ句五千余韵侍りし。
(「松島眺望集」跋文・抜粋)


松しまや大淀の浪に連枝の月       大阪 西鶴
武蔵野の月の若ばへや松島種       江戸 桃青
松しまの月さかせたらなん江戸さくら   江戸 言水
一島 ひとつしまいかにかんだもたしかに月 鈴木清風

(「松島眺望集」巻之一)


三千風がこの撰集に携わるころ、一昼夜・24時間の間に、限りを尽くして詠んでその数を競うという「矢数俳諧」が、井原西鶴により創始され、流行していた。延宝7年(1679年)、松島から仙台に移っていた三千風は、当地で2800句独吟の記録を打ち立て、翌日の200句を加えて3000句とし、これを「仙台大矢数」と名付けて刊行した。「三千風」の号は、この大矢数の三千句に依る。

それから3年後の天和2年(1682年)、構想から8年の歳月を経て、ついに「松島眺望集」が刊行の運びとなる。本書は、松島の佳景を全国津々浦々まで喧伝する大きな役割を果たしたと同時に、芭蕉には、松島への旅、延いては「おくのほそ道」の旅へ駈り出すのに、極めて効果的な宣伝材料となった。
    
「松島眺望集」の奥書を見ると「湖山飛散人大矢數寓言堂 大淀之三千風統焉 執筆 加之」とあり、その末尾の署名「執筆 加之」が注目される。この人物が、「おくのほそ道」で「聊(いささか)心ある者」、「風流のしれもの」と書かれた加右衛門(実際は「嘉右衛門」)で、三千風が「日本行脚文集」の旅を前にして愛用の文台を譲り渡したほどの高弟・和風軒加之(北野加之)である。

この加右衛門の、歌、発句、漢詩と多岐に及ぶ10余りの作品が、「松島眺望集」の全二巻にわたって散見される。

松嶋の俳魚の腹に庵しめん袂に月をひろひ入れつゝ 加之
鼻に植て松嶋の月いさ京人 加之
廻文 けさみなはのましゑしまのはなみざけ
  加之
 遊
松嶋    同
吟詠忘帰松嶋汀 奇峰怪岩彩
丹青
「言」偏+「巨」求他境有
佳景 也是扶桑一洞庭
鵆腸持絵島


元禄2年5月7日(新暦6月23日)、加右衛門は「年比さだかならぬ名どころを考置侍ればとて」、師三千風に代わって芭蕉と曽良を宮城野に案内し、仙台東照宮、玉田・横野、榴岡天満宮、「木の下」の陸奥国分寺跡・薬師堂などを巡り歩いている。

七日 快晴。加衛門(北野加之)同道ニテ権現宮(仙台東照宮)を拝、玉田・横野を見。つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行。薬師堂、古ヘ国分尼寺(実際は国分寺)之跡也。
(曽良随行日記)


仙台藩四代藩主伊達綱村の時、仙台領内にある名所・旧跡が再整備されたが、三千風はその中心的役割を勤め、加右衛門もこれに参加した。玉田、横野、「木の下」は、この再整備により歌枕と関連付けられた名所である。

三千風は、およそ15年間を松島、仙台で過ごし仙台俳壇の基礎を築いた後、天和3年(1683年)、仙台から全国行脚の旅に出た。その後、旅の途中の貞享3年(1686年)10月に仙台に戻り、翌年3月まで逗留している。三千風は、旅を終えた元禄3年(1690年)、その紀行を発句、和歌、漢詩で総集する「日本行脚文集」を刊行した。

元禄8年(1695年)になって、三千風は、寛文4年(1664年)に崇雪(小田原の人)が結んだ大磯の草庵に入り、西行の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」が当地に所縁あるとする謂れから、庵を「鴫立庵(しぎたつあん)」と命名し、13年間に渡って居住した。落柿舎、無名庵とともに日本三大俳諧道場に併称される鴫立庵は、昭和62年、第21世庵主・草間時彦氏に引き継がれた。

晩年、故郷の射和に帰った三千風は病気で倒れ、富士山が噴火した年の宝永4年(1707年)、69歳で永眠した。墓石は、射和の共同墓地内にある。

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第12集 芭 蕉 と 仙 台
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