芭蕉について
 

短冊に書いた笠島の句

曽良の日記や「俳諧書留」によると、芭蕉は、元禄2年5月7日(新暦6月23日)に仙台の泉屋甚兵衛へ与えた短冊の中に、「おくのほそ道 笠島の段」の草稿とも言える前書と発句を記した。

こういった「笠島」関連の小作品は、「俳諧書留」の他、「猿蓑」や土芳編「蕉翁文集」、懐紙などにも見られ、芭蕉のこのような作業は、最終段階までに珠玉の句文に仕上げるための推敲過程のように思われる。

「笠島」の他にも、「須賀川」、「松島」、「象潟」など、多くの場面でそれらの小作品が書かれ、今に伝えられている。このことから「おくのほそ道」の推敲が、細分化された場面ごとに行われたことが推測される。

このことは、「おくのほそ道」愛好者が、章段ごとのルーツに触れられること、もしくは各々の章段に対する芭蕉の思考過程につぶさに触れられることを意味しており、このあたりも「おくのほそ道」が長きにわたって慕われている理由の一つなのだろう。
  

 
笠嶋は何つこ皐月のぬかり道 (芭蕉)
[俳諧書留]
(泉や甚兵へニ遣スの発句・前書。)

中将実方の塚の薄も、道より一里ばかり左りの方にといへど、雨ふり、日暮に及侍れば、わりなく見過しけるに、笠嶋といふ所にいづるも、五月雨の折にふれければ、
笠嶋やいづこ五月のぬかり道

[土芳編・蕉翁文集]
藤の中将真方(実方)のつかは、みちのく名とり郡かさしまといふ所にありとかや。「枯野の薄」とよみ侍る西上人(西行上人)のうたさへ、かなしみのかずにくはゝりて、あわれに覚え侍る。ゆきて見む事しきりなれども、この比ふりつゞきたる五月雨に、道いとあしければ、わりなくて過ぎぬ。
(かさしまやいづこ五月のぬかり道)
「蕉翁文集」には「細道にあればこれを略す」とあって、句は示されていない。
[猿蓑]
奥州名取の郡に入て、中将実方の塚はいづくにやと尋侍れば、道より一里半ばかり左りの方、笠嶋という処に有とおしゆ。ふりつづきたる五月雨、いとわりなくなく打過るに、
笠嶋やいづこ五月のぬかり道

[伝真蹟懐紙]
みちのく笠島の郡に入て、藤中将実方の塚の跡はと尋侍りしに、岩沼の宿より左りの方一里計にありといへり。彼(かの)「その名ばかりをとゞめおきてかれ野ゝ薄」とよみけむ、今はおりふし青み茂りて、またあはれさも増るべしと、しきりになつかしく侍れども、此ごろのさみだれ降つゞきて、道いとあしく、足などもいたくはれて、いとくるしければ、たゞその筋をはるかにみやりて過るに、
かさじまやいづこさつきのぬかり道  ばせを

[おくのほそ道笠島の段]
鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ笠嶋と云。道祖神の社、かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
笠嶋はいづこさ月のぬかり道


「おくのほそ道」と名取/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と名取
元禄2年(1689年)5月4日(新暦6月20日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 四日
雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折ゝ日ノ光見ル。岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
 
○笠島(名取郡之内)、岩沼・搏c之間、左ノ方一里計有。三ノ輪(箕輪)・笠嶋と村並テ有由、行過テ不見。
一 四日
雨少し止む。午前8時頃、白石を立つ。折ゝ日の光見る。岩沼入口の左の方に竹駒明神という神社有リ。その別当の寺(竹駒寺)の後に武隈の松有り。竹垣をして有る。その辺、侍やしき也。古市源七殿(岩沼館主・古市源吉のこと)の住所也。
 
○笠島(名取郡の内)、岩沼と増田の間、左の方一里ばかりに有り。箕輪と笠島の村、並んで有るというが、行き過ぎて見ず。

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第11集 芭 蕉 と名 取
スタートページ

Copyright(C) 2000  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.
 
Maintained online by
webmaster@bashouan.com