藤原実方について
 
藤原実方の墓

JR東北本線・館腰駅の北側から県道・愛島名取線に入り西の山側へ行くと、やがて旧東街道の仙台岩沼線に出る。合流地点から北1.5kmほど先に道祖神社があり、そこから1km余り行くと、「中将藤原実方朝臣の墓」と書かれた背の高い標柱が目に止まる。芭蕉が立ち寄りを断念した彼の実方の墓は、ここからほど近い山際にある。

藤原実方は、平安時代、円融院(村上天皇第五皇子)や花山

院(冷泉天皇の第一皇子)の寵(ちょう)を受け、歌詠みとして広く聞こえた宮廷花形の貴公子で、中古三十六歌仙の一人に数えられる。藤原道綱、道信や源宣方などとの親交や、清少納言など多くの女性たちとの交際が今に伝えられ、宮廷生活の交友歌や恋歌、贈答歌を数多く残している。
[参考]  中古三十六歌仙
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著書に家集「実方朝臣集」があり、実方が詠んだ歌は「拾遺集」などの勅撰集に67首入集し、「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」は「小倉百人一首」に選ばれている。

家系については、小一条左大臣師尹(もろただ)を祖父、従五位上侍従定時を父、左大臣源雅信の娘(藤原道長室倫子の姉妹)を母とする名門の出であるが、父が早逝したためか、実方は叔父の小一条済時(なりとき)の養子となり、済時室の母に養われた。天禄3年(972年)に左近将監に任ぜられ、翌年、従五位下に昇叙、以後は侍従、左近衛権左、左近少将、右馬頭などを歴任し、正暦2年(991年)右近中将、同5年左近中将に任ぜられ、これより藤原姓を略し藤中将と称された。

実方は、長徳元年(995年)正月陸奥守となり、養父済時の死後、喪が明けるのを待って同年9月陸奥へ赴任した。「古事談」や「十訓抄」には、藤原行成との不和がもとで陸奥に左遷させられたとあるが、行成の日記「権記」には、赴任の儀式が滞りなく行われ、この折、実方が一条天皇から特別な詞を受け正四位下に昇叙したことが記されている。更に、「中古三十六歌仙伝」に「兼陸奥守」とあり、実方が左近中将と陸奥守を兼任していたことが認められる。これらから、「左遷」は説話で、陸奥への下向は「風流を求める実方自らの積極的な願望から」とする捉え方もある。

[撰集抄] 殿上人(てんじょうびと)が東山に花見に出かけた折、にわか雨にあった。この時実方は「桜がり雨は降りきぬ同じくは濡るとも花のかげにかくれん」と詠じて木の下に立ち、雨を避けようとはしなかった。このことを聞いた宮廷の書道の大家、藤原行成は「歌はおもしろし、実方は痴(おこ)なり」と評した。

[古事談] 実方はこれを怒り、行成と宮廷で口論となる。実方は勢い余り、行成の冠をとって庭に投げ捨てた。この様子を見ていた天皇は二人の争いに裁定を下し、少しも動じることなく冠を拾わせて事を治めた行成を、見所のある者として蔵人頭に取り立て、実方については「歌枕見てまいれ」といって左近中将を罷免し、陸奥守として左遷させた。


赴任して数年後の長徳4年(998年)12月、実方は赴任先で不慮の死を遂げることとなる。「源平盛衰記」によれば、先例、慣習に頓着しない奔放な人物像が伝えられる藤中将実方の死の経緯は、次の通りである。

終に、奥州名取郡、笠島の道祖神に蹴殺(けころされ)にけり。実方馬に乗りながら、彼(かの)道祖神の前を通らんとしけるに、人の諌て云ひけるは、此神は効験無雙の霊神、賞罰分明也、下馬して再拝して過ぎ給へと云ふ。実方問うて云ふ。何なる神ぞと。答へけるは、これは都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする出雲路の道祖神の女なりけるを、いつきかしづきて、よき夫に合せんとしけるを、商人に嫁ぎて、親に勘当せられて、此国へ追下され給へりけるを、国人是を崇め敬ひて、神事再拝す。上下男女所願ある時は、隠相を造て神前に懸荘り奉りて、是を祈申に叶はずと云事なし、我が御身も都の人なれば、さこそ上り度ましますらめ、敬神再拝し祈申て、故郷に還上給へかしと云ければ、実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及ばずとて、馬を打つて通りけるに、明神怒を成して、馬をも主をも罰し殺し給ひけり。

ついに、実方は奥州名取郡笠島の道祖神に蹴殺された。実方が馬に乗って道祖神の前を通ろうとしたとき、土地の人が諌(いさ)めて「この神は願ったことを叶えてくれる2つとない霊神で、賞罰をはっきりつけてくださる神です。下馬し、再拝してお通りください」と言ったところ、実方は「どのような神か」と聞き返した。「都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におわす出雲路の道祖神のむすめで、親は手厚く養い育て、よき男と一緒にさせようとされたが、商人に嫁いだことから勘当されてこの国へ下されたところを、国人が是を崇(あが)め敬って神として祭り、再拝したのです。身分によらず男女ともに願い事があるときは、陰部を形作って神前にお供えなさってお願いすれば、叶わずということがございません。あなたさまも都の人でいらっしゃるので、ぜひそのようにしてお供えされたらよろしいでしょう。神を敬い再拝され、ご祈願の上で都にお還りなさいませ。」と答えたので、実方は、「さてはこの神は下品な女神ではないか。下馬して再拝するに及ばず」と言い、馬を打って通りすぎたので明神が怒り、馬と実方をともに殺してしまわれた(言い伝えでは、実方は馬が暴れて落馬し、それがもとで病の身となり命を落としたとされる)
(源平盛衰記) 現代語訳:LAP Edc. SOFT


みちのくの旅を先駆けた実方ゆかりの地・笠島は、西行や芭蕉にとって風雅の心が染みる憧憬の地であった。天養元年(1144年)、27歳の頃に陸奥・出羽への旅に出ている西行は、文治2年(1186年)、実方が死して188年の後、再び陸奥へ向かうこととなった。旅の目的は東大寺修復のため砂金勧進を行うことにあった。西行は、この折に実方の墓に立ち寄り、霜枯れのすすきに心を寄せながら詞書と和歌を一首残した。これが史跡「かたみのすすき」の由来である。

みちの国にまかりたりけるに野中に常よりもとおぼしきつかのみえけるを人にとひければ、中将の御はかと申ハこれがこと也と申ければ、中将とハ誰がことぞと又問ければ、実方の御ことなりと申ける。いとかなしかりけり。さらぬだに物哀におぼえけるに霜がれの薄ほのぼのみえ渡りて、後にかたらむ詞なきやうにおぼえて、  
朽もせぬ其名ばかりをとゞめをきてかれのゝ薄かたみにぞみる
(山家集)


元禄2年(1689年)5月3日、芭蕉一行は仙台領に入って白石に一宿し、岩沼の武隈の松に立ち寄った後、名取を目指し奥州街道を北進した。「おくのほそ道」の本文や曽良の「俳諧書留」によれば、「断続的に降り続く五月雨の中ようやく名取に差し掛かり、土民に実方や西行の旧跡の処を尋ねると、右(実際は左)の山際で街道から一里ばかり先という。しかし、日没が迫り、悪路の道中で疲労したため、先行きを案じた芭蕉は、『笠嶋はいづこさ月のぬかり道』の句を詠み、涙をのんで名取の里を後にした」ということになるが、随行日記は、ただ「行過テ不見」を記すばかりである。

鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
笠嶋はいづこさ月のぬかり道
(おくのほそ道)

中將實方の塚の薄も、道より一里ばかり左りの方にといへど、雨ふり、日も暮に及侍れば、わりなく見過しけるに、笠嶋といふ所にといづるも、五月雨の折にふれけ れば、
笠嶋やいづこ五月のぬかり道
(俳諧書留)

笠嶋(名取郡之内。)、岩沼・搏c之間、左ノ方一里斗有。三ノ輪・笠嶋と村並而有由、行過テ不見。(曽良随行日記)


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第11集 芭 蕉 と名 取
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