芭蕉について
 

なぜ岩沼と名取が逆転したか
 

曽良の随行日記には、飯塚(飯坂)以後の旅が白石、岩沼、名取の順に記されてているが、「おくのほそ道」では、次のように、白石、名取、岩沼の順番に紀行が綴られている。
鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。
・・・(中略)・・・
岩沼に宿る。
武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。
  
5 月 3 日 5 月 4 日
雨降り。
   飯坂を立つ(午前9時30分頃)

雨が止む。
   桑折(伊達郡)・・・福島
時々小雨降る。
   伊達ノ大木戸・・・福島
   万ギ沼(馬牛沼)・・・白石
   万ギ山(万牛山)・・・白石
   アブミコブシ[鐙摺]・・・白石
   御影堂[甲冑堂]・・・白石
   白石に泊る
雨少し止む。
   白石を立つ(午前8時頃)。

時々日光が射す。
   岩沼着
   竹駒明神・・・岩沼
   別当寺(竹駒寺)・・・岩沼
   武隈の松・・・岩沼
   笠嶋(名取郡)・・・名取
   中田・・・名取
   長町・・・名取
   夕方仙台着。
   仙台・国分町に泊る

この相違については、芭蕉が道順を忘れた、もしくは錯誤した結果とすると、曽良が傍らで書きつづけた日記の存在を芭蕉が知らないことになり矛盾する。「おくのほそ道」は、紀行文の形態をとりながら処々に文学的虚構をちりばめた著作であり、この岩沼と名取を逆転させた記述についても、何らかの意図を内在させたフィクションと推量される。どのような思惑が加味されたかを考える前に、曽良の随行日記から要点を抜き出し、これと「おくのほそ道」の本文内容を照合してみる。
  
  曽良随行日記 芭蕉の内面考察
芭蕉の表現 感情の高低
体調の良し悪し
飯塚
(飯坂)
・夕方より雨降り、夜になって強くなる。

・飯坂に泊まる。

・湯に入る。

夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入斗になん。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶、夜の余波心すゝまず、馬かりて桑折の駅に出る。遥なる行末をかゝえて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。
(「おくのほそ道」飯塚温泉の章段)
● (悪)
白石 ・白石に泊まる。 鐙摺・白石の城を過、
(「おくのほそ道」笠島の章段)
- -
岩沼 ・折ゝ日の光見る。

・竹駒明神の別当寺(竹駒寺)の後に武隈の松が有る。
岩沼に宿る。
武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ、
桜より松は二木を三月越し

(「おくのほそ道」武隈の松の章段)
○ (良)
名取 ・笠島は、岩沼と増田の間、左の方一里ばかりに有る。

・箕輪と笠島の村が並んで有るというが、行き過ぎて見ていない。
藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
笠嶋はいづこさ月のぬかり道

(「おくのほそ道」笠島の章段)
中將實方の塚の薄も、道より一里ばかり左りの方にといへど、雨ふり、日も暮に及侍れば、わりなく見過しけるに、笠嶋といふ所にといづるも、五月雨の折にふれけ れば、
笠嶋やいづこ五月のぬかり道

(俳諧書留)
● (悪)

まず、飯塚の夜について考えれば、雷雨、雨漏り、虫刺されによる不眠、更には持病が起こって気を失いかけるという、旅中、最大級の「羈旅の難」が語られている。芭蕉の感情や体調を考察し、その高低・良し悪しを記号で示せば、飯塚の当夜の止宿体験は、明らかに(悪)であり、こうした方法で旅程ごとにその推移を示すと[飯塚・・・白石・・・岩沼・・・名取]となる。

飯塚の夜の難儀が主に肉体的にであるのに対し、名取でのは精神面での(悪)である。すなわち、藤中将実方の墓参と、慕わしい西行のゆかりの地に足を踏み入れることのできなかった無念さははかり知れず、「笠嶋やいづこ五月のぬかり道」の句には、悲恋に似た真情が汲み取れる。

旅程の通りなら、この名取のが岩沼の後に控えることになる。しかし、芭蕉は、この岩沼の地でついに一流の歌枕「武隈の松」と対面できたことに歓喜し、この折の、憧憬から感動に移ろいゆく情感を「め覚る心地」の五文字で書き表している。

芭蕉は、この感慨を名取ので掻き消されるのを拒んだ。この拒絶は当地で追懐した古歌人に対する気遣いと捉えてもいいだろう。こうした意図のもとに[飯塚・・・白石・・・名取・・・岩沼]の配置に再編したことにより、感動の余波が宮城野、多賀城、塩釜での歌枕探訪まで緩やかに続き、そして、かの松島で風雅を極む最大のクライマックスを演出するのに成功したと言っていいだろう。

この思惑の実現のため、岩沼を語る前に一旦幕を下げ、白石での宿泊を岩沼泊に移行させたという図式が成り立ち、飯塚の夜の描写については、明と暗を際立たせるために採った「おくのほそ道」中、最大規模の演出と考えることもできるだろう。
  

「おくのほそ道」と岩沼/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と岩沼
元禄2年(1689年)5月4日(新暦6月20日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 四日
雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折ゝ日ノ光見ル。岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。

 
○笠島(名取郡之内)、岩沼・搏c之間、左ノ方一里計有。三ノ輪(箕輪)・笠嶋と村並テ有由、行過テ不見。
一 四日
雨少し止む。午前8時頃、白石を立つ。折ゝ日の光見る。岩沼入口の左の方に竹駒明神という神社有リ。その別当の寺(竹駒寺)の後に武隈の松有り。竹垣をして有る。その辺、侍やしき也。古市源七殿(岩沼館主・古市源吉のこと)の住所也。
 
○笠島(名取郡の内)、岩沼と増田の間、左の方一里ばかりに有り。箕輪と笠島の村、並んで有るというが、行き過ぎて見ず。

 
 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第10集 芭 蕉 と 岩 沼
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