竹駒神社と竹駒寺について
 
竹駒神社(一の鳥居) 東北本線岩沼駅を降りて、駅前大通りをやや進んだところから右に曲がり西大町通りに入る。
産業通りとも呼ばれるこの道を南に500m程進むと神社裏の鳥居が見えてくる。

傍らに「奥の細道」の標柱が建つ朱塗りの鳥居(左写真)から参道に入るには、「二木の松」の西側の道を利用するとよい。
古くから日本三大稲荷の1つに数えられ、祭神は人間の衣・食・住をつかさどる倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、保食神(うけもちのかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)である。このため人々の信仰が厚く、奥州藤原氏や歴代の仙台藩主の庇護を受けた。三大稲荷としては、京都市の伏見稲荷大社を筆頭に、この竹駒神社や、茨城県笠間市の笠間稲荷神社、愛知県豊川市の豊川稲荷大社などがあげられる。

竹駒神社のかつての社殿は仙台藩五代藩主伊達吉村によって造営されたものであったが、平成2年(1990年)に火災で焼失し、4年後の平成6年に現在の社殿が再建された。

竹駒神社は承和9年(842年)に、小倉百人一首にも名を連ねる小野篁(たかむら)が陸奥守として着任した際、東北開拓、産業開発の大神として創建された。小野篁は、承和5年に遣唐船に乗らなかった廉により隠岐に流されたが、同7年に放免され、都に戻っている。小倉百人一首に入集の小野篁の歌は、「わたの原八十島かけてこぎ出ぬと人には告げよあまのつり舟」。

朱塗りの一の鳥居をくぐり、社殿に向かって参道を進むと、平成2年に岩沼市の指定文化財となった随身門(桜門)が見えてくる。文化9年(1812年)に建築されたこの門は彫刻類や意匠に優れ江戸後期の秀作といわれる。神号額は仙台藩七代藩主伊達重村の筆によるもので、神号額の下に掲げられた「丹心報国」の大額は明治の代表的書家中林梧竹の筆による。

更に進むと、随身門と同じ平成2年に岩沼市の指定文化財となった唐門に至る。天保13年(1842年)に建築されたもので、総けやき造り、銅板葺の屋根は随身門と同じだが、こちらは、そり曲がった曲線状の破風を取り入れた唐破風造りとなっている。前後に唐破風がある唐門を向唐門(むかいからもん)というが、規模の面から、向唐門としては宮城県最大級の遺構とされている。

神社境内の北東部に、二木塚と言われる芭蕉句碑が立っており、句碑には「桜より松は二木を三月越」の句が刻まれている。この句碑は芭蕉百年忌にあたる寛政5年(1793年)に建てられたもの。
 
竹駒寺 竹駒寺は中央通りを挟み竹駒神社の東側にある。正式には真言宗宝窟山竹駒寺といい、江戸時代までは竹駒神社の別当寺であった。

竹駒寺は能因法師を開祖とし、縁起には、能因が陸奥を旅する途中、竹駒神社の社の傍らに庵を結んで神に仕え、歌道に精進して悟りを得たとあり、その時の庵が竹駒寺になったという。
竹駒寺は明治2年(1869年)の神仏分離政策で、竹駒神社に隣接する位置から現在の場所に移った。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第10集 芭 蕉 と 岩 沼
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