二木の松(武隈の松)について
 
二木の松(武隈の松)

二木の松史跡公園

白石から国道4号線を北に向かい、国道6号線と合流するところから更に500mほど行くと「二木大通り」と交差する。ここで左に折れしばらく行くと、2本の松の木と見まごうひょろりとした巨木が目に飛び込んでくる。これが歌枕として世に聞こえた「武隈の松」である。

現在の枝葉は、陸奥の厳しい自然の営みを如実に物語っているが、地際から2本に分かれた幹には今なお天を突く勢いが残り、全盛期の雄姿(スケッチ)を彷彿とさせる。

その昔、現在の岩沼が「武隈」と呼ばれたことから、この松は古来「武隈の松」の名で親しまれ、まず藤原元善(良)朝臣により次の歌に詠み込まれた。

「後撰和歌集」
みちのくにの守にまかり下れりけるにたけくまの松の枯れて侍りけるを見て小松を植ゑつがせ侍りて任果てて後又同じ時にまかりなりてかのさきの任に植ゑし松を見侍りて
うゑし時ちぎりやしけむたけくまの松をふたたびあひ見つるかな

  
以後、武隈の松は、藤原実方や橘季通、西行、能因など数多くの歌人に詠まれ、名にし負う陸奥の歌枕として慕われ続けた。

「拾遺和歌集」 藤原為頼
陸奥守にてくだり侍りける時、三条太政大臣の餞し侍りければ、よみ侍りける
たけくまの松を見つつやなぐさめん君がちとせの影にならひて

「後拾遺和歌集」 橘季通
則光朝臣のもとに陸奥に下りて武隈の松をよみ侍りけり
武隈の松はふた木を都人いかがと問はばみきとこたへむ

「後拾遺和歌集」 僧正深覚
橘季通、陸奥に下りて武隈の松を歌によみ侍りけるに、ふた木の松を人とはばみきと答へんなどよみて侍りけるを、つてにききてよみ侍りける
武隈の松は二木をみ木といふはよくよめるにはあらぬなるべし

「後拾遺和歌集」 能因法師
みちの国にふたたび下りて後のたびたけくまの松も侍らざりければよみ侍りける
武隈の松はこのたび跡もなし千歳を経てやわれは来つらむ

「実方集」 藤原実方
みちのくにほど遠ければたけくまの松まつ程ぞ久しかりける

「山家集」 西行
武隈の松も昔になりたりけれども、跡をだにとて見に罷りて詠みける
枯れにける松なき跡の武隈はみきと言ひても甲斐なかるべし

藤原元善(良)朝臣と橘季通の歌碑

現在の松は7代目といわれ、元禄2年に芭蕉が目にした武隈の松は5代目だったという。野火に焼け、烈風に倒伏、ある時は伐採の難に遭いながら、代々植え継がれた二木の松を眼前にして芭蕉は大いに感銘し、「おくのほそ道」に「め覚める心地」、「めでたき松のけしき」と書いて賞賛した。
岩沼に宿る。武隈の松にこそ、め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先能因法師思ひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞に、今将、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍し。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ものゝ餞別したりければ、
桜より松は二木を三月越し

(「武隈の松」の章段)


挙白編の「四季千句」に、本章段の草稿と見られる次の句文が採録されている。
むさし野は桜のうちにうかれ出て、武隈はあやめふく此になりぬ。かの「松みせ申せ遅桜」と云けむ、挙白何がしの名残も思い出て、なつかしきまヽに、
散うせぬ松や二木を三月ごし


現在、二木の松史跡公園の一角に八代目の松が育っている。これは亘理郡山元町で見出されたもので、歴代の武隈の松と同じく地際から2本の幹が伸びている。奥州の名松として、この他に、姉歯の松(宮城県栗原市金成)、阿古耶の松(山形市)、末の松山(宮城県多賀城市)があげられる。芭蕉は、岩沼を訪れた4日後の5月8日、末の松山との対面を果たしている。

末の松山は寺を造りて末松山といふ。 松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も終はかくのごときと悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。
(「末の松山」の章段)

八代目の二木の松(武隈の松)   姉歯の松  末の松山


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第10集 芭 蕉 と 岩 沼
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