芭蕉について
 

不易流行と「猿蓑」について

芭蕉の俳諧理論の根幹をなす「不易流行」の説は「おくのほそ道」の旅の体験を通して更に成熟し、芭蕉は、旅を終えた後の元禄2年(1689年)12月、去来に初めてこの新俳論を直伝した。

奥州行脚の前はままあり。この行脚の内に工夫し給ふと見えたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりす、といふ句あり。後に、あなの二字を捨てらる。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨て給ふ多し。この年の冬、初めて不易流行の教を説き給へり
(去来抄)

マンネリからの脱却を目指し、俳諧に新しみを取り入れることを提唱した「不易流行」については、師説を書き留めた「聞書七日草」(呂丸)、「山中問答」(北枝)、「去来抄」、「三冊子」(土芳)などの門弟の書にその概念を読み取ることができる。

去来は、「贈晋子其角書」や「去来抄」の中で、蕉門俳諧に千歳不易(不変)と一時流行(変化)という対立する内容の教えがあるが、「風雅の誠」をよりどころとする点においてその根本は一つであり、「不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまず」と教えの本質を説き、土芳は「三冊子」の中で「千変万化する物は自然の理也。変化にうつらざれば、風あらたまず。」と書いて、自然界で万物が常に変化すると同様、俳諧も流行し、新しみを取り入れなければ俳風は改まらないことを説いている。

呂丸「聞書七日草」
花を見る、鳥を聞く、たとへ一句にむすびかね候とても、その心づかひ、その心ち、これまた天地流行の俳諧にて、おもひ邪なき物也。


器物、そのほかなにゝよらず、世上に専らと行ハるゝにしたがひ、いろいろのいろ、さまざざまのかたち、変化つかまつるに候へば、あなかしこ、変化を以てこのミちの花と御心得なさるべく候也。こゝに天地固有の俳諧あり。


天地流行の俳諧あり、風俗流行の俳諧あり。只此道ハ、花のもとに、ほとゝぎすの窓に、上ハあたごの風味より、下は木曽路の績桶迄、歌にもれ行茶ごとをももらさゞるの歌なり。


(本書の論は「不易流行説」の原形と見られている。呂丸に語った時点では、まだ「不易」の言葉は使用されていない。)


北枝「山中問答」
蕉門正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺馬鹿の言語になづむべからず。天地を右にし、万物山川草木人倫の本情を忘れず、飛花落葉に遊ぶべし。其姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変に渡る。


「贈晋子其角書」にある去来の言
句に千歳不易のすがたあり。一時流行のすがたあり。これを両端におしへたまへども、その本一なり。一なるは、ともに風雅のまことをとれば也。不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云うことなし。


去来抄
去来曰く、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分けて教へ給へる。その元は一つ也。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風(ふう)新たならず。不易は古へによろしく後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日の風、今日よろしからず。今日の風、明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやることをする也。


土芳「三冊子」
師の風雅に万代不易有り。一時の変化有り。この二つに究まり、その本一つ也。その一つといふは風雅の誠也。不易を知らざれば実(まこと)にしれるにあらず。不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたるすがた也。代々の歌人の歌をみるに、代々その変化あり。また、新古にもわたらず、今見る所むかし見しに変らず、哀なる歌多し。是まづ不易と心得べし。又、千変万化する物は自然の理也。変化にうつらざれば、風あらたまず。是に押しうつらずと云ふは、一旦の流行に口質時を得たるばかりにて、その誠を責めざるゆゑ也。せめず心をこらさざる者、誠の変化を知るといふ事なし。ただ人にあやかりて行くのみ也。せむるものはその地に足をすゑがたく、一歩自然に進む理也。行く末いく千変万化するとも、誠の変化はみな師の俳諧也。かりにも古人の涎(よだれ)をなむる事なかれ。四時(しいし。春夏秋冬)の押しうつるごとく、物あらたまる。皆かくのごとしともいへり。師末期の枕に、門人この後の風雅を問ふ。師のいはく「此みちの、我に出でて百変百化す。しかれども、その境、真、草、行の三つをはなれず。その三つが中にいまだ一二をも尽くさず」と也。生前、をりをりの戯れに、「俳諧いまだ俵口を解かず」ともいひ出でられし事度々也。


「不易流行」を具体的に示した撰集「猿蓑」は、元禄4年(1691年)の7月3日に京都の井筒屋から出版された。門人の許六は「宇陀法師」の中でこれを「俳諧の古今集也」と表し、支考は「発願文」の中で「猿蓑集に至りて花実を備ふ」と絶賛した。
「猿蓑」の編者は去来と凡兆で、芭蕉は元禄4年の5、6月に京都に滞在し「猿蓑」撰の監修をしている。

山岸半残宛・元禄4年5月10日書簡
去来集、追付出来申候。伊賀之風流いづれもいづれも被驚候而、御手柄に候。
[現代語訳] 去来が編集している「猿蓑」はまもなく発行されます。伊賀上野の方々の作品は驚くほどの出来栄えで、よくぞ腕前を発揮されました。


水田正秀宛・元禄4年5月23日付書簡
爰元わりなき集之内相談にて紛候而、其境下向之事遅々といたし、一入御懐布のみに存候。
[現代語訳] このところ、どうにもこうにも「猿蓑」撰についての打ち合わせで忙しく大津に帰るのが遅れてしまい、ひとしお懐かしく思っているところです。


タイトル「猿蓑」は、芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えて故郷伊賀上野に向かう途中、初時雨に震える猿に出会い「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」と詠んだ句に由来する。「猿蓑」では発句の配列が冬、夏、秋、春となっていて、この句がその巻頭を飾っている。「はつしぐれさるもこみのをほしげ也」と書かれた芭蕉真蹟懐紙には、「あつかりし夏も過、悲しかりし秋もくれて、山家に初秋をむかえて はせを」の前書がある。

「猿蓑」は、「冬の日」、「春の日」、「あら野(曠野)」、「ひさご」、 「炭俵」 、死後に刊行された「続猿蓑」とともに芭蕉七部集と呼ばれる。


「おくのほそ道」と白石/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と白石
元禄2年(1689年)5月3日(新暦6月19日)〜5月4日(新暦6月20日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 三日
雨降ル。巳ノ上尅止。飯坂ヲ立。桑折(ダテ郡之内)ヘ二リ。折々小雨降ル。

一 桑折トかいた(貝田)の間ニ伊達ノ大木戸ノ場所有(国見峠ト云山有)。コスゴウトかいた(貝田)トノ間ニ福島領(今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也)ト仙台領(是ヨリ刈田郡之内)トノ堺有。左ノ方、石ヲ重テ有。大仏石ト云由。さい川(斎川)ヨリ十町程前ニ、万ギ沼万ギ山有。 ソノ下ノ道、アブミコブシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ次信・忠信が妻ノ御影堂( 1  2)有。同晩、白石ニ宿ス。一二三五。
 
一 四日
雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折ゝ日ノ光見ル。岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
○笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有。三ノ輪(箕輪)・笠嶋と村並テ有由、行過テ不見。
一 三日
雨降る。午前9時半頃止む。飯坂を立つ。桑折(伊達郡の内)へ二里。折々小雨降る。
一 桑折と貝田の間に伊達の大木戸の場所有り(国見峠という山有り)。越河と貝田との間に福島領(今は桑折より北は御代官の所也)と仙台領(是より刈田郡の内)との国境有り。左の方、石を重ねて有り。大仏石という由。斎川より十町程前に、馬牛沼・万牛山有り。 その下の道、鐙こぶし(鐙摺石)という岩有り。二町程下って右の方に次信(継信)・忠信の妻の御影堂(甲冑堂)有り。同晩、白石に宿す。一二三五。
 
一 四日
雨少し止む。午前8時頃、白石を立つ。折ゝ日の光見る。岩沼入口の左の方に竹駒明神という神社有リ。その別当の寺(竹駒寺)の後に武隈の松有り。竹垣をして有る。その辺、侍やしき也。古市源七殿(岩沼館主・古市源吉のこと)の住所也。
○笠島(名取郡の内)、岩沼と増田の間、左の方一里ばかりに有り。箕輪と笠島の村、並んで有る由、行き過ぎて見ず。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m



 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第9集 芭 蕉 と 白 石
スタートページ

Copyright(C) 1999-2004  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.
 
Maintained online by
webmaster@bashouan.com