甲冑堂について
 
甲冑堂

佐藤継信・忠信兄弟の妻の像を祭る甲冑堂は、福島と宮城の県境と白石市中心部との中間ほどに鎮座する田村神社の境内にあり、御影堂、故将堂などとも呼ばれる。

かつては、神仏が同居し、同敷地に別当寺真言宗遊王山高福寺が建てられていた。

芭蕉と曽良が元禄2年(1689年)5月3日に拝観した甲冑堂は、明治8年(1875年)の6月に

放火で神社とともに焼失し、当時の様子を窺い知ることはできないが、寛政7年(1795年)の橘南谿著「東遊記」に、往時の甲冑堂や謂れが次のように記されている。

奥州白石の城下より一里半南に、斎川といふ駅あり。此の斎川の町末に、高福寺といふ寺あり。奥州筋近年の凶作に此の寺も大破に及び、住持となりても食物乏しければ、僧も住まず。あき寺となり、本尊だに何方へ取納めしにや寺には見えず。庭は草深く、誠に狐梟(こきょう)のすみかといふも余りあり。此の寺に又一つの小堂あり。俗に甲冑堂といふ。堂の書付には故将堂とあり。大きさ僅かに二間四方ばかりの小堂なり。本尊だに右の如くなれば、此の小堂の破損はいふまでもなし。漸うに縁に上り見るに、内に仏とても無く、唯婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。如何なる人の像にやと尋ぬるに、佐藤継信・忠信の妻なりとかや。(中略) 兄弟二人とも他国の土となりて、形見のみかへりしを、母なる人かなしみ歎きて、無事に帰り来る人を見るにつけて、せめては一人なりとも此人々のごとく帰りなばなど泣沈みぬるを、兄弟の妻女其心根を推量し、我が夫の甲冑を著し、長刀を脇ばさみ、いさましげに出立、唯今兄弟凱陣せしと其俤を学び老母に見せ其心をなぐさめしとぞ。其頃の人も二人の婦人の孝心あはれに思ひしにや、其姿を木像に刻みて残し置しとなり。
(東遊記)


現在の甲冑堂は昭和14年(1939年)12月3日に再建されたもので、継信、忠信の妻の話(「佐藤一族と義経について」参照)が国定教科書高等小学校読本でとりあげられたのをきっかけにして、甲冑堂再建の気運が高まり、寄付金などにより実現できたという。

○「芭蕉と福島 佐藤一族と義経について」参照
  
甲冑堂

甲冑堂の扉の奥には、子の戦死を悲しむ母を慰めるために、夫の戦場での出立ちを身にまとい、夫に代わって凱陣を告げたという妻たちの勇ましい姿が蘇っている。

右の座像が継信の妻楓、左が忠信の妻初音で、屏風に見立てた壁画には、楓と、鶯の「初音」に似つかわしい梅の木が描かれている。これらの像は、宮城県柴田町出身の小室達(とおる 1899-1953)の手によ

るもので、小室は伊達政宗公騎馬像を制作した彫刻家としても知られている。

伊達政宗公騎馬像

福島の医王寺の本堂にも、昭和37年(1962年)12月に作られた甲冑姿の妻二人の像が安置されているが、顔の表情は甲冑堂の像と比べるとかなり現代的だ。福島の医王寺では、継信の妻の名は若桜、忠信の妻の名は楓として伝えられている。

医王寺本堂に祭られている、甲冑姿の妻二人の像

堂の傍らには、昭和14年12月3日に再建を記念して建てられたという桃隣の句碑があり、碑には元禄9年(1696年)に詠まれた「戦めく二人の嫁や花あやめ」の句が刻まれている。桃隣は芭蕉の弟子で本名を天野勘兵衛という。芭蕉の(支考代筆)口述遺書の中で「桃隣へ申し候。再会かなはず。力落さるべく候。いよいよ杉風・子冊・八草子よろず御投げかけ、ともかくも一日暮しと存ずべく候」と書かれた人物である。

桃隣の句碑
○「松尾芭蕉の総合年譜と遺書」参照



 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第9集 芭 蕉 と 白 石
スタートページ

Copyright(C) 1999-2002  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.
 
Maintained online by
webmaster@bashouan.com