芭蕉について
 
芭蕉の持病について
飯坂温泉駅前に建つ芭蕉像

飯坂温泉駅前に建つ芭蕉像
飯塚温泉の章段に、夜中に持病が起こって難渋したことが、「夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入斗になん」と記されている。

曽良日記には、これについて何も記されておらず、したがって、この夜の発作を虚構とする捉え方もあるが、「消え入る」は「あまりの苦しさに気を失う」といった意味であり、もし、本文の通り、のみや蚊に刺されながらの病苦だったとすれば、さぞかし大変なことだったろう。

芭蕉を苦しめた持病については多様に伝えられるが、「胆石症からくる胃痙攣(けいれん)」もその1つで、「胃痙攣」については、発作時に激しく痛み、ショック状態に陥ることもあるという。

「笈の小文」の旅でも、貞享4年11月の下旬、熱田で「例の積聚(癪。胃痙攣も癪の内)」、すなわち持病に苦しんでいる。
一とせ此所にて、例の積聚さし出て、薬の事、医師起倒子三節にいひつかはすとて、
薬のむさらでも霜の枕かな
(ただでさえわびしい霜の降る夜に、こんな持病まで起きて薬を飲むことになってしまった。心細さ、せつなさがいっそう身にしみることだ。)

また、持病については次の書簡などでも触れられており、生涯を放浪と俳諧に賭けた芭蕉の、陰なる一面が垣間見られる。

持病心気ざし候処、又咳気いたし、薬給申候。
(貞亨4年11月24日付、44歳時の知足宛書簡

持病下血などたびたび、秋旅四国・西国もけしからずと、先おもひとヾめ候。
(元禄3年4月10日付、47歳時の如行宛書簡)

頃日寒気故、持病散散、神以気分重く御座候間、早々如此御座候。
(元禄4年1月3日付、48歳時の北枝宛書簡)
 

なぜ「飯坂」ではなく「飯塚」なのか

随行日記の五月二日の条に「飯坂ニ宿」とあるので、「温泉あれば湯に入て宿をかる」の地が、湯処「飯坂」であることがわかるのだが、芭蕉は、なぜ「飯坂」を「飯塚」と記したのだろうか。これには、次のような考え方がある。

○「おくのほそ道」は創作を随所に盛り込んだフィクションで、人名、道筋、日付などが、かなりの箇所で実際と異なる内容で記されている。「飯坂」を「飯塚」としたのも、ある種の意図があっての虚構である。

○伊達家文書に政宗の「飯塚入湯の記」というのがあり、また、「伊達家治家記録」の天正十七年四月二十八日の条に「二八日乙巳御痛御療治トシテ、飯塚ヨリ温湯ヲ汲寄セ浴セラル」とあるなど、古くは「飯坂」を「飯塚」と称し、芭蕉がそのことを知って「飯塚」とした。
(この2つの文献については、昔、医王寺の南方に、「信夫郡飯塚村(現在の福島市飯坂町平野の内)」が実在したので、当地を指すとの解釈もある。)

○単なる誤記。


「おくのほそ道」と福島/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と福島
元禄2年(1689年)5月1日(新暦6月17日)〜5月3日(新暦6月19日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 五月朔日
天気快晴。日出ノ比、宿ヲ出、
壱里半来テヒハダ(日和田)ノ宿、馬次也。町はづれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱り塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いづれの谷にも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、不しん也。
二本松の町、奥方ノはづれニ亀ガヒト云町有。ソレヨリ右之方ヘ切レ、右ハ田、左ハ山ギワヲ通リテ壱リ程行テ、供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。その向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。又、近所ニ観音堂有。大岩石タヽミ上ゲタル所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。右ノ杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らんト別当坊申ス。天台宗也。それヨリ又、右ノ渡ヲ跡ヘ越、舟着ノ岸ヨリ細道ヲつたひ、村之内ヘかゝり、福岡村ト云所ヨリ二本松ノ方ヘ本道ヘ出ル。二本松ヨリ八町ノめヘハ二リ余。黒塚ヘかゝりテハ三里余有べし。
 
八町ノめヨリシノブ郡ニテ福島領也。福島町ヨリ五、六丁前、郷ノ目村ニテ神尾氏ヲ尋。三月廿九日、江戸ヘ被参由ニテ、御内・御袋ヘ逢、すぐニ福嶋ヘ到テ宿ス。日未少シ残ル。宿キレイ也。 
 
一 二日
快晴。福島ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラべ
(五十辺)村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七、八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。
 
文知摺観音
ソレヨリ十七、八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六、七本有。虎が清水ト云小ク浅キ水有。福島ヨリ東ノ方也。其辺ヲ山口村ト云、ソレヨリ瀬ノウヱヘ出ルニハ月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ十四、五丁ニテ瀬ノウヱ也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ弐里程也。
 
医王寺
一 瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ兄弟ノハタザホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年、弐本ヅゝ同ジ様ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。
 
 
飯坂
福島ヨリ弐里。こほり
(桑折)ヨリモ弐里。瀬ノウヱヨリ壱リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福島ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト可行。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福島ト出タル由。昼ヨリ曇、夕方ヨリ雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿。湯ニ入。
 
一 三日
雨降ル。巳ノ上尅止。飯坂ヲ立。桑折(ダテ郡之内)ヘ二リ。折々小雨降ル。
一 五月一日
天気快晴。日の出の頃、郡山の宿を出、一里半来て日和田の宿、馬継也。町はづれ五、六丁程過ぎて、安積山有り。一里塚の際、右の方にある小山也。安積の沼、左の方、谷也。皆、田に成り、沼も少し残る。すべてその辺、山より水が出るゆえ、いづれの谷にも田が有る。いにしへは皆沼だったろうと思われる。山の井はこれより(道より左)西の方(大山の根)三里程有り、帷子(郡山市片平町)という村(高倉という宿より安達郡の内)に山の井清水というのが有る。古歌にあるのと違うようだ。
二本松の町、奥の方のはづれに亀谷という町有り。それより右の方へ曲がると、右は田で、左には、山際を通って一里程行くと、供中の渡という阿武隈川を越す舟渡しが有る。その向こうに黒塚有り。小さな塚に杉が植えて有る。又、近所に観音堂有り。観音堂は大岩石を畳み上げた所の後に有る。古の黒塚はこれだろう。右の杉を植えた所は鬼を埋めた所だろうと別当坊が言う。天台宗也。それより又、右の渡しをあとにして阿武隈川を越え、舟着きの岸より細道を伝って、村の内ヘかゝり、福岡村という所より二本松の方ヘ奥州街道ヘ出る。二本松より八町の目ヘは二里余り。黒塚ヘかゝると三里余り。
八町の目より信夫郡にて福島領也。福島町より五、六丁前の、郷ノ目村(福島市郷野目)にて神尾氏を尋ねる。三月廿九日、江戸へ参られた由にて、御内儀・母堂へ逢う。すぐに福嶋へ着いて宿す。日まだ少し残る。宿きれい也。
 
一 二日
快晴。福島を出る。町はずれ十町程過ぎて、五十辺村(福島市内)はずれに川有り。川を越えずに、右の方へ七、八丁行って、阿武隈川を船にて越す。岡部の渡しという。
 
文知摺観音
それより十七、八丁、山の方ヘ行って、谷あいに文知摺石あり。柵が築いて有る。草の観音堂(文知摺観音堂)有り。杉や檜、六、七本有り。虎が清水という小さく浅い水有り。福島より東の方也。その辺を山口村という。それより瀬の上へ出るには月の輪の渡しといって、岡部の渡しより下にある渡しを使う。それを渡れば十四、五丁にて瀬の上に至る。山口村より瀬の上へ二里程。
 
医王寺
一 瀬の上より佐場野ヘ行く。佐藤庄司の寺が有る。寺の門へは入らず。西の方へ行く。堂有り。堂の後の方に庄司夫婦の石塔有り。堂の北の脇に兄弟(継信、忠信)の石塔有り。その脇に「兄弟ノハタザホ(旗竿)ヲサシタレバはた出シ」という竹有り。毎年、二本づつ同じ様に生ず。寺には判官(義経)殿の笈、弁慶が書いた般若心経などがある由。系図も有る由。
 
飯坂
福島より二里。桑折(伊達郡桑折町)からも二里。瀬の上一里半。川を越え、十町程東に飯坂という所有り。湯有り。村の上に庄司館跡(大鳥城址)有り。下るには福島より佐波野、飯坂、桑折と行き、上りは、桑折、飯坂、佐場野、福島と出る由。昼より曇り、夕方より雨降る。夜に入り、強くなる。飯坂に宿す。湯に入る。
 
一 三日
雨降る。午前9時半頃止む。飯坂を立つ。桑折(伊達郡の内)へ二里。折々小雨降る。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第8集 芭 蕉 と 福 島
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