しのぶもぢ摺について
 
文知摺石 子どもの頃、白っぽいズボンをはいて原っぱで転び、膝のあたりを緑色に染めてしまったことがある。「しのぶもぢ摺り」は、まさにこの原理を利用した染め方で、捩(もじ)れ乱れた模様のある石に布をあてがい、その上から忍(しのぶ)草などの葉や茎の色素を摺り(すり)付けたものをいう。

「しのぶもぢ摺り」は、当て字を使用し、古来「信夫文知(文字)摺」などと表されている。
この石の存在を伝える文献としては「おくのほそ道」が最も早いとされており、その中で「しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行・・・」と書かれた巨石・文知摺石が、文知摺観音の敷地の中に柵に囲まれて鎮座している。

この石は、芭蕉がここを訪れたとき半分ほど土に埋まっていたそうで、付近の子どもがその経緯を次のように語ったという。
昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、・・・ (その石は、むかし山の上にあったのですが、ここを通る人たちが麦の葉っぱを取り荒らしてその石にこすっていくのを嫌い、村の人がこの谷に突き落としたものだから)
  
この文知摺石には、次のような伝説があり「鏡石」とも呼ばれる。

嵯峨天皇の皇子で、河原左大臣こと中納言源融(みなもとのとおる)が按察使(あぜち)として陸奥国に出向いていたが、ある日、文知摺石を訪ねて信夫の里にやってきた。源融は村長の家に泊まり、美しく、気立てのやさしい娘・虎女を見初めてしまう。融の逗留は一ヶ月余りにもおよび、いつしか二人は愛し合うようになっていた。しかし、融のもとへ都に帰るように綴られた文が届き、幸せな日々に区切りを置くことになる。別れを悲しむ虎女に融は再会を約束し、都に旅立った。残された虎女は、融恋しさのあまり、文知摺石を麦草で磨き、ついに融の面影を鏡のようにこの石に映し出すことができた。が、このとき既に虎女は精魂尽き果てており、融との再会を果たすことなく、ついに身をやつし、果てた。

源融は二度と虎女と会うことはなかったが、虎女との恋の内に次の歌を残した。

みちのくのしのぶもぢずり誰故に乱れむと思ふ我ならなくに (古今和歌集)
(あなた以外のだれのために、みちのくのしのぶもぢずりの乱れ模様のように心を乱す、わたしでありましょうか。)

○「伊勢物語」や「百人一首」では、下の句が「乱れ初めにし我ならなくに」と改められている。

○源融は、加茂川にほどちかい六条あたりの邸宅河原院の池に、わざわざ海水を運んで塩釜の浦を作り上げ、海水を使って藻塩を焼く(製塩の手法)風雅を楽しんだことから河原左大臣といわれた。

○源融は、実際には陸奥国に赴任しない「遙任」であったとされている。(源融について)


文知摺石は、元禄9年の桃隣「陸奥鵆」に「長サ一丈五寸(約315cm)、幅七尺余(約210cm)」の大きさとあるが、その後次第に埋まり、明治になると地上からわずかに頭を出すまで(高さ一尺、縦五尺、横三尺)になったという。信夫郡長の柴山景綱がこれを掘りおこし、今日の姿にしている。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第8集 芭 蕉 と 福 島
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