芭蕉について
 

芭蕉と「花かつみ」

郡山市立日和田公民館
地元の郡山市は、「花かつみ」をアヤメ科の多年草「姫シャガ」として、市花にしている。写真は、「姫シャガ」の絵を壁に飾る郡山市日和田公民館(JR東北本線の日和田駅前)。

姫シャガ  姫シャガ
 八重咲き姫シャガ     白花姫シャガ
安積山の段で書かれている「花かつみ」とは、どのような花を指すのだろうか。これについては昔から論議されているところで、今もって判然としていない。

「能因法師集」の中に、「こもの花さきたるをみて」 の詞書につづけて、「はなかつみおひたるみればみちのくのあさかの沼のこゝちこそすれ」と詠まれた歌があることから、古い時代、「花かつみ」は、菰(こも)、真菰(まこも)を指していたと思われる。

ただし、この植物は鑑賞用としてはいささか不似合いなイネ科の多年草で、穂を食用にしていた時代もあるという。

これに対して、「花かつみ」を古来から菖蒲(しょうぶ)、アヤメであるとする説もあり、長きにわたって意見が対立している。
 
ちなみに、東京都葛飾区の堀切にある「都立堀切菖蒲園」の花菖蒲は、15世紀末に、堀切村の地頭、窪寺胤次の家臣が安積沼から持ち帰った「花かつみ」が変化した品種を園に植えたのが始まりという。

「花かつみ」については、古今和歌集・巻十四の詠み人しらずの恋の歌、「みちのくのあさかのぬまの花かつみかつ見る人に恋やわたらん」(みちのくの安積沼に咲いている花かつみのような美しい人と恋をして会っているのだから、彼女とはいつまでも同じ気持ちでいたいものだ)により古くから知られており、また、平安中期の歌人、藤原実方(藤中将実方)が陸奥に下向したときに、端午の節句で軒にさす菖蒲がこの地域で生育していないことを知り、それなら代わりに安積沼の「かつみ」で代用するように命じたという有名な故事が、鴨長明の「無名抄」に書かれている。
五月五日かつみを葺く事  或人云、橘為仲みちのくにの守に下りける時、五月五日に家ごとに菰を葺きければ、あやしみてこれを問。其所の荘官、この国には昔より今日しょうぶ葺くといふことを知らず。然るを故中将のみたちの御時、今日はあやめ葺く者をたずねて葺けと侍ければ、此国にはしょうぶなき由を申侍けり。その時、さらば安積の沼のはながつみという物あらむ。それを葺けと侍しよりかく葺きつめけるといひける。中将のみたちとは、実方の朝臣なり。 (無名抄)

古歌や故事などに通じていた芭蕉は、「おくのほそ道」の旅を目前に控えた元禄2年(1689年)3月、門人猿雖宛の書簡に「彌生に至り、待侘候。塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみふくころより北の国にめぐり、秋の初、冬までには、みの・おはりへ出候。」と書いており、「花かつみ」については並々ならぬ関心を寄せていたことがうかがえる。

等躬編の「葱摺」によれば、須賀川に滞在中、芭蕉は日和田行きを前にして「花かつみ」のことを等躬に尋ねたが、
等躬は「いにしえ藤中将の伝へられし花かつみの草のゆかりも、いづれのなにとしる人侍らず」と答えている。しかし、芭蕉は諦めきれず、安積山あたりで「かつみかつみ」と探し回るが、とうとう見つけられなかった、というのである。
 

「おくのほそ道」と郡山/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と郡山
元禄2年(1689年)4月29日(新暦6月16日)〜5月1日(新暦6月17日)
< 元禄2年の4月は29日まで >
曽良随行日記<原文> 現代語
一 廿九日
快晴。巳中尅、発足。石河滝(乙字ケ滝)見ニ行。(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡) 須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハヾ百二、三十間も有之。滝ハ筋かヘニ百五、六十間も可有。高サ二丈、壱丈五、六尺、所ニヨリ壱丈計ノ所も有之。
 
それヨリ川ヲ左ニナシ、壱里計下リテ向、小作田村と云馬次有。ソレヨリ弐里下リ、守山宿と云馬次有。御代官諸星庄兵衛殿支配也。問屋善兵衛方(手代湯原半太夫)ヘ幽碩ヨリ状被添故、殊之外取持。又、本実坊・善法寺ヘ矢内弥市右衛門状遣ス。則、善兵衛、矢内(案内の誤りか)ニテ、先大元明王へ参詣。裏門ヨリ本実坊へ寄、善法寺へ案内シテ本実坊同道ニテ行。雪村歌仙絵・讃宗鑑之由、見物。内、人丸・定家・業平・素性・躬恒五ふく、智證大し並金岡がカケル不動拝ス。探幽ガ大元明王ヲ拝ム。守山迄ハ乍単ヨリ馬ニテ被送、昼飯調テ被添。守山ヨリ善兵衛馬ニテ郡山(二本松領)迄送ル。カナヤト云村へかゝり、アブクマ川ヲ舟ニテ越、本通日出山ヘ出ル。守山ヨリ郡山ヘ弐里余、日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ。
 
一 五月朔日
天気快晴。日出ノ比、宿ヲ出、壱里半来テヒハダ(日和田)ノ宿、馬次也。町はづれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱り塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いづれの谷にも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、不しん也。
一 廿九日
快晴。午前10時頃、須賀川・相楽等躬宅を発足。石河滝(乙字ケ滝)を見に行く。(この間、笹川という宿より安積郡に入る)。須賀川より南東の方一里半ばかりのところに有る。滝より十余丁下を渡り、上へ登る。徒歩なら滝の上を渡れば余程近い由。阿武隈川也。川幅百二、三十間も有る。滝は、川を斜めに切って落ち、幅はニ百五、六十間もあるだろう。滝の高さは二丈、一丈五、六尺、所によっては一丈ほども有る。
石河滝より阿武隈川を左に見て一里ばかり下ると、小作田村という馬継が有る。それより二里下ると、守山宿(郡山市田村町守山)という馬継有り。御代官諸星庄兵衛殿が支配する所。問屋・善兵衛方(手代湯原半太夫)ヘの幽碩(祐碩。等雲)の紹介状により、格別な接待を受ける。又、本実坊・善法寺ヘの矢内弥市右衛門(素蘭)の紹介状もあり。則ち、善兵衛の案内にて、先ず大元明王へ参詣。裏門より本実坊へ寄り、本実坊同道、案内にて善法寺へ行く。雪村歌仙絵(讃宗、鑑の由)を見物。歌仙絵の内の人丸、定家、業平、素性、躬恒の五幅の掛物、智證大師(円珍)並びに金岡が描いた不動明王を拝す。探幽が描いた大元明王を拝む。守山迄は乍単(相楽等躬)差し向けの馬で送られる、昼飯も調て添えられる。守山より善兵衛が馬にて郡山(二本松領)迄送る。金屋という村へかゝり、阿武隈川を舟にて越え、奥州街道、日出山へ出る。守山より郡山へ二里余り、日の入前に、郡山に到って宿す。宿、むさ苦し。
一 五月一日
天気快晴。日の出の頃、郡山の宿を出、一里半来て日和田の宿、馬継也。町はづれ五、六丁程過ぎて、安積山有り。一里塚の際、右の方にある小山也。安積の沼、左の方、谷也。皆、田に成り、沼も少し残る。すべてその辺、山より水が出るゆえ、いづれの谷にも田が有る。いにしへは皆沼だったろうと思われる。山の井はこれより(道より左)西の方(大山の根)三里程有り、帷子(郡山市片平町)という村(高倉という宿より安達郡の内)に山の井清水というのが有る。古歌にあるのと違うようだ。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第6集 芭 蕉 と 郡 山
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