「かげ沼」について
 
かげ沼(鏡沼)跡

「おくのほそ道」の須賀川の章段に「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず」のくだりがある。「かげ沼」は、そのむかし蜃気楼現象に纏わって広く知られたが、「かげ沼」の解釈については諸説あり、その正体は未だに判然としていない。

須賀川市立博物館の学芸員によれば、「かげ沼」は特定の沼の呼び名ではなく、むかし、矢吹から須賀川にかけて湿地が続き、辺り一帯が「かげ沼」と

呼ばれていたそうだが、江間氏親著「東遊行嚢抄」(元禄9年自序)の記事がこうした「かげ沼」地域説を裏付けている。

影沼新田、此も馬を次ぐ所也。民屋七十間軒有て、名所という
。或書に、影沼は空曇る日は、物影不見、往昔は遙に望ば、水波茫々として、望無涯、飛鳥影をうつし、馬蹄波を払へりと。按ずるに、影ろひは、春夏の交、地気蒸し上て日に映す。即荘子に所謂野馬也。田間の遊気也。之を遊絲とも云ひ、遠く見れば積気なり。かの土人、野を号てかげぬまと云ふも、心なきにあらずと云々。
(東遊行嚢抄)


本書が、特定の湖沼をあげることなく、街道宿の影沼新田を名所「かげ沼」の地と記し、当地の湿地帯という地理的特徴が蜃気楼現象を誘発していたことを窺わせているのに対し、昭和30年頃に地元の板倉家で発見された古写本「井中蛙話記(せいちゅうあわき)」は、「かげ沼」を具体的な沼として取り上げ、同様に、蜃気楼の発生についても触れている。

一、岩瀬郡鏡沼の村内には流水無き所なり。然るに昔より折々日中に波立ちて、往来の人、裾を浸すが如く見ゆる事ありと申し伝へり。往古の事は噺(はなし)伝へのみ成るが、元文年中其事ありて、村の中程にて、腰膝を蟄(かがめ)、頭を下げ南に向って見れば、慥(たしか)に波ともわからねども、ちらちらして、往来する人、波の内を通ると見へて、其の人近付来れば見へずなりぬ。是、何の故と云ふことを知らず。爰に里より拾丁余西に影沼と云う村の名所と云ひ伝ふ所あり。老人の語りしは此の沼より移る波影とも云へり。鏡沼は往古、影沼の廻りに家立ちありしに寛永九申年村居をかへてより今の里なり。影沼は地低なる田の中にわずかなる沼の跡のみなるに、其の水波今の村立へ遠く移り見へると云ふ事未審(いぶかし)。(中略)又、はせを(芭蕉)の翁、行脚の記(おくのほそ道)に、かげ沼と云所を行くに、今日は空曇りて物影うつらず。須賀川の駅なる等躬といふものを尋ぬ、と記し給へし。是は元禄二年の夏なるべし。さあれば、貞享・元禄の頃も専ら影のうつり見へたるべし。翁又、かげ沼へ廻りたるにもあるまじ。鏡沼の里を行くに記し給ふと見へたり。古昔は影沼の里なりしを、いつの頃よりか鏡沼と云ひ変へたりと申すなり。天正以来は鏡沼といふなり。
(井中蛙話記)


ここに書かれた「里より拾丁余西」にある沼が、鏡石町が史跡として紹介している「かげ沼」であり、小公園風に整備した跡地に「鏡沼跡」碑を建てて顕彰している。「鏡沼」は、「井中蛙話記」にあるように「かげ沼」の別称で、和田胤長にまつわる下記の説話が残されている。現在の沼は直径4mほどしかないが、文化元年(1804年)に白河藩主松平定信が測量させた当時は16坪(約53平方メートル)ほどの大きさだったという。

建保元年(1213年)、信濃源氏の泉親衡が北条討伐の謀反を策し加盟者は捕らえられた。和田胤長もこれに参加した為、岩瀬郡稲村に配流され、5月9日誅された。夫の身を案じた妻は鎌倉よりこの地に至り里人に夫の死を知らされ、鏡をいだき沼に入水して果てた。以来この沼を鏡沼というと伝える。(現地の案内板から)

かげ沼というところを行くに今日は空曇りて物影うつらず
俳聖松尾芭蕉が奥の細道紀行文 元禄二年(1689)四月二十三日に記してある「かげ沼」として広く世に知られており、鏡石町の貴重な史跡である。
(鏡沼跡碑から)

平成11年(1999年)撮影の史跡「かげ沼」


このほかに、「かげ沼」を「蜃気楼現象そのもの」と捉える解釈も成されている。もし、芭蕉が旧街道から2、3kmほど行ったところの彼の沼を「かげ沼」と承知していれば、立ち寄った可能は大きいのだが、これ以外の認識であったなら、「かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず」は、「道中、かげ沼という所を通り過ぎたが・・・」といったような受け取り方になるだろう。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第5集 芭 蕉 と 須 賀 川
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