可伸庵「軒の栗」碑の歴史
おくのほそ道文学館収蔵
栗の木と「軒の栗」碑
 
 
 
 













  













































西




便








西















































宿







曽良随行日記の5月23日の条に「晩方ヘ可伸ニ遊、帰ニ寺々八幡ヲ拝。」とあり、翌日の条に「昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。」と記されていることから、芭蕉は、須賀川到着の翌日、相楽等躬邸の一隅に庵を結んで遁世する可伸(栗斎)の庵を訪問し、次の日、庵を会場にして歌仙が巻かれたことが知られる。この折の連衆は、芭蕉、栗斎、等躬、曽良に土地の俳人等雲、須竿、素蘭を加えた7人だった。

芭蕉の挨拶句「
かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗」を発句として巻かれた七吟歌仙は次の通りで、歌仙内容は等躬編「伊達衣」に拠っている。この「かくれ家や」歌仙を記す芭蕉真筆は、土地の名家に伝来され、朝日新聞社編「おくのほそ道図譜」などでその全貌を見ることができる。等躬に贈られたもう一幅の芭蕉真筆もあるようだが、委細については不明である。
  
歌仙「かくれ家や」の巻
かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗
まれに蛍のとまる露艸
切崩す山の井の名は有ふれて
畔づたひする石の棚橋
把ねたる真柴に月の暮かゝり
秋知りの皃の矮屋離れず
梓弓矢の羽の露を乾かせて
願書をよめる暁の声
松歯朶に吹弱りたる年の暮
酒の遺恨を言ふ心なし
聟入は誰に聞ても恥しき
戯れて送れる傾城の文
貧しさを神に恨むる拙さよ
月のひずみを心より見る
独して沙魚釣兼し高瀬守
笠の端を摺る芦のうら枯
梅に出て初瀬や芳野は花の時
かすめる谷に鉦皷折々
芭蕉
栗斎
等躬
曽良
等雲
須竿
素蘭
芭蕉
栗斎
等躬
曽良
等雲
須竿
素蘭
等躬
栗斎
芭蕉
曽良
あるほどに春をしらする鳥の声
水許されぬ黒髪ぞ憂き
まだ雛をいたはる年の美しく
抱へし琴の膝やおもたき
転寝の夢さへうとき御所の中
朴をかたる市の酒酔
行僧に三社の詫を戴きて
乗合まてば明六の鐘
伽になる嶋鴨の餌を慕ひ
四五日月を見たる蜑の屋
徒にのみかひなき里のむらもみぢ
鹿の音絶て祭せぬ宮
冠をも落すばかりに泣しほれ
うつかり続く文を忘るゝ
恋すれば世にうとまれてにくい頬
気もせきせはし忍夜の道
入口は四門に法の花の山
つばめをとむる蓬生の垣
素蘭
等躬
須竿
芭蕉
須竿
等雲
曽良
素蘭
等躬
栗斎
等雲
曽良
芭蕉
等躬
素蘭
栗斎
曽良
等雲
(伊達衣)
歌仙「隠家や」の巻 (俳諧書留)
隱家やめにたゝぬ花を軒の栗
稀に螢のとまる露艸
切くつす山の井の井は有ふれて
畔つたひする石の棚はし
  歌仙終略ス
  連衆 等雲 須竿 素蘭以上七人

栗齋
等躬
曽良

「軒の栗」碑、建立される

上の歌仙から、「おくのほそ道」に記された「世の人の見付ぬ花や軒の栗」の初案を窺うことができるが、これの句碑が、現在、相楽等躬邸跡とされるNTT須賀川の敷地の西側、可伸庵跡に建っている。

この句碑は、江戸後期の文政8年(1825年)8月に、土地の俳人石井雨考が同郷の俳人竹馬、英之、阿堂らと共に、芭蕉が庵からの帰りに立ち寄った八幡社の境内に建立したものである。石井雨考は、「蕉門録」の編者・藤井晋流門下の二階堂桃に学んだ須賀川の俳人で、寛政5年(1793年)、芭蕉の百回忌を盛大に修している。
  

増補行程記-須賀川

盛岡藩士清水秋全が宝暦元年(1751年)に著作した「増補行程記」中の「須賀川」の絵図。
絵図に描かれていないが、八幡社の北隣に別当の岩瀬寺があった。
「増補行程記」が描かれた当時、まだ句碑の建立は行われていない。
「増補行程記」展示室-須賀川  ○現在の須賀川市の地図

「軒の栗」碑、小学校の敷地に位置する

須賀川第一小学校の校舎 明治2年(1869年)、神仏分離政策により八幡社の別当岩瀬寺が廃寺となり、明治11年(1878年)に八幡神社が神炊館神社に合祀されたことから、「軒の栗」碑の周辺は大きく様変わりし、更に、5年後の明治16年(1883年)、神社の跡地に須賀川小学校の校舎が建設された。

神社の境内にひっそりと佇んで参拝者を迎えていた「軒の栗」碑は、今度は、校庭の一角に位置して、元気一杯の小学生の声を聞くこととなった。

学校は、4年後の明治20年(1887年)に須賀川尋常高
等小学校に改められ、明治42年(1909年)に第一、第二小学校に分離されて第一小学校となり、昭和16年(1941年)、国民学校と改称された。上の写真(LAP Edc. SOFTが所有する昭和7年発行の「須賀川」より)は、昭和7年(1932年)当時の第一小学校を写したものである。

須賀川町(当時)は、昭和19年(1944年)、20年に、東京の江古田から500人を越える疎開児を迎え、町内の長松院や長禄寺、勝誓寺を宿舎に割り当てた。このとき江古田の子供たちの学んだ学校の1つが、校庭に「軒の栗」碑が建つこの国民学校だった。

「軒の栗」碑、可伸庵跡に移転する

可伸庵跡 昭和41年(1966年)になって、第一小学校が500mほど西の大黒町に新築・移転し、3年後の昭和44年(1969年)、跡地に須賀川市庁舎が建築された。

その後、「軒の栗」碑は市庁舎敷地の北東角に佇んだが、平成元年(1989年)、当地に「須賀川芭蕉記念館」が建てられることになったため、「軒の栗」碑は、その昔、可伸が隠棲していた庵の跡地に移転された。

160余年後、ついに、ゆかりの地に身を置くことになった「軒の栗」碑は、「主人」を追慕しながら、今日も、俳句や芭蕉、「おくのほそ道」に親しむ人々を暖かく迎えている。

< TOP >


掲載のデータについて

本ページに掲載の
テキストデータや画像データの無断使用・転載を禁止します。


おくのほそ道 総合データベース

俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡


第5集 芭蕉と須賀川

松尾芭蕉・おくのほそ道文学館


Copyright(C) 2002-2006  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.
 
Maintained online by webmaster@bashouan.com
 
LAP Edc. SOFTのホームページ

 
LAP Edc. SOFTのホームページ