芭蕉が須賀川に残した8日間の足跡
おくのほそ道文学館収蔵

白河の関越えを果たした芭蕉は、矢吹の宿を経て須賀川に至り、俳友相楽等躬宅に8日間にわたって滞在した。当地では、風流人との交流を図って排席が重ねられ、「おくのほそ道」所収の二句、「風流の初やおくの田植歌」、「かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗」を詠みあげた。

元禄2年(1689年)4月22日(新暦6月9日)

おくのほそ道
とかくして越行まゝに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先白河の関いかにこえつるやと問。長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。
  風流の初やおくの田植うた
無下にこえんもさすがにと語れば、脇・第三とつゞけて、三巻となしぬ。

 
曽良随行日記
一 廿二日  須か川、乍単斎宿、俳有。
 

旗宿・関跡1

関山

かげ沼跡

増補行程記

等躬屋敷跡
 
4月21日旗宿を立った芭蕉一行は、標高619mの関山を越えて奥州街道に入り、同夜矢吹に一泊。明くる22日、蜃気楼現象で知られた「かげ沼」の地を経て奥州街道を更に北進し、須賀川本町の相楽等躬(とうきゅう)宅に到着した。芭蕉と等躬は、当時問屋を営んでいた等躬が江戸出府の折に俳諧を通して知り合った仲と見られ、それぞれの師、北村季吟と石田末得がともに松永貞徳門下であるゆえ二人は同門・孫弟子の間柄であった。等躬は、芭蕉が延宝5年(1677年)または同6年に万句興行を催して立机披露をした際、次の発句を贈呈している。

桃青万句に 三吉野や世上の花を目八分 等躬
(岸本調和編「富士石」)

等躬の祖は、南朝の忠臣として知られる白河結城氏で、後代、晴常の時に、白河から中畑(福島県矢吹町の内)に移って山城を築き城主となった。晴常の子晴辰を継いだ弟の晴時が、奥州に進軍する豊臣秀吉に同調せず、天正17年(1589年)自ら城を捨てて歯向かい、勢至堂峠の馬尾滝で秀吉を銃で狙撃した。弾を逸らし、秀吉殺害に失敗した晴時は隈井姓に変えて身を隠し、天正19年(1591年)、蒲生氏郷に従い九戸政実の乱(九戸一揆)に出陣し、討死した。

残された子晴倶が幼少であったため、家臣の相楽孫右衛門が預って須賀川に逃れた。成長後、晴倶は結城から相楽姓に名を変え、その五男が、分家した甚左衛門貞栄であり、相楽等躬はその子伊左衛門である。伊左衛門は、はじめ乍憚(さたん)または乍単斎(さたんさい)と号し、後に等躬、晩年になって藤躬と号した。芭蕉が訪れたころ、問屋を営んだ等躬は、今の市長にあたる駅長の職を兼ねていた。

須賀川到着の夜、等躬宅では芭蕉と曽良を歓迎する宴席が設けられ、引き続き、三者による三吟歌仙の会が催された。席上、等躬に「白河の関いかにこえつるや(白河の関では、どんな句を詠んで越えられましたか)」と問われた芭蕉は、「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず(長い旅の苦労のために心身ともに疲れ、その上、すばらしい風景に心をうばわれ、むかしのことを考えると懐かしさに堪えかねて、いい句を案ずることができませんでした)」と述懐し、陸奥国入りの感慨を「風流の初やおくの田植うた」の句に込めて示している。

この「風流の初やおくの田植うた」を発句とした三吟歌仙は、曽良の俳諧書留や等躬編「葱摺(しのぶずり)」に見られる。
    
歌仙「風流の」の巻
風流の初やおくの田植歌
覆盆子を折て我まうけ草
水せきて昼寝の石やなをすらん
ビクにカジカの声生かす也
一葉して月に益なき川柳
雇にやねふく村ぞ秋なる
賤の女が上総念佛に茶を汲て
世をたのしやとすゞむ敷もの
有時は蝉にも夢の入ぬらん
樟の小枝に恋をへだてゝ
恨てハ嫁が畑の名もにくし
霜降山や白髪おもかげ
酒盛は軍を送る關に来て
秋をしる身とものよみし僧
更ル夜の壁突破る鹿の角
嶋の御伽の泣ふせる月
色々の祈を花にこもりゐて
かなしき骨をつなぐ糸遊
芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
山鳥の尾にをくとしやむかふらん
芹堀ばかり清水つめたき
薪引雪車一筋の跡有て
をのをの武士の冬籠る宿
筆とらぬ物ゆへ恋の世にあハず
宮にめされしうき名はづかし
手枕にほそき肱をさし入て
何やら事のたらぬ七夕
住かへる宿の柱の月を見よ
薄あからむ六条が髪
切樒枝うるさゝに撰殘し
太山つぐミの声ぞ時雨るゝ
さびしさや湯守も寒くなるまゝに
殺生石の下はしる水
花遠き馬に遊行を導て
酒のまよひのさむる春風
六十の後こそ人の正月なれ
蚕飼する屋に小袖かさなる

芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
芭蕉
等躬
曽良
(曽良俳諧書留)

4月23日(新暦6月10日)

おくのほそ道
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。
 
曽良随行日記
  廿三日  同所滞留。晩方ヘ可伸ニ遊、帰ニ寺々八幡ヲ拝。
 

可伸庵跡

蕪村筆画巻

四代目の栗の木

おくのほそ道碑

「軒の栗」碑

等躬宅で2日目を迎えた芭蕉は、晩方、等躬屋敷の一隅に庵を結ぶ僧・可伸を訪ねた。可伸は、栗斎と号し、俗名を簗井弥三郎と言った。可伸の庵には「大きなる栗の木」があり、芭蕉が訪れたころちょうど花穂を出す時期にあたったので、恐らく栗の淡黄色の花が見られたことだろう。栗は鑑賞できるほどの目立つ花をつけないが、独特の強い香りを放つので、近づけば気づく存在ではある。

芭蕉は、隠棲する可伸に心情の通じ合いを深くし、翌日彼の草庵で歌仙を巻く約束を交わして帰途についた。随行日記に「帰ニ寺々八幡ヲ拝」とあることから芭蕉らは真っ直ぐ等躬の家に戻らず、帰りがけに近隣の寺や八幡神社に立ち寄ったことが知られる。

江戸期に描かれた「奥州道中 増補行程記」(盛岡市中央公民館蔵)や「岩瀬郡須賀川町耕地之図」(竹内憲治氏所蔵)を見ると、可伸庵の推定地付近に徳善院があり、その門前の奥州街道をやや北へ行った所に南西角を等躬屋敷とする四辻がある。四辻から西に行った突き当たりに八幡神社が鎮座し、その北側に岩瀬(がんらい)寺、妙林寺、諏訪神社、薬王寺、長禄寺が隣接し、街道を挟んで行法寺が建つなど、等躬の屋敷周辺には文字通り「寺々」が建ち並んでいたのである。

八幡神社は明治初年に神炊館神社(諏訪神社)に合祀され、敷地を須賀川小学校に譲ったが、現在は当地に須賀川市総合庁舎が建ち、その一角に須賀川芭蕉記念館がある。八幡神社については「須賀川風土記」(郡山市図書館蔵)からその縁起などを窺い知ることができる。

天台宗岩瀬山十王院。本町岩瀬寺。源義家公当国安倍頼時征伐の為当国へ御下向、天喜五丁酉年勧請し給ふ石清水宮を、岩瀬八幡と号し、当郡一社也。(中略)文禄四乙未年、当寺を建立して此地に遷座す。当文化子年まで弐百十年。

4月24日(新暦6月11日)

おくのほそ道
此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。其詞、
   栗といふ文字は西の木と書て
   西方浄土に便ありと、行基菩薩
   の一生杖にも柱にも此木を用
   給ふとかや。
  世の人の見付ぬ花や軒の栗

 
曽良随行日記
一 廿四日  主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切。祐碩賞之。雷雨、暮方止。
 

芭蕉が当地を訪れたころ、ちょうど田植えの時期にあたり、道中、早乙女たちが田植え歌を歌いながら苗を手にする姿がそこかしこで見られたことだろう。須賀川で吟詠した「風流の初やおくの田植歌」は、こうした風景の中で感受したみちのく最初の風流であり、旅心の定まった芭蕉には言祝(ことほ)ぎの歌に聞こえたに相違ない。4月24日は、折しも相楽家の田植え日であった。

昼過ぎから可伸庵に出向いて、祐碩(吉田祐碩。等雲)による蕎麦切りの振る舞いを受け、芭蕉、栗斎(可伸)、等躬、曽良、等雲、須竿、素蘭連衆とする七吟歌仙が催された。
    
歌仙「かくれ家や」の巻
かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗
まれに蛍のとまる露艸
切崩す山の井の名は有ふれて
畔づたひする石の棚橋
把ねたる真柴に月の暮かゝり
秋知りの皃の矮屋離れず
梓弓矢の羽の露を乾かせて
願書をよめる暁の声
松歯朶に吹弱りたる年の暮
酒の遺恨を言ふ心なし
聟入は誰に聞ても恥しき
戯れて送れる傾城の文
貧しさを神に恨むる拙さよ
月のひずみを心より見る
独して沙魚釣兼し高瀬守
笠の端を摺る芦のうら枯
梅に出て初瀬や芳野は花の時
かすめる谷に鉦皷折々
芭蕉
栗斎
等躬
曽良
等雲
須竿
素蘭
芭蕉
栗斎
等躬
曽良
等雲
須竿
素蘭
等躬
栗斎
芭蕉
曽良
あるほどに春をしらする鳥の声
水許されぬ黒髪ぞ憂き
まだ雛をいたはる年の美しく
抱へし琴の膝やおもたき
転寝の夢さへうとき御所の中
朴をかたる市の酒酔
行僧に三社の詫を戴きて
乗合まてば明六の鐘
伽になる嶋鴨の餌を慕ひ
四五日月を見たる蜑の屋
徒にのみかひなき里のむらもみぢ
鹿の音絶て祭せぬ宮
冠をも落すばかりに泣しほれ
うつかり続く文を忘るゝ
恋すれば世にうとまれてにくい頬
気もせきせはし忍夜の道
入口は四門に法の花の山
つばめをとむる蓬生の垣
素蘭
等躬
須竿
芭蕉
須竿
等雲
曽良
素蘭
等躬
栗斎
等雲
曽良
芭蕉
等躬
素蘭
栗斎
曽良
等雲
(伊達衣)

○以下の等躬編「伊達衣」(元禄12年)や曽良の「俳諧書留」などから、「おくのほそ道」の「軒の栗」の句文が完成するまでの、芭蕉の思考過程を窺い知ることができる。

桑門可伸のぬしは栗の木の下に庵をむすべり。伝聞、行基菩薩の古、西に縁ある木成と、杖にも柱にも用させ給ふとかや。隱栖も心有さまに覚て、弥陀の誓もいとたのもし。
隠家やめにたゝぬ花を軒の栗 翁

(曽良俳諧書留)

桑門可伸は栗の木のもとに庵をむすべり。伝え聞、行基菩薩の古は、西に縁有木なりと、杖にも柱にも用ひ給ひけるとかや、幽栖心ある分野にて、弥陀の誓ひもいとたのもし、
かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗 芭蕉

(伊達衣)

栗という文字は、西の木と書て、西方浄土に便有と、行基菩薩一生杖にも柱にも此木を用ひ給ふとかや。
隠れ家や目だゝぬ花を軒の栗 芭蕉

(蕉門録)

行基菩薩は、栗の木を杖にも柱にもし給ふとかや。西方に縁ありとの謂なるべし。栗の木陰を便て草庵むすびたる僧に、
世の人の見付けぬ花や軒の栗 ばせを

(小太郎)

○「軒の栗」について、可伸は生活観に満ちた次の句文を書き遺している。

予が軒の栗は、更に行基のよすがにもあらず、唯実をとりて喰のみなりしを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から、一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ。
梅が香を今朝は借すらん軒の栗 (須賀川栗斎)可伸
(伊達衣)

4月25日〜27日(新暦6月12日〜14日)

曽良随行日記
  廿五日  主物忌、別火。
 
  廿六日  小雨ス。

一 廿七日  曇。三つ物ども。芹沢の滝へ行。
 
芹沢の滝

滞在4日目の25日は、等躬の物忌の日で、この日は、飲食や動作を慎んで心身を清め、けがれにふれないよう別にきり出した火を使用するのが習わしだった。
 
翌26日、24日の雷雨から一日おいて再び雨模様となった。随行日記には「小雨ス」以外に何も記述されていないが、芭蕉は、この日、杉山杉風宛に書簡を認(したた)め近況を伝えている。

須賀川で書かれた杉風宛書簡

27日、芭蕉、等躬、曽良による2つの「三つ物」(発句・脇句・第三句から成る)と「四句」の俳席が設けられた。四句については、等躬宅に、芭蕉が黒羽で世話を受けた桃雪から発句を添えた書信があって、連衆がこれに続けて吟じたものである。「俳諧書留」に、これらが一続きで記されているので、桃雪の発句を除きすべて27日に詠まれたものと考えていいだろう。

浄法寺高勝(桃雪)    芭蕉と黒羽について

(三つ物)
旅衣早苗に包食乞ん
いたかの鞁あやめ折すな   翁
夏引の手引の青苧くりかけて 等躬


(三つ物)
茨やうを又習けりかつみ草  等躬
市の子どもの着たる細布   曽良
日面に笠をならぶる涼して  翁


(四句)
芭蕉翁、みちのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなた、すか川といふ所にとゞまり侍ると聞て申つかはしける。
雨晴て栗の花咲跡見哉    桃雪
いづれの草に啼おつる蝉   等躬
夕食喰賤が外面に月出て   翁
秋来にけりと布たぐる也   曽良


同27日、芭蕉は俳席の後、芹沢の滝を見物した。芹沢の滝は、明治の末頃、採石のために岩が削られ滝の体裁を失うほどに荒れ果てたが、近年になって写真のように整備されている。滝の脇に建つ石柱には「奥の細道 芹沢の滝跡」とあり、その左の碑は、須賀川女流俳人・市原多代女の「往古の五月雨の滝これぞ此」の句と、多代女と親しかった山辺清民の「五月雨を田に引瀧の水かさ哉」の句を刻む句碑である。これは、文久元年(1861年)に当地を新田開発した柳沼家当主柳沼福秀によって滝の傍らに建立されたが、滝が荒廃したことから柳沼家に移されていた。平成6年(1994年)、整備されたのを機会に現在地に戻されている。

4月28日(新暦6月15日)

曽良随行日記
一 廿八日  発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。
 

十念寺

十念寺の句碑

おくのほそ道碑

諏訪神社

おくのほそ道碑

須賀川発足を予定した4月28日、芭蕉は、来訪した矢内彦三郎や等雲などの勧めで、郡山への途次、名所「乙字ケ滝(石河の滝)」に立ち寄ることにしたのだが、断続的に降り続く雨の影響で水かさが増し、阿武隈川の徒渡りが難しいことから出立を翌日に延期した。その経緯については「俳諧書留」に詳しい。

須か川の駅より東二里ばかりに、石河の滝といふあるよし。行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比(このごろ)の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといヽて止ければ、
さみだれは滝降りうづむみかさ哉 翁
案内せんといはれし等雲と云人のかたへかきてやられし。薬師(医師)也。


芭蕉は、この日、滝の案内を申し出た等雲に「さみだれは滝降りうづむみかさ哉」の句を書き付けており、これより本句は、前日訪ねた芹沢の滝をモチーフに乙字ケ滝を想像して詠んだ句とする解釈が有力である。

同日、昼過ぎから矢内彦三郎宅に出向いて暮れ時まで過ごし、帰りに十念寺、諏訪神社(神炊館神社)に参詣した。十念寺に、須賀川女流俳人・市原多代女(1776〜1865)が建てた「風流の初やおくの田植うた」の句碑がある。

4月29日(新暦6月16日)

曽良随行日記
一 廿九日  快晴。巳中尅、発足。石河滝(乙字ケ滝)見ニ行。(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡) 須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハヾ百二、三十間も有之。滝ハ筋かヘニ百五、六十間も可有。高サ二丈、壱丈五、六尺、所ニヨリ壱丈計ノ所も有之。
 

乙字ケ滝・絵図

乙字ケ滝碑

乙字ケ滝

上流から

芭蕉句碑

快晴の空のもと、芭蕉は、等躬の用立てた馬に跨り8日間逗留の須賀川をあとにした。奥州街道を真っ直ぐに北進し郡山に向かうところであったが、当地の名所「乙字ヶ滝」への立ち寄りを勧められ手綱を南に向けることとなった。

一行は、滝から1kmほど下流にあった渡しから阿武隈川を越え、南岸を行って「乙字ヶ滝」に到着した。この滝は、安山岩でできている川床が、川幅全体にわたって「乙」の字を成すように垂直に陥没してできたもので、阿武隈川が運び下ろした満々たる川水がいっせいに直下する光景は、芭蕉の胸を轟かすに十分だったろう。

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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡


第5集 芭蕉と須賀川

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