芭蕉と白河の関
おくのほそ道文学館収蔵

白河の関について | 旗宿にあった古代の白河の関 | 中世の白河の関はどこか

白河における芭蕉の動向 | 能因と白河の関 | 歌枕「白河の関」・和歌集

白河の関について

白河関の森公園に再現されている「古代の関所」 白河の関は、蝦夷南下の防御や通行人・交易物品の検問などを主な目的として、現在の福島県白河市に置かれた関で、太平洋側の勿来関(菊田関。福島−茨城)や日本海側の念珠関(山形−新潟)とともに奥羽三関といわれた。

白河の関の設置年代については、大化2年(646年)に出された「改新の詔」に、関設置の条項が設けられたことから、遅くともこの頃までには成立していたと
見られるが、承和2年(835年)の太政官符に、白河と菊田の両関がその時点で既に400余年が経過していることが書かれており、これをそのまま受け取れば、白河の関は5世紀の前半には存在していたことになる。

応ニ長門国ノ関に准ジ、白河・菊田両(せき)ヲ勘過スベキ事。右、陸奥国ノ解ヲ得ルニイワク。旧記ヲ検スルニ、ヲオキテ以来、今ニ四百余歳。(太政官符「類聚三代格」)

多賀城が陸奥国支配の本拠地として創建された4年後の神亀5年(728年)、防衛力強化を狙って白河に軍団が設置されたが、軍団が農民男子を軍事教練する為の施設であったため、白河の関は引き続き防衛の要所として機能した。延暦18年(799年)の太政官符に、当時の白河の関の規模をうかがえる記述がある。

陸奥国、新タニ白河軍団ヲ置キ、又丹取軍団ヲ改メテ玉作軍団ト為サンコトヲ請フ。並ンデ之ヲ許ス。(続日本紀 神亀5年4月11日の条)

太政官符。応ニ考ヲ給スベシ。陸奥国外散位(定員外で職務を持たない官吏待遇者)三十三人ノ事。擬郡司(郡司見習)廿八人、白河・菊田守六十人(自余之ヲ略ス)。右、国府ニ直スル外散位等、件ンノ如シ。省官承知シ、件ニ依リ考ヲ給セ。延暦十八年十二月十日 (太政官符「類聚三代格」)


白河の関は、成立期と同様、廃絶についてもいつごろか明確ではないが、10世紀ごろになって古代中央集権国家が衰退していくとともに「古代の関」としての機能が希薄化して廃絶の道をたどり、12、3世紀ごろに絶えたものと見られている。

文治3年(1187年)に死した奥州藤原三代秀衡が「ねんし(念珠関)、白河両関をば錦戸に防がせて、判官殿を疎(おろそか)になし奉るべからず」と遺言で語ったことが「義経記」に書かれており、このころ、白河の関はまだ健在だったようである。

また、浄土宗西山派の祖、証空上人(1177〜1247)の詞書や歌から、上人が陸奥を訪れたとき(具体的な年代は不明)、白河の関は既に関の体裁を成していなかったと思われるので、廃絶の時期は、秀衡が死した1187年から上人が死した1247年の間と推定することができるだろう。

みちの国へまかりける時、関をこえて後、白河の関はいづくぞと尋ね侍りければ、過ぎぬる所こそかの関に侍れと蓮生法師申し侍りければ、光台の不見も思ひいだされて
光台に見しはみしかはみざりしをききてぞ見つる白河の関   (証空上人「新千載和歌集」)

 
旗宿にあった古代の白河の関
  


【参考資料】 白坂から旗宿までの道の風景

    
白河に置かれた古代の関がどこかについては、古来、多様に言い伝えられているが、寛政12年(1800年)、白河藩主松平定信が地図や歴史書、詠歌、老農の話をもとにして此こそ古代白河の関の地と定め、旗宿の地に古関蹟碑を建立した。松平定信は、八代将軍徳川吉宗の子である国学者・歌人の田安宗武の3男で、陸奥白河藩主となり白河楽翁を号した。定信は老中の職にあった天明7年(1787年)から寛政5年(1793年)までの間に、享保、天保の改革とともに江戸幕府三大改革の一つとされる「寛政の改革」を断行し、幕藩体制の建て直しをはかった。

白河関跡、堙没(いんぼつ)シテソノ處所ヲ知ラザルコト久シ。旗宿村ノ西ニ叢祠(草木に埋もれた祠)アリ。地、隆然トシテ高ク、イワユル白河ソノ下ヲ遶(めぐ)リテ流ル。コレヲ図・史・詠歌ニ考エ、マタ地形ヲ老農ノ言ニ徴スルニ、コレソノ遺址タルハ、較然トシテ疑ハザル也。スナワチ碑ヲ建テ、以テ標スルコトシカリ。
寛政十二年(1800年)八月一日 白河城主・従四位下・左近衛少将兼越中守・源朝臣定信識
(松平定信が建てた古関蹟碑の内容<原文は漢文>)


昭和34年(1959年)から38年にかけて、定信が定めた地が古関跡か否かを実証的に確認するため発掘調査が行われ、その結果、柵列、柱列、門(推定)の跡など、古代の関の構造を示すものが確認されている。その後、昭和41年(1966年)になって旗宿の地が古代の白河の関跡と認められ国の史跡に指定されたが、その後も、古代の白河の関の所在については種々論じられ、現在に至っている。

旗宿を通る道は、現在、その西を走る国道4号線や294号線に優位性を譲っているが、古代においては極めて重要な役割を担った大道で、東山道の一部として機能した。東山道は、6世紀ごろから開かれた官道で、京都から、近江、美濃、信濃、上野、下野の各国府を経て、多賀城に達する律令国家の基幹道であった。宝亀5年(744年)から弘仁2年(811年)の間は蝦夷との戦いで軍道と化し、出羽国の秋田城まで延長された。

旗宿の道は、源義経が治承4年(1180年)4月に旗揚げした源頼朝に参陣するため鎌倉に急いだ、いわゆる義経街道であり、頼朝の大軍が奥州藤原の討伐を画し平泉を目指した道でもある。鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」の文治5年(1189年)7月29日の条に、軍勢が白河の関を越えた時の様子が次のように記されている。

白河の関を越え給う。関の明神に御奉幣。この間景季を召す。當時は初秋の候なり。 能因法師が古風、思い出でざるやの由仰せ出さる。景季馬を扣え一首を詠ず。 秋風に草木の露をば払はせて君が越ゆれば関守も無し。 (吾妻鏡)
(「関守も無し」は、当時、白河の関が機能していないことを言い含んでいる可能性もあるので、「白河の関を越え給う」とはあるが、この文章から、「当時まだ白河の関が存在していた」と断定することはできない。)

    

中世の白河の関はどこか

文治5年(1189年)、藤原泰衡が殺されて平泉政権が崩れると、奥州は幕府の支配下に置かれ白河地方は源頼朝の乳兄弟・結城朝光が治めることとなった。その居城が搦目山に置かれたことから、借宿、関和久にあった白河の古代の中心地が西に移動し、これにともなって、中世以降、要となる街道が旗宿の道から西方の奥州街道に移り、下野との境に新たな白河の関が築かれたと見られる。

結城氏の文書に「関を警固し、不審の輩は逮捕せよ。一般の商人旅人は自由に通行させよ」といった内容が見られると金子誠三著「白河の関」にあり、その関の所在地については、境の明神が建つ奥州街道の国境の地と見られている。古来、旗宿の「古関」に対して「新関」と呼ばれているのは此の地である。

奈良、平安初期のころ、国境の明神に男女二神を祭るのが通例で、奥州街道の国境の明神二社もこの様式で祭られた。この二社は、内は女神(玉津島明神)が守り、外に対しては男神(住吉明神)が守るという考えからか、古来、福島(白河市)に建つ明神は、福島側では「玉津島神社」だが、栃木側では「住吉神社」であり(説明)、栃木(那須町)に建つ明神もこれと同様、逆の社名となる。

 
白河における芭蕉の動向

元禄2年(1689年)4月20日(新暦6月7日)

  
芭蕉は、芦野で遊行柳を見物したのち奥州街道から寄居を経由し、「おくのほそ道」の冒頭に「白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。」と書いた白河の地にいよいよ足を踏み入れた。

関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関ヲ尋テ白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ籏宿ヘ行。(曽良随行日記)

芭蕉一行が奥州に入って初めに目にしたのは、国境に二社が建つ境の明神であった。当時は日記にあるように明神峠の小坂を登ったところに奥州側の神社があったが、今は、切り通しの道から石段を登るようになっている。日記に書かれた門前の茶屋は今は無く、茶屋の子孫にあたる方が神社の向い側に居を構えている。

曽良は此所の明神を「関明神」と書いているが、当時、明神のあたりに関はなく、口留番所すらなかった。曽良が「関・・」と記した事情については、寛政9年(1797年)に松平定信が著わした「退閑雑記」からうかがい知ることができる。

白坂へいたる。例のごとく境明神へまうでぬ。こゝを関明神などいひて、白川の関の旧跡といふ、あやまりなり。此みちははるか後にひらけしなり。もとは旗宿の道に小川あり、いまも白川といふ。此川あたりに玉つしま明神と住吉明神をまつりたる、こゝが古関のあとなり。其関のほとりゆへに関山てふ名もあるなり。 (松平定信「退閑雑記」)

曽良の日記を更に読むと、「関明神」のところから「古関ヲ尋テ白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ籏(旗)宿ヘ行。」とある。日記に「古関・・・旗宿・・・」と書いたのは、曽良が旗宿に古代の白河の関が存在したことを予め把握していたからで、旅立つ前に準備した曽良の名勝備忘録には、白河の関が次のように記されている。ただし、4月21日の日記や芭蕉の書簡から判断して、旗宿のどこが古関の跡かについての確証は得られていない。

白河関 下野・奥州ノ堺。並テ両国ノ堺明神両社有。前ハ茶屋ナリ。古ノ関ハ東ノ方二リ半程ニ旗ノ宿ト云有。ソレヨリ一リ程下野ノ方、追分ト云所ナリ。今モ両国ノ堺ナリ。 (名勝備忘録)

白坂から旗宿まで旅した道順については、金堀を経由して「庄司戻し」付近に出るルートや、和平を経由して白河の関跡付近に出るルートが考えられが、現在のところ根拠が無く、一つに定めることができない。

廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル。(籏ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝。) (曽良随行日記)

「庄司戻し」は、次のような義経と佐藤庄司親子にまつわる伝説の地である。
治承4年(1180年)源頼朝が挙兵した時、義経は奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。この時基治は旗宿まで2人を見送り、別れの時、桜の杖を地面に突き刺して、忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろうと励まして福島に戻った。それ以来この地は「庄司戻し」と呼ばれ、根づいた桜は毎年花を咲かせたという。

    
元禄2年(1689年)4月21日(新暦6月8日)
 

4月21日の動向を記す前に、昔、国境に祭る習わしのあった明神が、白河においてはどこに、何箇所存在していたか見ておきたい。

「白河市史 第九巻 民族編」によれば、白河には一所に玉津島明神と住吉明神を祭るところが3箇所あったという。1つ目は既述の白坂の境の明神で、栃木側に一社、福島側に一社が現存している。2つ目は旗宿南の国境にあった明神で、白坂と同様、国境の両側に二社あったといわれるが、現存するのは栃木側の一社のみである。この明神は「追分の明神」と呼ばれるが、「境の明神」とも「住吉玉津島神社」とも「関東宮」とも称される。

そして3つ目は、曽良日記に「町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉(津)島ヲ一所ニ祝奉宮有。」と書かれ、古関蹟碑に「旗宿村ノ西ニ叢祠(草木に埋もれた祠)アリ。」と記された明神、すなわち、現在の「史蹟 白河関跡」の地にあったとされる明神である。「白河風土記」には、その昔、当地に住吉神社と玉津島神社の二社が建ち、その内の一社・住吉神社が「ノ方小山ノ上ニアリ」、境内に「従二位杉(関跡に現存)」、「関の樅(関跡で大正末枯死)」などが植えられている、とある。この住吉神社は、現在の白河神社の前身である。

曽良日記と松平定信が建てた古関蹟碑の両方で古関跡を旗宿の「西」としているが、現在の地形では紛れもなく「南」である。この事情については、次の3通りが考えられるが、この内のどれかは不明である。「当代の最もすぐれた知識人」と言われた定信が、測量学に長けた曽良が、果たして方角を誤るかは大いに疑問だが、「白河風土記」に書かれた「ノ方小山ノ上ニアリ」の10文字を拠り所に(1)を選択しておくのが無難だろう。
(1)両者ともに南を西と誤った。
(2)当時、旗宿の中心地が古関跡の東にあった。
(3)定信が、古代の白河の関が旗宿の西の小山にあったと定め、そこに古関蹟碑を建てたのだが、後年になって古関蹟碑が現在の位置に移された。

廿一日 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉島ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。 (曽良随行日記)

4月21日の早朝、芭蕉は宿の主人に上の3つ目の明神が旗宿にあることを教えられ参拝に赴いた。向かう先に古代の白河の関の痕跡があることを念じて。しかしながら、「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、・・・」と綴られた白河の関の残影はなく、ただ、叢祠のみが芭蕉を出迎えた。芭蕉が白河の章段を古歌の詞で埋め尽くしたのは、伝統的歌枕の関の地を、古の歌人に敬意を払いつつ数々の古歌を追懐しながら越えたことに拠ると考える以外に、白河において、ついに関越えの情趣に浸れなかったことも大きな要因になっているように思われる。

日記の同日条に、須賀川の相良等躬が上の2つ目の明神の存在を教えたとある。これは「名勝備忘録」にも記された明神であったが、参詣に出向くことはなかった。また、古来、旗宿の北に位置する関山を古代の白河の関とする見方があり、芭蕉はこの伝承を手がかりにして関山に登ったが心を満たすことはできなかったようである。

〇白河ノ古関ノ跡、籏ノ宿ノ一里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。
(曽良随行日記)

 
能因と白河の関

陸奥(みちのく)は遥か遠くの道の奥にあり、古の歌詠み人にとっては詩心をかき立てられる未知の国であった。その玄関口にあたる白河の関は聖地に等しく、心身を清らかにして通るべき神聖な関とされた。然して白河の関は一流の歌枕となったが、その経緯については平安中期の歌人能因が深く関わっている。

それは、能因の「(みちのくににまかりくだりけるに、しらかはのせきにてよみはべりける) 都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(後拾遺集)の歌であり、能因はこの歌で、霞みたつ春に都を立ったのに、白河の関に着いてみると既に秋風が吹く季節になっていたと、陸奥の遥かげを強烈に都の人に印象付けた。

藤原清輔(歌人・歌学者。1104〜1177)は「袋草紙」の中で、能因の歌に敬意を表して白河の関を正装して通ったという竹田大夫国行の逸話を記している。

竹田大夫国行トイウ者、陸奥に下向ノ時「白河関過グル日ハ殊ニ装束ヒキツクロイ(正装して)ムカウ」ト云ウ。人問ウ「ナンラノ故カ」答ヘテ曰ク「古ヘ曽部入道(能因法師)ノ『秋風ゾ吹ク白河ノ関』ト詠マレタル所ヲバ、イカデカケナリ(普段着)ニテハ過ギン」ト。殊勝ナルコトカナ。 (藤原清輔「袋草紙」)

このように、能因の歌は、白河の関を一流の歌枕に伸し上げるのに大いに役立ったが、後年「古今著聞集」(1254年)の中で、実のところ能因は奥州へは行っておらず、京にこもって日焼けをし、いかにも現地に行って詠んだように見せかけたものだと評された。

能因は、いたれるすきものにてありければ、「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」とよめるを、都にありながら此の歌をいださむ事無念と思ふて人にもしられず久しく篭居で、色をくろく日にあたりなして後「みちのくのかたへ修業の次(ついで)によみたり」とぞ披露し侍ける   (古今著聞集)

芭蕉は、「袋草紙」の故事を「おくのほそ道」の中でとりあげ「古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。」と書いている。曽良の随行日記の4月21日の条に「黒羽ヘ之小袖・羽織・状、左五左衛門方ニ預置。」とあるが、これは、僧衣の芭蕉が、白河の関を越えるときに着替えて正装しようとしたことを表すものと見られる。ただし、実際に芭蕉が正装したかどうか、定かではない。
  

歌枕「白河の関」・和歌集

白河の関のせけばやこまうくてあまたの日をばひきわたりつる
右大将藤原道綱の母 (蜻蛉日記)

みちのくの白河関こえ侍りけるに、

たよりあらばいかで宮こへつけやらむけふ白河の関はこえぬと
平兼盛 (拾遺和歌集)

白河院にて花を見て読み侍ける

あづまぢの人にとはばやしらかはのせきにもかくやはなはにほふと
民部卿長家 (後拾遺和歌集)

橘則光みちのくににくだり侍けるにいひつかはしける

かりそめのわかれとおもへどしらかはのせきとどめぬはなみだなりけり
中納言定頼 (後拾遺和歌集)

みちのくににまかりくだりけるに、しらかはのせきにてよみはべりける

みやこをばかすみとともにたちしかど秋風ぞふくしらかはのせき
能因法師 (後拾遺和歌集)

白河院鳥羽殿におはしましける時、をのこども歌合し侍りけるに、卯花をよめる

みてすぐる人しなければ卯のはなのさけるかきねや白川の関
藤原季通朝臣 (千載和歌集)

嘉応二年法住寺殿の殿上歌合に、関路落葉といへる心をよみ侍りける

紅葉ばのみなくれなゐにちりしけば名のみなりけり白川の関
左大弁親宗
みやこにはまだ青葉にてみしかどももみぢちりしく白川のせき
前右京権大夫頼政
(千載和歌集)

羇中歳暮といへるこころをよめる

あづまぢも年もすゑにや成りぬらん雪ふりにけり白川のせき
僧都印性 (千載和歌集)

ひつしさる

みちのくのしらかはこえてわすれにしひつしさるさるゆけとはるけし
恵慶 (恵慶集)

みちのくにのかみ、さねとしのあそん、しらかはの院に、かとてしはへにまかりて

ふりはへてなにゝかきみかさらにゆくこゝそやこそしらかはのせき
能宣 (能宣集)

白川殿にて、道つなの少将、せきとふしたるによりて

いかてかは人のかよはんかくはかり水ももらさぬしらかはのせき
藤原実方 (実方朝臣集)

はこかたのいそにて、京にのほるに

しらはのせきよりうちはのとけくていまはこかたのいそかるゝかな
源重之 (三十六人集)

又さゑもんのかみ、みちのくのかみのくたりしころ、それにうちそへたることゝそみし

今更にかすみのとつる白河の関をしゐてはたつぬへしやは

まろかへし

ゆく春のとめまほしきに白川の関をたえぬる身ともなる哉
和泉式部 (和泉式部集)

みちさたかみちの国にくたるに、めのしきふかやりける歌をきゝ給て

今更に霞へたつる白川の関をはしゐて尋ぬへしやは
大納言公任 (大納言公任集)

十一月七日、しらかはのせきをすき侍しに、ゆきふりしかは

人つてにきゝわたりしをとしふりてけふゆきすきぬしらかはのせき

しらかはのせきをいつるあひた、もみちいとおもしろし

もみちはのかゝるおりにはしらかはのせきは名をこそかふへかりけれ
橘為仲 (橘為仲集)

関路雪深

ゆきつもるにはにてしりぬいとゝしくなをやそふらむ白河のせき
行宗 (行宗集)

白川関

東路をおもひたちしはとほけれどたづね来にけり白川の関
盛家 (永久三年十月廿六日 内大臣忠通後度歌合)

白川二所の関にいたりければ。いく木ともなく山桜さきみちて。心も詞もをよび侍らず。
しばらく花の陰にやすみて。

春はたゝ花にもらせよ白川のせきとめすとも過んものかは

おなじ心をあまたよみ侍りける中に。

とめすともかへらん物か音にのみ聞しにこゆる白川の関

しら川の関のなみ木の山桜花にゆるすな風のかよひち
道興准后 (廻国雑記)

後京極摂政家の十首歌合に、秋旅を

あふさかをこえだにはてぬあきかぜにすゑこそおもへしらかはのせき
寂蓮法師 (続古今和歌集)

題不知

みやこいでしひかずは冬になりにけりしぐれてさむきしらかはのせき
藤原秀茂 (続古今和歌集)

あづまにくだりて侍りける時、旅歌あまたよみ侍りけるに

おなじくはこえてやみまししらかはのせきのあなたのしほがまのうら
従三位行能 (続古今和歌集)

あづまのかたにまかれりけるに、思ひのほかに日かずつもりて秋にもなりにければよめる

白川のせきまでゆかぬあづまぢも日数へぬれば秋かぜぞふく
津守国助 (続拾遺和歌集)

題しらず

夕暮はころもでさむき秋かぜにひとりやこえんしら川の関
観意法師 (続拾遺和歌集)

みちのくににまかりてよみ侍りける

おとにこそ吹くともききし秋風の袖になれぬるしら川の関
藤原頼範女 (新後撰和歌集)

善光園入道前関白家にて七夕七十首歌よみ侍りける時、旅

限あればけふしら川の関こえてゆけばゆかるる日数をぞしる
源兼氏朝臣 (続後拾遺和歌集)

みちの国へまかりける時、関をこえて後、白河の関はいづくぞと尋ね侍りければ、
過ぎぬる所こそかの関に侍れと蓮生法師申し侍りければ、光台の不見も思ひいだされて

光台に見しはみしかはみざりしをききてぞ見つる白河の関
証空上人(新千載和歌集)

あづまのかたへ修行し侍りけるに、白川関にて月のあかかりければ柱に書きつけける

しら河の関屋を月のもるかげは人の心をとむるなりけり
(新拾遺和歌集)

みちのくにへ修行してまかりけるに、白川のせきにとゝまりて、ところからにやつねよりも
月をもしろくあはれにて、能因か、秋かせそふくと申けんをり、いつなりけんと思いてられて、
なこりおほくおほえけれは、せきやのはしらにかきつけゝる

しらかはのせきやを月のもるかけは人の心をとむる成けり
(山家集)

みちの国へ修行しまはりしに、白河の関にとゝまりて、月つねよりもくまなかりしに、
能因か秋風そ吹と申けむおり、いつなりけんとおもひ出られて、関屋の柱に書付たりし

白川のせきやを月のもる影は人の心をとむる成けり
(西行上人集)

西行

旅歳暮を

帰るさは年さへくれぬあづまぢやかすみてこえし白川の関
大蔵卿隆博 (新拾遺和歌集)

百首歌たてまつりし時、旅

都をば花を見すてていでしかど月にぞこゆるしら川の関
左大臣 (新後拾遺和歌集)

関旅を

逢ふ人もまだ白川の関こえて秋風ふくとたれにつてまし
平光俊 (新続古今和歌集)

寄関恋を

へだてゆく人の心のおくにこそ又しら川の関はありけれ
源満元朝臣 (新続古今和歌集)

法住寺殿にして人々歌合し侍しに、関路落葉を

紅葉はのみなくれなゐにちりしけはなのみなりけり白河の関
親宗 (中納言親宗集)

白河関

さと人のねぬよのころか旅衣うち時雨ゆくしら川の関
寂身 (寂身法師集)

名所恋の心をよめる

東路やみちのおくなるしら川のせきあへぬ袖をもる泪かな
源実朝 (金塊和歌集)

白河関

しらかはのせきのしろ地のからにしき月にふきしく夜半のこからし
藤原家隆 (玉吟集)

白川関

雪にしく袖に夢ちもたえぬへしまたしら川の関のあらしに
後鳥羽院 (後鳥羽院御集)

(十題百首建久二年冬左大将家詠百首和謌) 白河関

しら河の関の関もりいさむともしくるゝ秋の色はとまらし

(最勝四天王院名所御障子謌) 白河関

くるとあくと人を心にをくらさて雪にもなりぬ白河の関
藤原定家 (拾遺愚草)

羇中秋月 文永八年四月五日続五十首

おほろなるかけに都を出しかと秋こそ月はしら川の関

(文永八年四月二十八日当座百首)  関屋花

ふりぬれと名こそしるけれ白川の関屋に花の色をとゝめて
藤原為家 (大納言為家集)

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【 参考文献 】 

白河市史 第九巻 <民族編>
 
多賀城市史 第六巻 <文学史料編>


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第4集 芭蕉と白河

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白坂から旗宿までの道の風景


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