松尾芭蕉・おくのほそ道文学館
白河の関の章段

【出典】 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡  第4集「芭蕉と白河」  [文学館目録]
前頁 心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。 次頁
「おくのほそ道」曽良句集  卯の花をかざしに関の晴着かな (うのはなを かざしにせきの はれぎかな)
3 芭蕉と曽良の像 像の台座に彫られた芭蕉と曽良の句 [句碑建立地]
白河市
関の森公園
[句解釈]   この関を通るとき、古人は冠を正し、衣装を改めたというが、私にはこのような用意もないので、せめて卯の花を髪にかざして関を通ることにしよう。
白河関の森公園に、平成元年、「おくのほそ道」紀行300年を記念してに建てられた芭蕉と曽良の像があり、台座に、須賀川で詠んだ芭蕉の句と曽良の上の句が刻まれている。
風流の初やおくの田植うた 芭蕉
卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

  
「おくのほそ道」に芭蕉の白河の句が見られず、本文にはそのあたりの事情が「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。」と書かかれているが、実際には、俳諧書留や何云宛書簡から、次の句を詠んだことが知られている。

みちのくの名所名所こゝろにおもひこめて、先せき屋の跡なつかしきまゝに、ふる道にかゝり、いまの白河もこえぬ。
早苗にも我色黒き日数哉  翁
 (俳諧書留)


白河の風雅聞もらしたり。いと残多かりければ、須か川の旅店より申つかはし侍る
関守の宿を水鶏にとはふもの はせを。
又、白河愚句、色黒きといふ句、乍単より申参候よし、かく申直し候
西か東か先早苗にも風の音 (何云宛書簡)
  
おくのほそ道 現代語訳
白 河 の 関
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良
落ち着かない日々を重ねているうちに白河の関にさしかかり、ようやく旅に徹する心構えができてきた。平兼盛が、どうかして関越えの感動を都の人に知らせたいと詠んだのももっともである。数ある中でもこの関は奥州三関の一つに数えられ、風雅を求める人が心を寄せているところだ。能因法師が詠んだ歌の「秋風」という言葉の響きや、源頼政の歌の「紅葉」を思い浮かべながら青葉のこずえをながめていると、実に趣き深く感じられるものだ。卯の花が真っ白に咲いているところに茨が白く咲き添って、まるで雪の中、関を越えているような心地がする。むかし、竹田大夫国行がこの関を越えるとき、能因法師の歌に敬意を表して冠をかぶり直し、衣服をととのえて通ったいうことが藤原清輔の「袋草紙」に書きとめてあるということだ。

この関を通るとき、古人は冠を正し、衣装を改めたというが、私にはこのような用意もないので、せめて卯の花を髪にかざして関を通ることにしよう。
  
曽良随行日記 (白河)
元禄2年(1689年)4月20日(新暦6月7日)〜4月22日(新暦6月9日)
原 文 現代語
一 廿日
朝霧降ル。辰中尅晴。下尅、湯本ヲ立。
ウルシ塚迄三リ余。半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不知シテ難通。
一 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ、八幡ノ大門通リ之内(十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)。左ノ方ニ
遊行柳有。其西ノ四、五丁之内二愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍(兼載の誤り)ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也。市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。
一 芦野ヨリ一里半余過テヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。
一 関明神、関東ノ方ニ一社奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶屋有。小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関ヲ尋テ白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ籏宿ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル。(籏ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝)
一 廿日
朝霧降る。8時頃晴れる。8時半頃、湯本を立つ。漆塚(那須町内)迄三里余り。半途(行路半ば)に小屋村(那須町池田)有り。漆塚より芦野へ二里余り。湯本よりすべて山道で、不案内のため通行難。
一 芦野より白坂(白河市内)ヘ三里八丁。芦野町はずれ、木戸ノ外、茶屋・松本市兵衛前より左の方へ曲がり、温泉神社の相殿八幡宮の大門通りの内(十町程過ぎて左の方に鏡山有り)。左の方に遊行柳有り。その西の四、五丁之内に愛岩(宕)有り。その社の東の方、畑岸に兼載の松というのが有る。兼載の庵跡という。その辺の見渡す内に三ツ葉芦沼有り。八幡宮は土地のウブスナ(産土神。土地の守り神)である。茶屋・市兵衛が案内。すぐに奥州の方、町はずれにある橋の際へ出る。

一 芦野から一里半余り過ぎて寄居村(那須町内)有り。これより旗村(旗宿)へ行くには、町はずれより右ヘ切れる。
一 関明神、関東の方に一社、奥州の方に一社、その間廿間ばかり。両方の門前に茶屋有り。小坂也。これより白坂へ十町程有る。古関を尋ねて白坂の町の入口より右へ曲がって籏宿へ行く。廿日の晩泊る。暮前より小雨降る。(籏宿のはずれに庄司戻しといって、畑の中に桜の木有り。判官<義経>を見送った後に戻り酒盛した跡である。土中に古い土器有り。寄妙に拝す)
     
一 廿一日
霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉島ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山(  1    2)ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由。成就山満願寺ト云。籏ノ宿ヨリ峰迄一里半、麓ヨリ峰迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行碁菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。真言宗也。本堂参詣ノ比、小雨降ル。暫時止。コレヨリ白河ヘ壱里半余。中町左五左衛門ヲ尋。大野半治ヘ案内シテ通ル。黒羽ヘ之小袖・羽織・状、左五左衛門方ニ預置。矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。
 
〇白河ノ古関ノ跡、籏ノ宿ノ一里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。
 
〇忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。
 
〇二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行。二所共ニ関山ヨリ白河ノ方、昔道也。二方ノ山、古歌有由。
 みちのくの阿武隈河のわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり
 
〇うたゝねの森、白河ノ近所、鹿島ノ社ノ近所。今ハ木一、二本有。
 かしま成うたゝねの森橋たえていなをふせどりも通はざりけり(八雲二有由)
 
宗祇もどし橋、白河ノ町より右(石山ヨリ入口)、かしまへ行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有之。いづれも三日付ル事不成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被聞之て、其所ヘ被趣時、四十計ノ女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方ヘ」と問。右ノ由尓々、女「それは先に付侍りし」と答てうせぬ。
 月日の下に独りこそすめ
 (付句)かきおくる文のをくには名をとめて
と申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝。
一 廿一日
霧雨降る、午前7時半頃止む。宿を出る。町より西の方に住吉神社と玉島神社を一所に祭るお宮有り。古の関の明神ゆえ「二所の関」の名が有ると、宿の主人が言うので参詣する。それより戻って関山ヘ参詣。行基菩薩が開基。聖武天皇の御願寺、正観音の由。成就山満願寺という。籏宿より峰迄一里半、麓より峰迄十八丁。山門有り。本堂有り。奥に弘法大師と行碁菩薩を祭る堂有り。山門と本堂の間に、別当の寺有り。真言宗。本堂を参詣のころ、小雨降る。暫時止む。これより白河ヘ一里半余り。中町の左五左衛門を尋ねる。大野半治の道案内あり。黒羽で借りた小袖と羽織や書状を左五左衛門方に預け置く。矢吹(西白河郡矢吹町)へ午後3時半頃に着き、宿借る。白河より四里。今日昼過ぎより快晴。宿に「宿次道程の帳」(道中案内の類の書物か)有り。
   
〇白河の古関の跡、籏宿の一里程下野(栃木県)の方、追分(那須町内)という所に関の明神有る由。相楽乍憚(等躬)の伝也。是より丸の分同じ。
 
〇忘ず山は今は新地山(白河市の一部)という。但馬村(白河市田島)という所より半道(半里)程東の方へ行く。阿武隈川の端。
 
〇二方ノ山、今は二子塚村(西白河郡中島村)という。右の所より阿武隈川を渡って行く。二所共に関山より白河の方、昔道也。二方ノ山、古歌有る由。
みちのくの阿武隈河のわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり
 
〇うたゝね(転寝)の森、白河の近所、鹿島神社の近所。今は木、一、二本有。
かしま成うたゝねの森橋たえていなをふせどりも通はざりけり(「八雲御抄」に載るという)
 
○宗祇もどし橋は、白河の町より右(石山より入口)、鹿島へ行く道にゑた町有り。そのきわになるほどかすかに橋と思しきもの有り。むかし、結城殿が白河城主のころ、一家衆寄合い、鹿島神社前で連歌興行の時、付合し難い句有り。人々3日間付けられず。宗祇、旅の宿でこれを聞き、その所ヘ趣く時、40ばかりの女が出向き、宗祇に「どのような用事で、どちらへお出かけに」と問う。右の由しかじか答えると、女は「それなら私が先に付けました」と言って失せた。
 月日の下に独りこそすめ
 (付句)かきおくる文のをくには名をとめて
と付句を示したので、宗祇は舌を巻き、立ち戻ったと言い伝えられる。 
     
一 廿二日
須か川、乍単斎(相楽等躬)宿俳有。
一 廿二日
(矢吹を立って同日須賀川着)
須賀川、乍単斎(相楽等躬)に宿す、俳席有り(「風流の初やおくの田植うた」を発句とし、芭蕉、等躬、曽良で三吟歌仙が開かれた)。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m


本文・曽良随行日記の現代語訳および句の解釈

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曽良随行日記は「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」のシリーズ「芭蕉について」からそのまま

転記しています。
ただし、章段によっては、滞在日に合わせて元のテキストを分割して掲載しているのもあります。

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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡

第4集 芭蕉と白河


底本について

「おくのほそ道」の本文は、素龍清書の「西村本」を底本としています。
 
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