松尾芭蕉・おくのほそ道文学館
信夫の里佐藤庄司が旧跡飯塚温泉の章段

【出典】 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡  第8集「芭蕉と福島」  [文学館目録]
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「おくのほそ道」芭蕉句集  早苗とる手もとや昔しのぶ摺 (さなえとる てもとやむかし しのぶずり)
11 文知摺石 文知摺観音・句碑 [句碑建立地]
福島市
文知摺観音
[句解釈]   早苗をとっている早乙女たちの手元を見ていると、むかし、しのぶ摺りをした手つきもおなじようだったのかと偲ばれることだ。
文知摺石脇の高台に建つ芭蕉句碑。京都の俳人丈左房が寛政6年(1794年)5月、文知摺観音で芭蕉追恩句会を開催した時に建立。書は丈左房筆。
文知摺石は、元禄9年の桃隣『陸奥鵆』に「長サ一丈五寸(約315cm)、幅七尺余(約210cm)」の大きさとあるが、その後次第に埋まり、明治になると地上からわずかに頭を出すまで(高さ一尺、縦五尺、横三尺)になったという。信夫郡長の柴山景綱がこれを掘りおこし、今日の姿にしている。
「おくのほそ道」芭蕉句集  笈も太刀も五月にかざれ帋幟 (おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
12 医王寺山門 医王寺・句碑 [句碑建立地]
福島市
医王寺
[句解釈]   端午の節句の5月なのだから、弁慶の笈も義経の太刀も、帋幟といっしょに飾って祝ってもらいたいものだ。
句碑は寛政12年(1800年)10月に建てられたもので、大鳥城主佐藤基治一族の菩提寺・医王寺の境内にある。薬師如来の別称「医王」を寺号とする医王寺は、天長3年(826年)に開基された寺で、この地に温泉を発見した鯖湖親王を祭るお宮があったことから当地の名が鯖野になったとされ、医王寺は、これに因み「鯖野の薬師」と呼ばれる。
  
おくのほそ道 現代語訳
信夫の里
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童べの来りて教ける。昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。さもあるべき事にや。 
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺
明けて次の日、しのぶもじ摺りの石を尋ねて、信夫の里に行った。はるか離れた山陰の小さな村里に、その石は半分ほど土に埋もれていた。里の子どもが来て、いきさつを教えてくれた。「その石は、むかし山の上にあったのですが、ここを通る人たちが麦の葉っぱを取り荒らしてその石にこすっていくのを嫌い、村の人がこの谷に突き落としたものだから、こうして石の表にあたるところが伏したようになったのです」という。そういうこともあるのだろうか。

早苗をとっている早乙女たちの手元を見ていると、むかし、しのぶ摺りをした手つきもおなじようだったのかと偲ばれることだ。
佐藤庄司が旧跡
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。
 笈も太刀も五月にかざれ帋幟
五月朔日の事也。
月の輪の渡しを越えて、瀬の上と言う宿場に出る。佐藤庄司の旧跡は、左の山際の道を一里半ほど行ったところにある。飯塚の里の鯖野というところだと聞いて、人に尋ねながら行くと、丸山というところに行きついた。これが、庄司がもと住んだ館跡である。麓に大手門跡があるなどと人が教えてくれるままに尋ねては涙したことであった。また、近くの古寺には、佐藤一家の石碑が残っている。なかでも、二人の嫁の石碑が、まず哀れに思われた。女の身ながら健気な振る舞いをした話が、よくぞ世に伝え残されたものよと、涙を流したのだった。「堕涙の石碑」は中国だけのことではないのだ。寺に入ってお茶を所望したところ、この寺は義経の使った太刀や弁慶が背負った笈を所蔵し宝物にしていた。

端午の節句の5月なのだから、弁慶の笈も義経の太刀も、帋幟といっしょに飾って祝ってもらいたいものだ。


5月1日のことであった。
飯塚温泉
其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入斗になん。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶、夜の余波心すゝまず、馬かりて桑折の駅に出る。遥なる行末をかゝえて、斯る病覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。 その夜は飯塚に泊った。温泉があるので湯に入ってから宿を借りたが、そこは土間にむしろを敷いたばかりの粗末な貧家であった。灯火もないので、いろりの火の明かりがさすところに寝床をこしらえて横になった。夜になって雷が鳴り、雨がしきりに降って寝ている上から雨漏りがし、蚤や蚊に刺されて眠ることができない。おまけに持病さえ起こり、苦しみのため気を失うほどであった。短い夏の夜もようやく明けたので、また旅立った。しかし、まだ昨夜の苦痛が残っていて気分が晴れ晴れしないので、馬を借りて桑折の宿場まで出た。長旅を前途に控えて、このような病があっては先行き不安ではあるが、この旅はそもそも辺ぴな田舎をめぐる行脚なのであり、俗世間から身を捨て、人の世のはかなさを覚悟してのことなのだから、旅中、道ばたで死ぬようなことがあっても天命なのだと、気力を少しばかり取り戻し、道を思いのままに踏み締めて伊達の大木戸を越えたのだった。
  
曽良随行日記 (福島)
元禄2年(1689年)5月1日(新暦6月17日)〜5月3日(新暦6月19日)
原 文 現代語
一 五月朔日
天気快晴。日出ノ比、宿ヲ出、壱里半来テヒハダ(日和田)ノ宿、馬次也。町はづれ五、六丁程過テ、あさか山有。壱り塚ノキハ也。右ノ方ニ有小山也。アサカノ沼、左ノ方谷也。皆田ニ成、沼モ少残ル。惣テソノ辺山ヨリ水出ル故、いづれの谷にも田有。いにしへ皆沼ナラント思也。山ノ井ハコレヨリ(道ヨリ左)西ノ方(大山ノ根)三リ程間有テ、帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。古ノにや、不しん也。
二本松の町、奥方ノはづれニ亀ガヒト云町有。ソレヨリ右之方ヘ切レ、右ハ田、左ハ山ギワヲ通リテ壱リ程行テ、供中ノ渡ト云テ、アブクマヲ越舟渡し有リ。その向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。又、近所ニ観音堂有。大岩石タヽミ上ゲタル所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。右ノ杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らんト別当坊申ス。天台宗也。それヨリ又、右ノ渡ヲ跡ヘ越、舟着ノ岸ヨリ細道ヲつたひ、村之内ヘかゝり、福岡村ト云所ヨリ二本松ノ方ヘ本道ヘ出ル。二本松ヨリ八町ノめヘハ二リ余。黒塚ヘかゝりテハ三里余有べし。
一 五月一日
天気快晴。日の出の頃、郡山の宿を出、一里半来て日和田の宿、馬継也。町はづれ五、六丁程過ぎて、安積山有り。一里塚の際、右の方にある小山也。安積の沼、左の方、谷也。皆、田に成り、沼も少し残る。すべてその辺、山より水が出るゆえ、いづれの谷にも田が有る。いにしへは皆沼だったろうと思われる。山の井はこれより(道より左)西の方(大山の根)三里程有り、帷子(郡山市片平町)という村(高倉という宿より安達郡の内)に山の井清水というのが有る。古歌にあるのと違うようだ。
二本松の町、奥の方のはづれに亀谷という町有り。それより右の方へ曲がると、右は田で、左には、山際を通って一里程行くと、供中の渡という阿武隈川を越す舟渡しが有る。その向こうに黒塚有り。小さな塚に杉が植えて有る。又、近所に観音堂有り。観音堂は大岩石を畳み上げた所の後に有る。古の黒塚はこれだろう。右の杉を植えた所は鬼を埋めた所だろうと別当坊が言う。天台宗也。それより又、右の渡しをあとにして阿武隈川を越え、舟着きの岸より細道を伝って、村の内ヘかゝり、福岡村という所より二本松の方ヘ奥州街道ヘ出る。二本松より八町の目ヘは二里余り。黒塚ヘかゝると三里余り。
     
八町ノめヨリシノブ郡ニテ福島領也。福島町ヨリ五、六丁前、郷ノ目村ニテ神尾氏ヲ尋。三月廿九日、江戸ヘ被参由ニテ、御内・御袋ヘ逢、すぐニ福嶋ヘ到テ宿ス。日未少シ残ル。宿キレイ也。 八町の目より信夫郡にて福島領也。福島町より五、六丁前の、郷ノ目村(福島市郷野目)にて神尾氏を尋ねる。三月廿九日、江戸へ参られた由にて、御内儀・母堂へ逢う。すぐに福嶋へ着いて宿す。日まだ少し残る。宿きれい也。
     
一 二日
快晴。福島ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラべ(五十辺)村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七、八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。
一 二日
快晴。福島を出る。町はずれ十町程過ぎて、五十辺村(福島市内)はずれに川有り。川を越えずに、右の方へ七、八丁行って、阿武隈川を船にて越す。岡部の渡しという。
     
文知摺観音
ソレヨリ十七、八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六、七本有。虎が清水ト云小ク浅キ水有。福島ヨリ東ノ方也。其辺ヲ山口村ト云、ソレヨリ瀬ノウヱヘ出ルニハ月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ十四、五丁ニテ瀬ノウヱ也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ弐里程也。
文知摺観音
それより十七、八丁、山の方ヘ行って、谷あいに文知摺石あり。柵が築いて有る。草の観音堂(文知摺観音堂)有り。杉や檜、六、七本有り。虎が清水という小さく浅い水有り。福島より東の方也。その辺を山口村という。それより瀬の上へ出るには月の輪の渡しといって、岡部の渡しより下にある渡しを使う。それを渡れば十四、五丁にて瀬の上に至る。山口村より瀬の上へ二里程。
     
医王寺
一 瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ兄弟ノハタザホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年、弐本ヅゝ同ジ様ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。
医王寺
一 瀬の上より佐場野ヘ行く。佐藤庄司の寺が有る。寺の門へは入らず。西の方へ行く。堂有り。堂の後の方に庄司夫婦の石塔有り。堂の北の脇に兄弟(継信、忠信)の石塔有り。その脇に「兄弟ノハタザホ(旗竿)ヲサシタレバはた出シ」という竹有り。毎年、二本づつ同じ様に生ず。寺には判官(義経)殿の笈、弁慶が書いた般若心経などがある由。系図も有る由。
     
飯坂
福島ヨリ弐里。こほり(桑折)ヨリモ弐里。瀬ノウヱヨリ壱リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福島ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト可行。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福島ト出タル由。昼ヨリ曇、夕方ヨリ雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿。湯ニ入。
飯坂
福島より二里。桑折(伊達郡桑折町)からも二里。瀬の上一里半。川を越え、十町程東に飯坂という所有り。湯有り。村の上に庄司館跡(大鳥城址)有り。下るには福島より佐波野、飯坂、桑折と行き、上りは、桑折、飯坂、佐場野、福島と出る由。昼より曇り、夕方より雨降る。夜に入り、強くなる。飯坂に宿す。湯に入る。
     
一 三日
雨降ル。巳ノ上尅止。飯坂ヲ立。桑折(ダテ郡之内)ヘ二リ。折々小雨降ル。
一 三日
雨降る。午前9時半頃止む。飯坂を立つ。桑折(伊達郡の内)へ二里。折々小雨降る。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m


本文・曽良随行日記の現代語訳および句の解釈

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曽良随行日記は「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」のシリーズ「芭蕉について」からそのまま

転記しています。
ただし、章段によっては、滞在日に合わせて元のテキストを分割して掲載しているのもあります。

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第8集 芭蕉と福島


底本について

「おくのほそ道」の本文は、素龍清書の「西村本」を底本としています。
 
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