松尾芭蕉・おくのほそ道文学館
平泉の章段

【出典】 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡  第3集「芭蕉と平泉」  [文学館目録]
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「おくのほそ道」芭蕉句集  夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
16 高館・句碑 毛越寺・句碑 [句碑建立地]
平泉町
(左)高館
(右)毛越寺(もうつうじ)
[句解釈]   人気のないところに、今はただ夏草だけが生い茂るばかりだが、ここは、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところである。知るや知らずやこの夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われる。
「おくのほそ道」の旅から300年目を迎えた平成元年、平泉では「奥の細道300年 平泉芭蕉祭」が行われ、中尊寺金色堂の旧覆堂脇に芭蕉像を建て、高館の頂に上の句と「平泉」の章段を刻む「おくのほそ道」記念碑を建てた。
高館は、中尊寺の東南にある丘陵で、判官館または衣川館と呼ばれる。高館は、その昔源義経が藤原秀衡を頼って下向した時に居城したところで、秀衡の子泰衡によって家臣や妻子もろとも討たれたところでもある。
芭蕉は、元禄2年(1689年)の夏、曽良とともにこの高館を訪れ、義経主従を通して「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んで人の世の興亡を儚んだ。
毛越寺にも同句の石碑があり、明和6年(1769年)に高館から毛越寺に移した芭蕉真筆の句碑(写真で左の方)の他、平泉出身の俳人素鳥(一関法泉院住職)が文化3年(1806年)に建てた句碑(写真で右の方)や新渡戸稲造が英訳した句碑も見られる。
「おくのほそ道」曽良句集  卯の花に兼房みゆる白毛かな (うのはなに かねふさみゆる しらがかな)
卯の花清水 卯の花清水・句碑 [句碑建立地]
平泉町
卯の花清水
[句解釈]   夏草に混じって咲いている白い卯の花を見ていると、兼房が、白髪をふり乱して敵に向かう姿が浮かんでくることよ。
「卯の花清水」は、かつて名水地として知られたところで、この一角に曽良の句碑が建っている。上の句は、文治5年(1189年)、義経主従が藤原泰衡の軍勢と交戦のとき、白髪を振り乱し、勇猛果敢に戦った兼房について詠んだもの。兼房は、義経一家の最期を見届けた後、敵の大将と戦い、大将諸共、火の中に消え入ったと伝えられる。
「おくのほそ道」芭蕉句集  五月雨の降のこしてや光堂 (さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)
17 中尊寺金色堂 金色堂脇・芭蕉句碑 [句碑建立地]
平泉町
中尊寺金色堂脇
[句解釈]   あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか。
光堂とも称される金色堂は中尊寺創建当初の唯一の遺構で、明治30年(1897年)の修理の際に棟木の墨書銘が発見され、天治元年(1124年)に落成したことが明らかになった。
かつて栄華を極めた平泉を訪ねてみれば、粗方の古きものが土と消えた中で、金色堂だけは500年を越える歳月を忍耐し、かつての姿をとどめていた。芭蕉は、岩沼の「武隈の松」や多賀城の「壷の碑」、鹽竈神社の「宝燈」といった千載の記念物と出会い、そして感受した「存命の悦び」が、ここに至ってその極みに達した。「五月雨」は、芭蕉が特に好んで用いた季語であり、この「五月雨」を「降のこして」と擬人化し、金色堂の保護に一役買ったことにしたのも、平泉で得られた十分なる満足心の表れと受け取ることができる。
  
おくのほそ道 現代語訳
平   泉
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
 夏草や兵どもが夢の跡
 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
 五月雨の降のこしてや光堂
藤原三代にわたる栄華も、今となっては夢のようであり、平泉の表門の跡は一里程手前にある。秀衡の館跡は、今では田や野原に変わり果て、秀衡が造らせた金鶏山だけが、その形をとどめている。まずは、高館に上ってみたが、そこから見える北上川は、南部地方から流れ来る大河である。衣川は、泉ヶ城のまわりを流れ、高館の下で北上川と合流している。泰衡たちの屋敷跡は、衣が関を隔てたところにあり、南部地方からの出入り口を固めて蝦夷の侵入を防いだと見られる。それにしても、よりすぐった忠義心のある家来たちが高館にこもり功名を競ったが、そうして得られた功名も一時の夢と消え、今では草が生い茂るばかりだ。杜甫の「国が破れ滅びても、山や河だけはむかしのままの姿で残っている。荒廃した城にも春はめぐり来るが、草木だけが生い茂るばかりだ」の詩を思い浮かべ、笠を置いて腰をおろし、いつまでも栄華盛衰の移ろいに涙したことであった。

人気のないところに、今はただ夏草だけが生い茂るばかりだが、ここは、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところである。知るや知らずやこの夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われる。

夏草に混じって咲いている白い卯の花を見ていると、兼房が、白髪をふり乱して敵に向かう姿が浮かんでくることよ。


かねてから聞いて驚嘆していた経堂と光堂が開かれていた。経堂には、清衡、基衡、秀衡の像が残されており、光堂には、これら三代の棺が納められ、また、三尊の仏像が安置されている。七宝が散り失せ、珠玉を飾った扉は風に破れ、金箔が施された柱は霜や雪に朽ちて、もはや、すべてがくずれ廃れて何もない草むらとなりそうであったのを、四方を新たに囲い、屋根瓦を葺いて雨風をしのいでいる。これにより、しばらくは、遠い昔をしのぶ記念物とはなっているのである。


あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか。
  
曽良随行日記 (一関平泉)
元禄2年(1689年)5月12日(新暦6月28日)〜5月14日(新暦6月30日)
原 文 現代語
一 十二日
曇。戸今を立。三リ、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ、安久津(松島ヨリ此迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗)一リ、加沢。三リ、皆山坂也。一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。
一 十二日
曇り。戸今(登米)を立つ。三里、雨降り出す。上沼新田町(長根町とも)三里、安久津(松島よりここ迄両人共に歩行。雨強く降る。馬に乗る)一里、加沢(金沢。岩手県西磐井郡花泉町内)。三里、皆山坂也。一の関に夕方着く。雨強く合羽も通る程也。宿す。
     
一 十三日
天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。高館衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)泉城・さくら川・さくら山(束稲山)・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂(新御堂)无量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス
一 十三日 
天気よし。午前10時頃より平泉ヘ趣く。一里、山の目。一里半、平泉ヘ、以上二里半というが二里に近い(伊沢八幡は一里余リ奥)。高館、衣川、衣ノ関、中尊寺、(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山(束稲山)、秀平やしき等を見る。泉城より西に霧山が見えるというが見えず。達谷が岩窟へ行かず。三十町有る由。月山、白山を見る。経堂は別当留主にて開かず。金鶏山見る。シミン堂(新御堂。無量光院のこと)、无量劫院(無量光院)跡を見、午後4時頃帰る。宿の主人、風呂を準備して待つ、宿す。
     
一 十四日
天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。
一 十四日
天気よし。一の関(岩井郡の内)を立つ。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m


本文・曽良随行日記の現代語訳および句の解釈

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曽良随行日記は「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」のシリーズ「芭蕉について」からそのまま

転記しています。
ただし、章段によっては、滞在日に合わせて元のテキストを分割して掲載しているのもあります。

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第3集 芭蕉と平泉


底本について

「おくのほそ道」の本文は、素龍清書の「西村本」を底本としています。
 
句読点や章段ごとの見出しは「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」
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