松尾芭蕉・おくのほそ道文学館
出羽越えの章段

【出典】 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡  第21集「芭蕉と出羽越え」  [文学館目録]
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「おくのほそ道」芭蕉句集  蚤虱馬の尿する枕もと (のみしらみ うまのばりする まくらもと)
18 尿前の関跡・句碑 封人の家・句碑 [句碑建立地]
大崎市鳴子温泉
尿前の関跡
最上町
封人の家
[句解釈]   蚤や虱に悩まされる旅夜ではあるが、人と住まいを共にする習いの中、馬が枕もとで小便をするというのも心安く趣があるものだ。
封人の家には一宿の思いで宿を求めたものの、あいにくの雨で翌日の出立を見送り、都合3日間の逗留となった。その間、芭蕉は何をするでもなく時間を過ごし、時おり囲炉裏ばたに姿を見せたりしたのだろう。そうした中、芭蕉の心を強く捉えたのが馬屋(まや)の馬たちだったように察せられる。人馬が一つ家で寝食をともにする生活環境は、この道中で更に馬と因縁を深めた芭蕉にとって大変に興味深く、何度となく馬屋に足を運び、別れを辛くするほどに小馬や母馬と慣れ親しんだように思われる。

こうした中から「蚤虱」の句が生まれたものとして、「蚤や虱に悩まされる旅寝ではあるが、人と住まいを共にする習いの中、馬が枕もとで小便をするというのも心安く趣があるものだ」などと解釈すれば、芭蕉が次のように第二句に何度か推敲の手を入れ、馬たちへの思い入れを漂わせているのも頷ける。

蚤虱 馬のばりこく まくらもと(伊藤風国編「泊船集」)
蚤虱 馬の尿(バリ)つく 枕もと(支考編「俳諧古今抄」)
蚤虱 馬の尿(バリ)する 枕もと(芭蕉自筆本。曽良本)
 
しかし、芭蕉が就寝した部屋は馬屋から10m近く離れた中座敷と見られているので、枕もとで馬が尿をするなどということは考えにくい。誇張または座興といった按配に理解することになろうが、牛や馬が小便する音はかなりなものであるから、夢うつつの中で、10mほど先の音源を枕もとと勘違いしてしまうことはあったかも知れない。

○「芭蕉と出羽越え-最上町と封人の家と「蚤虱」の句について」より ○封人の家の平面図
  
おくのほそ道 現代語訳
出羽越え
南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
 蚤虱馬の尿する枕もと

あるじの云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て人を頼侍れば、究境の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。
南部地方に続いている道を遠くに望み見て、岩手の里に泊まった。小黒崎や美豆の小島を通り過ぎ、鳴子温泉から尿前の関に差しかかって出羽の国へ越えて行こうとした。この道は旅人がめったに通らないので関所の番人に怪しく思われて、ようやく関を越すことができた。大きな山を登って行くうちに既に日が暮れてしまったので、封人の家(国境の番人の家)を見かけて一夜の泊りをたのんだ。しかし、三日間雨風が激しかったため、わびしい山中に逗留することになった。

 蚤や虱に悩まされる旅夜ではあるが、人と住まいを共にする習いの中、馬が枕もとで小便をするというのも心安く趣があるものだ。

宿の主人が言うには、ここから出羽の国に行くには、間に大きな山があって、道もはっきりしていないので、道案内の人を頼んで越えていくのがよい、とのことだった。それならばと言って人を頼んだところ、いかにも力が強そうな若者が、反脇差を腰に差し、樫の木の杖をもって我々の先に立って歩いて行く。今日こそきっと危険な目にあいそうな日であると、びくびくしながら後について行く。宿の主人が言った通り、山は高く木々が生い茂って鳥の声一つ聞こえず、枝葉が茂り合って木の下を暗くし、まるで夜を行くようである。杜甫の詩に「霾雲端」(巳入風磴霾雲端/すでにふうとうにいリてうんたんにつちふる)とあるように、大風が土や砂を吹き上げて雲の端から吹き降ろすときのような心もとない心地で、笹やぶの中を踏み分け踏み分けして進み、時には水を渡り岩につまづいて冷や汗を流し、やっとのことで最上の庄に出た。あの案内の男は、この道では必ずなにか良くないことが起こる。何事も無く送ることができてほんとうに幸いだったと言って、喜んで別れて行った。後になって聞いてさえ、胸がどきどきするばかりであった。
  
曽良随行日記 (一関〜尾花沢)
元禄2年(1689年)5月14日(新暦6月30日)〜5月17日(新暦7月3日)
原 文 現代語
一 十四日 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。四リ、一ノハザマ・岩崎(栗原郡也)、藻庭大隈。三リ、三ノハザマ・真坂(栗原郡也)(此間ニ二ノハザマ有。)岩崎ヨリ金成ヘ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。 一 十四日 天気晴れ。一ノ関(岩井郡之内)を立つ。藻庭大隈(茂庭大蔵)の一ノハザマ(三迫)・岩崎(岩ヶ崎)(栗原郡也)まで四里。(岩ヶ崎から)三ノハザマ(一迫)・真坂(栗原郡也)まで三里。此間に二迫有り。岩崎より金成ヘ行く中程につくも橋(津久毛橋)有り。岩崎より一里半程、金成よりは半里程。岩崎より行けば道より右の方也。
       
四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山ハ正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也(二リ余)。故、川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓テ又曇テ折々小雨スル也。 (真坂より)四里半の所に伊達将監(岩出山三代伊達敏親)の岩手山(岩出山)有り。屋敷も町も平地也。上方の山は正宗(伊達政宗)の初の居城也。杉茂り、東の方、大川也。玉造川(江合川)と云う。岩山也。(岩出山の)入口半里程前より右へ切れ、一ツ栗と云う村に至る。小黒崎見物を予定した為。(しかし小黒崎まで)まだ距離があってこの先二里余。ゆえに川に添って岩出山に取って返し日暮れる。岩手山に宿す。真坂で雷雨に合う。すぐに晴れるが、にわかにまた曇って折々小雨降る。
  
中新田町。小野田(仙台ヨリ最上ヘノ道ニ出合)。原ノ町。門沢(関所有)。漆沢。軽井沢。上ノ畑。野辺沢。尾羽根沢。大石田(乗船)
 
 
 
 
岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。
右ノ道遠ク、難所有之由故、道ヲかヘテ、
【岩出山。】 中新田町(宮城県加美郡)。小野田(仙台より最上への道に出合う。加美郡小野田町)。原ノ町(小野田町)。門沢(関所有り。小野田町)。漆沢(小野田町)。軽井沢(小野田町)。上ノ畑(山形県尾花沢市)。野辺沢(尾花沢市)。尾羽根沢(尾花沢)。大石田(乗船。山形県北村山郡大石田町)。
 
岩出山より門沢まで、近道も有る。
右の道遠く、難所があると聞き経路を変更し、(後記の道筋をたどる。)
             
一 十五日 小雨ス。二リ、宮。
 
 
○壱り半、かぢハ沢。此辺ハ真坂ヨリ小蔵ト云かゝリテ、此宿ヘ出タル、各別近シ。 
 
○此間、小黒崎水ノ小島有。名生貞ト云村ヲ黒崎ト所ノ者云也。其ノ南ノ山ヲ黒崎山ト云。名生貞ノ前、川中ニ岩島ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小島也。今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。宮・一ツ栗ノ間、古ヘハ入江シテ、玉造江成ト云。今、田畑成也。 
 
一リ半、尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有、断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。 
一リ半、中山。 
 
○堺田。村山郡小田島庄小国之内。出羽新庄領也。中山ヨリ入口五・六丁先ニ堺杭有。
一 十五日 小雨降る。【岩出山から】宮(下宮。大崎市岩出山)まで二里。
 
○(下宮から)かぢハ沢(鍛冶谷沢。玉造郡鳴子町)まで一里半。この辺に来るには、真坂から小蔵(小僧。栗原市一迫)経由で(鍛冶谷沢宿へ)真っ直ぐ来れるゆえ<岩出山経由と比べ>各別近い。[地図参照]
 
○此間(下宮と鍛冶谷沢の間)、小黒崎・水ノ小島(美豆の小島)有り。名生貞(名生定。鳴子町)と云う村を黒崎と土地の者は云う。その南の山を黒崎山と云う。名生貞の前、川中の岩島に松三本、その外小木が生えて有る。水ノ小島也。今は川原にあり向こう岸に付けている。古は川の中也。宮(下宮)・一ツ栗の間は、古は入江で玉造の江と云ったが今は田畑となる。
 
(名生定から)尿前まで一里半。尿前へ取り付く左の方、川向うに鳴子の温泉有り。「沢子(佐波古)の御湯」と云う。仙台の説也。関所有り、断(事情を説明しただけでは通行)六ヶ敷(むずかしき)也。出手形(通行手形)を用意するべき。
一リ半、中山。
 
○堺田(最上郡最上町)。村山郡小田島庄小国(最上町)の内。出羽新庄領也。中山より(堺田に入って、その)入口五・六丁先に堺の杭が有る。
     
十六日 堺田二滞留大雨。宿和泉庄や新右衛門兄也。 十六日 堺田に滞留。大雨。宿は和泉庄屋新右衛門の兄の屋敷。
     
十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。三リ、市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野ゝ五、六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ヘ着。一宿ス。 十七日 快晴。堺田を立つ。一里半、笹森関所有り。新庄領。関守は百姓で、貢(租税)を宥(ゆる)し置く也。笹森。三里、市野ゝ(尾花沢市)。小国という村へ掛かれば回り道と成る故、一バネ(一刎。最上町)と云う山路(山刀伐峠)へ掛かり、此所(市野ゝ)に出る。堺田より案内者に荷を持たせ峠を越す。市野ゝから五、六丁行ったところに関所有り。最上御代官所也。百姓番の関所也。関ナニトヤラ云う村(関谷村。「関屋」とも)也。正厳(しょうごん)・尾花沢の間、村(二藤袋村)有り。ここで野辺沢へ分かれる也。正ごん到着前に大夕立に逢う。昼過ぎ、清風宅へ着く。一宿す。
(2箇所)はの「岩出山」から続く意を表わす。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m


本文・曽良随行日記の現代語訳および句の解釈

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曽良随行日記は「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」のシリーズ「芭蕉について」からそのまま

転記しています。
ただし、章段によっては、滞在日に合わせて元のテキストを分割して掲載しているのもあります。

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