松尾芭蕉・おくのほそ道文学館
出羽三山の章段

【出典】 俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡  第24集「芭蕉と出羽三山」  [文学館目録]
前頁 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、・・・ 序文
「おくのほそ道」芭蕉句集  有難や雪をかほらす南谷 (ありがたや ゆきをかおらす みなみだに)
24 [句碑建立地]
羽黒山の南谷別院跡。
[句解釈]   この霊山の谷あいから、雪の香の南風が吹き寄せています。旅に疲労した我が身にとっては、この上なく尊く有難いことです。
霊山の森を借景とした幽邃(ゆうすい)の地に身をゆだね、静養の時を過ごすこととなった芭蕉は、残雪の谷あいから吹き寄す薫風に、森の香に混じって、ほのかな雪の香りを体感した。それは、暑さに火照り、旅に疲れた身体にとって、五感のすべてを駆使して感受すべき有り難い風だった。

こうした思いを込めて、「憐愍の情」を傾ける旅の支援者に挨拶句として披露された「有難や雪をかほらす風の音」は、後に、「雪をかほらす風」の地を一点「南谷」に絞って引き締められ、「有難や雪をかほらす南谷」の句形で「おくのほそ道」に採録された。


本句は、其角編「花摘」(元禄3年奥書)においては「有難や雪をめぐらす風の音」であり、芭蕉自筆本(中尾本)の所収句は、素龍本と同じ「有難や雪をかほらす南谷」だが、中七の「めぐら」を見せ消ちにして「かほら」に改められている。このことから、決定稿に至るまでの推敲過程を推し量ると、次のようになる。


有難や雪をかほらす風の音 (俳諧書留)
有難や雪をめぐらす風の音 (花摘)
有難や雪をめぐらす南谷
有難や雪をかほらす南谷  (「おくのほそ道」中尾本)
有難や雪をかほらす南谷  (「おくのほそ道」素龍本)
「おくのほそ道」芭蕉句集  涼しさやほの三か月の羽黒山 (すずしさや ほのみかづきの はぐろさん)
25 [句碑建立地]
(左)羽黒山山頂
(右)手向の宿坊「大進坊」
[句解釈]   日の落ちた羽黒山に佇み、西の空を眺めれば、はるかな山のあたりに三日月が出ているよ。たちこめる山気の中に見る月は、神々しくさえ感じられることである。
芭蕉が羽黒山に登ったのが6月3日であるから、三日月を詠んだ「涼しさやほの三か月の羽黒山」の句の情景は、当日、一の坂から南谷へ向かう道すがらのもの、ということになる。

随行日記によれば、この日の天気は晴れで、一の坂の手前を流れる祓川の辺りで暗くなったという。また、参道脇の杉並木の多くは、天宥が寛永7年(1630年)別当に就いてから植えられたものであり、当時はまだ若木の内であった。こうした情況から推して、登山の途中、足を止めて振り返れば、木々の間から沈みかけた三日月が見えたことだろう。


二の坂を登り終えて道が平坦になったあたりに、芭蕉塚とも称され、明和6年(1769年)に建てられた三日月塚がある。ここは、伝来の通りに、芭蕉が三日月を鑑賞したとするのに最も相応しいところである。当所の説明板には、この折の芭蕉を偲んで「翁、羽黒山畄(留)杖の折、羽黒の句『涼しさや・・・』の発句の処」と記されている。


本句の初案にあたる句は、短冊に記された「凉風やほの三ヶ月の羽黒山」であるが、この句が、果たして月を眺めた当日の3日に詠まれたものかについては、曽良の「俳諧書留」にその手懸かりがあり、これには、「凉風や」句が、月山、湯殿山の句と並べて記されていることから、実際には、巡礼から帰った後の、8日または9日ということになる。


芭蕉は、三日月の日には口を閉じながらも、羽黒山から見た夕刻の情景を十分に記憶に留め、そして後日、短冊に向き合ったということなのだろう。
「おくのほそ道」芭蕉句集  雲の峯幾つ崩て月の山 (くものみね いくつくずれて つきのやま)
26 [句碑建立地]
月山山頂、および上の25の建立地。
[句解釈]   昼間の陽射しの中で、猛々しく起立していた雲の峰はいつしか崩れ、今は、薄明かりに照らされた月の山が嫋(たお)やかに横たえているばかりであるよ。

月山は、出羽山地の鳥海山に次ぐ大峰で、月の神・月読命を祭神として「月の山」とも呼ばれる。芭蕉が、出羽三山の里で見られた月は、月齢三から九の月で、曽良の随行日記をもとにすれば、月山登拝時の月は上弦の六日月だった。

六日月は、おおよそ、昼前に東の空に昇り、月山山頂に到着した申の上刻(午後3時半ごろ)には南寄りの天空にあるが、陽光の為にまだ判然としない。しかし、日没が進むにつれて南の空高くに鮮明となる。「おくのほそ道」の本文にある「日没て月顕る」は、六日月下のこうした情景を記したものと見られる。

そして本文に掲げた発句が「雲の峯幾つ崩て月の山」で、これの季語は、主として夏に、強い上昇気流で湧き上がる「雲の峰(入道雲)」である。「雲の峯幾つ崩て」とは、登拝の途に見た天地の営みで、月山を背景にして、天空を突く猛々しい雲の、湧いては消えてゆくありさまを言ったものだろう。

しかし、芭蕉と同じ道すがらに眺める月山は、これとは逆に、どこもかしこも円やかで柔和である。こうした視点に立って本句を鑑賞することにすれば、「雲の峯幾つ崩て」と「月の山」には、「剛」と「柔」を取り合わせた妙があって、昼に、大きく起立していた雲の峰はいつしか崩れ、夜に、嫋(たお)やかで神々しい月の山が六日月の光に照らされて横たえている、といった情景が見えてくる。

「おくのほそ道」芭蕉句集  語られぬ湯殿にぬらす袂かな (かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)
27 u502_x.jpg (3806 バイト) [句碑建立地]
湯殿山神社の参拝口近く、および25の建立地。
[句解釈]   いにしえより恋の山と聞こえた湯殿の里に分け入れば、語らず聞かずの幽谷の奥に尊き神秘を拝し、袂を濡らしたことであるよ。
「おくのほそ道」曽良句集  湯殿山銭ふむ道の泪かな (ゆどのさん ぜにふむみちの なみだかな)
7 u502_x.jpg (3806 バイト) [句碑建立地]
湯殿山神社の参拝口近く。
[句解釈]   湯殿山の霊域では、落ちたものを拾い上げることが禁じられている。こうした訳からだろうか、参道は、お賽銭を散り敷いたような有様であるよ。これを踏みつつお参りに上がると、かたじけない思いで涙がこぼれるのである。
  
おくのほそ道 現代語訳
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて誹諧興行。
 有難や雪をかほらす南谷

五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山・湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉という者を訪ね、その案内で羽黒山の別当代会覚阿闍梨にお目にかかる。南谷の別院に宿泊したが、阿闍梨は、思いやりの心で、懇(ねんご)ろにもてなしてくださった。
四日、本坊において俳諧を興行する。


この霊山の谷あいから、雪の香の南風が吹き寄せています。旅に疲労した我が身にとっては、この上なく尊く有難いことです。


五日、羽黒権現に参詣する。羽黒山を開山した能除大師は、どのような時代の人かは知らない。延喜式に「羽州里山の神社」とある。書きうつすときに、「黒」の字を「里山」としてしまったのだろうか。また、「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と言うのだろうか。この国を出羽と言うのは、鳥の羽を国の貢物として朝廷に献上したから、と風土記に書いてあるということである。羽黒山に、月山と湯殿山を合わせて三山と称している。この寺は、武蔵国江戸の東叡山に属して、天台宗の止観の教えが月の光のように行き渡り、円頓融通の教えも合わせ灯って、僧坊が棟を並べて建つほどに隆盛している。修験者は修行に励んでいて、人は、こうした霊山霊地のごりやくを貴びながらも、そのあらたかさに恐れを抱いている。この繁栄はいつまでも続くと思われ、実に立派なお山と言うことができるだろう。
八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば湯殿に下る。
谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。
岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。
惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。
 涼しさやほの三か月の羽黒山
 雲の峯幾つ崩て月の山
 語られぬ湯殿にぬらす袂かな
 湯殿山銭ふむ道の泪かな
 曽良
八日、月山に登る。木綿注連を首に掛け、宝冠に頭を包み、強力という者に先導されて、雲や霧が立ち込めて冷え冷えとした中を、氷雪を踏んで八里ばかり登れば、まさに日月の通り道にある雲の関所に入ってしまうかと思いながら、息絶え絶えに、冷え切った身体で頂上に到着すると、折から日が暮れて、既に出ていた月が鮮明となった。笹を敷き、まとめた篠竹を枕にして、横になって夜が明けるのを待つ。朝日が出て雲が消えたので、湯殿山の方へ下った。
谷の傍らに鍛冶小屋というのがある。この国の刀鍛冶、月山という人が、霊験のある水をここに選び、身を清めて剣を打ち、ついに「月山」と銘を刻んで世にもてはやされた。これは、中国のかの龍泉の水で鍛錬したというのに通じるものだろうか。その昔、名剣を作り上げた干将と妻の莫耶の故事を慕うものである。熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切と知られたことである。
岩に腰かけてしばらく休んでいると、三尺ばかりの桜が、つぼみを半分ほど開きかけていた。降り積もった雪の下に埋まりながら、春を忘れずに花を開こうとする遅ざくらの花の心は実に健気である。「炎天の梅花」が、ここに花の香を匂わしているようであり、行尊僧正のおもむき深い歌も思い出されて、いっそうしみじみとした思いに駈られた。
一般に、湯殿山の細かいことは、修行者の決まりとして、他人に話すことが禁じられている。従って、これ以上は筆を止めて記さないことにする。南谷の宿坊に帰ったのち、阿闍梨の求めに応じて、三山順礼の発句を短冊に書いた。


日の落ちた羽黒山に佇み、西の空を眺めれば、はるかな山のあたりに三日月が出ているよ。たちこめる山気の中に見る月は、神々しくさえ感じられることである。

昼間の陽射しの中で、猛々しく起立していた雲の峰はいつしか崩れ、今は、明かりに照らされた月の山が嫋(たお)やかに横たえているばかりであるよ。

いにしえより恋の山と聞こえた湯殿の里に分け入れば、語らず聞かずの幽谷の奥に尊き神秘を拝し、袂を濡らしたことであるよ。

湯殿山の霊域では、落ちたものを拾い上げることが禁じられている。こうした訳からだろうか、参道は、お賽銭を散り敷いたような有様であるよ。これを踏みつつお参りに上がると、かたじけない思いで涙がこぼれるのである。
  
曽良随行日記 (出羽三山)
元禄2年(1689年)6月3日(新暦7月19日)〜6月10日(新暦7月26日)
原 文 現代語
三日 天気吉。新庄ヲ立。一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。
 
 
一リ半、
古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧ニ人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。
 
 
 
平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。此間ニ
仙人堂白糸ノタキ、右ノ方二有。状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。
 
 
 

一リ半、厂川。ニリ半、羽黒手向。荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院ヘ、大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子ヘ渡。本坊ヘ持参、再帰テ、南谷ヘ同道。祓川ノ辺ヨリクラク成。本坊ノ院居所也。
 
 
 
四日 天気吉。昼時、本坊ヘ蕎切ニテ被招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢。互ニ泣涕ヌ。
 
 
 
五日 朝の間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ註連カク。夕飯過テ、先、羽黒ノ神前に詣。帰、俳、一折ニミチヌ。
 
 
六日 天気吉。登山。三リ、強清水、ニリ、平清水(ヒラシミツ)、ニリ、高清(高清水)、是迄馬足叶。道人家小ヤガケ也。彌陀原コヤ有。中食ス。是ヨリフダラ、ニゴリ沢、御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。
 
 
 
 
 
〇本道寺へも、岩根沢へも行也。
 
七日 湯殿ヘ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首、コヤ有。不浄汚離、コヽニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦ガケナドシテ御前ニ下ル(御前ヨリスグニ、シメカケ・大日坊へカヽリテ鶴ヶ岡ヘ出ル道有)。
 
 
 
是ヨリ奥へ持タル金銀銭持テ不帰。惣而取落モノ取上ル事不成。浄衣・法冠・シメ斗ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊ヨリ弁当持セ、サカ迎セラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。
 
 
 
 
△ハラヂヌギカヘ場ヨリ、シヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。
 
△堂者坊ニ一宿、三人、一歩。月山、一夜宿、コヤ賃廿文。方々役銭貳百文之内。散銭貳百文之内。彼是、一歩銭不余。
 
 
八日 朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴。和交院御入、申ノ刻ニ至ル。 
 
九日 天気吉、折々曇。断食、及昼テ、シメアグル。ソウメンヲ進ム。亦、和交院ノ御入テ、飯・名酒等持参。申刻ニ至ル。花ノ句ヲ進テ、俳、終。ソラ発句、四句迄出来ル。
 
 
十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄円入被迎、又、大杉根迄被送。祓川ニテ手水シテ下ル。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。
道ヽ小雨ス。ヌルヽニ不及。
 
 
 
申ノ刻、鶴ヶ岡長山五郎右衛門宅ニ至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。
 
 
十一日 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。
 
 
十二日 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。
 
 〇羽黒山南谷方。近藤左吉、観修坊、南谷方也。且所院、南陽院、山伏源長坊、光明坊、息・平井貞右衛門。○本坊芳賀兵左衛門、大河八十良、梨水、新宰相。
 ○花蔵院○正隠院、両先達也。円入(近江飯道寺不動院ニテ可尋)、七ノ戸南部城下、法輪陀寺内浄教院珠妙。

 ○鶴ヶ岡、山本小兵ヘ殿、長山五郎右衛門縁者。図司藤四良、近藤左吉舎弟也。
三日 天気晴れ。新庄を立つ。一里半、元合海(本合海)。次良兵へ方へ甚兵へ方からの添状を渡す。大石田平右衛門方からの添状も渡す。船、工面して乗せてもらう。
 
一里半、古口へ舟を着ける。合海(大蔵村。本合海の上流部)から乗船した禅僧ニ人と同船、清川にて別れる。(芭蕉庵で死去した)毒海長老に因みの有る僧。是又、平七方へ新庄甚兵ヘからの添状を渡す。関所、出手形、新庄より持参。平七の子、呼四良、番所へ持って行く。舟を継ぎ、三里半、清川に至る。酒井左衛門殿領也。
 
平七からの添状、宛先を書き忘れる。此間(古口・清川間)に仙人堂・白糸の滝、右の方に有り。清川関所に渡す添状が無く、役人は船から上げず(本件は、この先、厂川<狩川>、手向と実際に旅が続けられた経緯より、結局、清川で下船が許されたと見るのが順当)。
 

一里半、厂川(狩川)。ニ里半、羽黒手向。荒町。午後4時頃、近藤左吉(俳号露丸・呂丸)の宅に着く。本坊より帰るのを待ち露丸に会う。本坊若王寺の別当執行代和交院(和合院照寂。会覚阿闍梨)へ、大石田平右衛門(高野一栄)より案内状。露丸子へ渡す。(露丸が)これを本坊へ持参。帰宅後、南谷へ同道。祓川の辺りより暗くなる。(南谷別院は)本坊(若王寺)の院居所。
 
四日 天気晴れ。昼時、本坊へ蕎切(そばきり)に招かれ、会覚に謁す。并(あわせて)南部殿御代参の僧浄教院(珠妙。南部城下法輪陀寺内浄教院の僧)・江州円入(江州飯道寺の僧)に会う。俳諧あり、表(六句)ばかりにて帰る。三日の夜、希有(けう。思いがけずに)観修坊釣雪に逢う。互いに泣涕す。
 
五日 朝の間、小雨降る。昼より晴れる。昼まで断食潔斎して首に註連(注連。しめ)を掛ける。夕飯過ぎて、まず羽黒の神前に詣ず。帰って俳諧あり、(昨日に続けて裏を詠み)一折(初折)を終える。
 
六日 天気吉。月山に登る。三里、強清水(四合目)、ニ里、平清水(六合目)、ニ里、高清(高清水。現在「合清水」で七合目)、是まで馬足叶う。道人家、小屋掛け(仮小屋)也。彌陀原(弥陀ヶ原、御田ヶ原。八合目)小屋有。中食す。是より補陀落、濁沢、御浜などという所へ掛かる。難所成。(弥陀ヶ原に)御田有。行者戻リ、小屋有。午後3時半頃、月山に至る。まず、御室を拝して、角兵衛小屋に至る。雲晴れて来光(日の出・日の入りの時、霧中、太陽の反対側に見られるブロッケン現象)なし。(来光は)夕には東に、旦(あした。朝)には西に有る由也。
 
〇(頂から)本道寺へも、岩根沢へも行ける。
 
七日 湯殿山神社ヘ趣く。鍛冶屋敷、小屋有。牛首、小屋有。不浄汚離(不浄垢離。「冷水を浴びて体を清浄にする」意)のところで水浴びる。少し行き、(装束場で)草鞋脱ぎ替え、手繦(たすき)掛けなどして御前(ご神体)に下る(御前よりすぐに、七五三<注連>掛・大日坊に掛かり鶴岡へ出る道有り)。
 
是より奥へ持参した金銀銭は持ち帰れず。惣じて取り落したものは拾い上げる事できず。浄衣・法冠(宝冠。頭を包む長い白木綿の布)・しめ(注連)ばかりにて行く。昼時分、月山に帰る。昼食して下向す。強清水まで光明坊より弁当持参、さか迎(坂<境>迎え。「人を出迎えて、酒などを出してもてなす」意)を受ける。暮に及び、南谷に帰る。甚だ労る(疲れる)。
 
△草鞋脱ぎ替え場(装束場)より、志津と云う所へ出て、最上へ行ける。
 
△堂者坊(行者の宿泊所)なら、三人で一歩(銭)。月山(山頂)に一夜宿、小屋賃二十文。方々での役銭は二百文の内。散銭(賽銭)は二百文の内。彼是(かれこれ)一歩銭余らず。
 
八日 朝の間小雨。昼時より晴。和交院(南谷に)御入り、午後4時頃に至る。 
 
九日 天気吉、折々曇。断食潔斎、昼に及び、しめ(注連)を納め上げる。そうめんを進められる。又、和交院御入りで、飯・名酒等持参。午後4時頃に至る。花の句を進めて俳諧終る。曽良の発句、四句迄出来る。 
 
十日 曇。飯道寺正行坊(円入か)が入来し、会う。昼前、本坊に至りて、蕎切・茶・酒など出る。午後1時半頃に及ぶ。道まで円入に迎えられ、又、大杉根(今の爺杉のところ)まで見送られる。秡川にて手水して下る。左吉(呂丸)の宅より翁ばかり馬に乗る。光堂(黄金堂)迄釣雪見送る。左吉同道。道々小雨降る。濡れるに及ばず。
 
午後4時頃、鶴ヶ岡(鶴岡)の長山五郎右衛門宅に至る。粥を所望、食べ終えて眠って休む。夜に入り、発句出て一巡終る。
 
〇十一日 折々にわか雨降る。俳諧有り。翁、持病不快故、昼ごろ中断する。
 
〇十二日 朝の間にわか雨降る。昼晴れる。俳諧有り、歌仙終ル。
 
 〇羽黒山南谷方。近藤左吉、観修坊、南谷方也。且所院、南陽院、山伏源長坊、光明坊、息・平井貞右衛門。○本坊芳賀兵左衛門、大河八十良、梨水、新宰相。
 ○花蔵院○正隠院、両先達也。円入(近江飯道寺不動院ニテ可尋)、七ノ戸南部城下、法輪陀寺内浄教院珠妙。

 ○鶴ヶ岡、山本小兵ヘ殿、長山五郎右衛門縁者。図司藤四良、近藤左吉舎弟也。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m


本文・曽良随行日記の現代語訳および句の解釈

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曽良随行日記は「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」のシリーズ「芭蕉について」からそのまま

転記しています。
ただし、章段によっては、滞在日に合わせて元のテキストを分割して掲載しているのもあります。

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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡

第24集 芭蕉と出羽三山


底本について

「おくのほそ道」の本文は、素龍清書の「西村本」を底本としています。
 
句読点や章段ごとの見出しは「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」
の中で任意に付したものであり、
「おくのほそ道」の本文に存在するものではありません。

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