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おくのほそ道・旅の宿   (株)インプレスの「Internetホームページ用素材集(Special)」から
[ 其の3 ]

「おくのほそ道」の旅で芭蕉一行が宿泊したと伝えられるゆかりの地を、本文や曽良随行日記、増補行程記(盛岡市中央公民館所蔵)、取材写真など、様々な資料を交えて説明しています。
  

5月3日(新暦6月19日)

白石 -宮城県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
鐙摺白石の城を過、・・・
(「笠島」の章段)
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 三日
一 桑折トかいた(貝田)の間ニ伊達ノ大木戸ノ場所有(国見峠ト云山有)。コスゴウ(越河)トかいた(貝田)トノ間ニ福島領(今ハ桑折ヨリ北ハ御代官所也)ト仙台領(是ヨリ刈田郡之内)トノ堺有。左ノ方、石ヲ重テ有。大仏石ト云由。さい川(斎川)ヨリ十町程前ニ、万ギ沼・万ギ山有。 ソノ下ノ道、アブミコブシ(鐙摺石)ト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ次信・忠信が妻ノ御影堂(甲冑堂)有。同晩、白石ニ宿ス。一二三五。 
一 四日
雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折ゝ日ノ光見ル。
おくのほそ道・旅の宿
馬牛沼
  
「鐙摺」の遺跡
  
復元された白石城
 
奥州道中 増補行程記 - 白石城下
白石城下
 宿泊先不明

上の写真は、随行日記「万ギ沼」に書かれた「馬牛沼」。

真ん中の写真は、「鐙摺」の遺跡。

下の写真は復元された白石城。

資料写真と解説-鐙摺石
曽良の随行日記に「白石に宿す」とあるが、どこに宿泊したかは不明である。が、当時、飯塚(飯坂)から白石城下の間で宿泊設備を備えていたのは、越河宿と城下の陣屋近辺であり、飯塚から越河まで20kmに満たないことを考えれば、越河に宿したとは考えにくく、宿泊先は、陣屋があった現在の[寺屋敷前-本郷地区]が見込まれる。
第9集 芭蕉と白石
甲冑堂について
おくのほそ道関連地図帳 芭蕉と白石市
おくのほそ道関連地図帳 白石市南部
奥州道中 増補行程記 - 越河〜斎川
奥州道中 増補行程記 - 白石城下
  

5月4日〜7日(新暦6月20日〜6月23日)

仙台 -宮城県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す
(「仙台」の章段)
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 四日
岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
○笠島(名取郡之内)、岩沼・搏c之間、左ノ方一里計有。三ノ輪・笠嶋と村並テ有由、行過テ不見。
○名取川、中田出口ニ有。大橋・小橋二ツ有。左ヨリ右ヘ流也。
○若林川、長町ノ出口也。此川一ツ隔テ仙台町入口也。 
夕方仙台ニ着。其夜、宿国分町大崎庄左衛門。
一 五日
橋本善衛門殿ヘ之状、翁持参。山口与次衛門丈ニテ宿ヘ断有。須か川吾妻五良七ヨリ之状、私持参、大町弐丁目、泉屋彦兵ヘ内、甚兵衛方ヘ届。甚兵衛留主。其後、此方ヘ見廻、逢也。三千風尋ルニ不知。其後、北野や加衛門ニ逢(国分町ヨリ立町ヘ入、左ノ角ノ家の内。)、委知ル。

一 六日
天気能。亀が岡八幡ヘ詣。城ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ帰ル。

一 七日
快晴。加衛門(北野加之)同道ニテ権現宮(仙台東照宮)を拝、玉田・横野を見。つゝじが岡ノ天神ヘ詣、木の下ヘ行。薬師堂、古ヘ国分尼寺(実際は国分寺)之跡也。帰リ曇。夜ニ入、加衛門・甚兵ヘ入来。冊尺(短冊の誤り)並横物一幅づゝ翁書給。ほし飯一袋・わらぢ二足、加衛門持参。翌朝、のり壱包持参。夜ニ降。

一 八日
朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立。
第10集 芭蕉と岩沼
芭蕉について-なぜ岩沼と名取が逆転したか
二木の松について
奥州道中 増補行程記 - 二木の松(武隈の松)

第11集 芭蕉と名取
藤原実方について
おくのほそ道・旅の宿
現在の「芭蕉の辻」
  
亀岡八幡神社
 
奥州道中 増補行程記 - 仙台城下
国分町・大崎庄左衛門の旅籠屋
(5日以降については推測)

上の写真は、現在の「芭蕉の辻」。

下の写真は、亀岡八幡神社。
白石から、岩沼、名取を経て、夕方、仙台に到着した芭蕉一行は、国分町の大崎庄左衛門の旅宿で草鞋を脱いだ。
翌5日、紹介状を頼りに仙台藩士橋本善衛門宅を訪ね宿の提供を求めたが、同日、断りの知らせが芭蕉のもとに届いた。
宿探しが振り出しに戻り、今度は曽良が、須賀川の吾妻五良七が書いてくれた紹介状を、大町二丁目の甚兵衛に届け、頼りとした大淀三千風のことを訪ねようとしたが留守のために会えず、後に、宿屋に出向いてくれたが、三千風についての消息はつかめなかった。
この日、「おくのほそ道」の本文で「聊心ある者」、「風流のしれもの」と書かれた三千風門弟の加右衛門(和風軒加之)によって、三千風が既に仙台を離れた後であることを教えられ、これにより、芭蕉は人脈の当てを失い、7日まで大崎庄左衛門の旅籠屋に宿ることを決したものと見られる。  
                           曽良随行日記-5月6日の条「城ノ追手ヨリ入」について

曽良の随行日記にある「城ノ追手ヨリ入」(追手から仙台城に入る)は、当日出向いた「亀が岡八幡(亀岡八幡宮)」に通じる参道が、追手(大手門)の先にあったことによると解釈され、現在も、同じルートで八幡宮にたどることができる。ちなみに、「奥州道中 増補行程記」に、「亀岡八幡へ参詣ならば大手の前を通用くるしからず。」とある。
第12集 芭蕉と仙台
芭蕉について-おくのほそみち、芭蕉の辻とは
大淀三千風について
芭蕉が訪れた仙台城
おくのほそ道関連地図帳 芭蕉と仙台市
奥州道中 増補行程記 - 仙台城下
  

5月8日(新暦6月24日)

塩釜 -宮城県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜、目盲法師の琵琶をならして奥上るりと云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
(「塩釜」の章段)
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 八日
十符菅壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩釜ニ着、湯漬など喰。末ノ松山興井(沖の井。沖の石)野田玉川おもはくの橋浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩釜ノかまを見ル。宿、治兵ヘ、法蓮寺門前。加衛門状添。銭湯有ニ入
一 九日
快晴。辰ノ尅、鹽竈明神ヲ拝。帰テ出船。
第12集 芭蕉と仙台
「十符の菅」関連1  2

第13集 芭蕉と多賀城
多賀城・歌枕の地について
壷碑(多賀城碑)1  2
多賀城市撮影の多賀城碑の写真
末の松山
枝折れ前の「末の松山」の老松を偲ぶ
沖の石
「野田の玉川」関連1  2

第14集 芭蕉と塩釜
「塩釜ノかま」を祭る御釜神社
おくのほそ道・旅の宿
芭蕉止宿の地
   鹽竃神社の航空写真
「治兵ヘ」宅

上の写真は、鹽竈神社裏参道(裏坂)の上り口付近。当地に「治兵ヘ」の家があった。

下の写真は、鹽竈神社の航空写真。

近世と現代の鹽竈神社界隈
「奥州道中 増補行程記」に「国分より東南出口。原町裏通。宮城野、木下道、壷石ふミ、つゝぢか岡、奥の細道、十符浦、末松山、塩釜、松島、名所有。」とある。芭蕉一行は、加右衛門筆の地図と宿への添状を携え、この「東南の出口」(金華山道)から多賀城、塩釜を目指して旅立った。

途中、岩切で、「奥の細道」、「十符の菅」の里・十符谷を見物して東進し、途中、壷碑(多賀城碑)に立ち寄り、午後2時頃に塩釜の宿・「治兵ヘ」宅に到着した。

宿で「湯漬など喰」した後、近隣の御釜神社に参詣。一行は、その足で多賀城に戻り、末ノ松山、沖の石、野田玉川・おもはくの橋、浮島などを見物している。
第14集 芭蕉と塩釜
鹽竈神社について
おくのほそ道関連地図帳 鹽竈神社

「塩釜の浦」と源融(みなもとのとおる)について
「おくのほそ道」関連(1)
「おくのほそ道」関連(2)
塩釜湾の航空写真
昭和30年代に行われた湾内埋め立てにより、海岸線が500mほど海側に遠ざかっている。かつては、写真に見られる区域の大部分が海だった。
戦前の絵葉書に見る籬島
おくのほそ道関連地図帳 芭蕉と塩釜市
  

5月9日(新暦6月25日)

松島 -宮城県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。
(「雄島が磯」の章段)
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 九日
午ノ尅松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不残見物。開山、法身和尚(真壁平四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿被宿岩屈(窟)有。無相禅屈(窟)ト額有。ソレヨリ雄島(所ニハ御島ト書)所ゝヲ見ル(とミ山モ見ユル)。御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山(一山一寧)ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰テ後、八幡社五太堂ヲ見、慈覺ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云。加衛門状添。
一 十日
快晴。松島立(馬次ニテナシ)。
おくのほそ道・旅の宿
瑞巌寺の山門前
   松島湾の航空写真
久之助宅

上の写真は、久之助宅があったと推測される瑞巌寺の山門前の景。

下の写真は、松島湾の航空写真。
松島に向け千賀ノ浦を漕ぎ出た芭蕉一行は、籬島、内裡島、鎧島、在城島、伊勢島などを間近に眺めながら陸伝いに旅し、3時間ほど所要して松島海岸に到着した。一行は、現在の観光桟橋付近で舟を降りて瑞巌寺に参詣した後、雄島、五大堂と足を伸ばし、瑞巌寺山門付近の久之助宅で草鞋を脱いだ。松島の宿は塩釜と同様、仙台の加右衛門の紹介によるものだった。宿の造りは、「おくのほそ道」本文から海を一望できる二階建てだったことが知られる。
第2集 芭蕉と松島
瑞巌寺について
雄島について
芭蕉翁絵詞伝-松島
おくのほそ道関連地図帳 芭蕉と松島
おくのほそ道関連地図帳 雄島
  

5月10日(新暦6月26日)

石巻 -宮城県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出
(「石巻」の章段)

○本文の「十二日」は曽良随行日記の「十日」と相違する。この日付についての虚構は、瑞巌寺訪問を「十一日」としたことの影響、または、松島と石巻の旅を区切る必要から、などの推測が成り立つ。
瑞巌寺の章段の訳文」参照。
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 十日
馬次、高城村(間廿丁計)、(是ヨリ桃生郡)小野(弐里半)。石巻(四里余)。仙台ヨリ十三里余。小野ト石ノ巻(牡鹿郡)ノ間、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共不与。刀さしたる道行人、年五十七、八、此躰を憐テ、知人ノ方ヘ壱町程立帰、同道シテ湯を可与由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町、四兵ヘと尋、宿可借之由云テ去ル。名ヲ問、小野ノ近ク、ねこ(根古)村、コンノ(今野)源太左衛門殿。如教、四兵ヘヲ尋テ宿ス
一 十一日
天気能。石ノ巻ヲ立。
おくのほそ道・旅の宿
芭蕉一宿の地
   「芭蕉一宿の地」碑
「四兵ヘ」宅

上の写真は、「四兵へ」の屋敷跡に建つ石巻グランドホテル(右側の建物)。

下の写真は、同ホテルの玄関先に建つ「芭蕉一宿の地」碑。

 
石巻市内、石巻街道と石巻女川線との交差点付近に建つ「金華山道」の碑
松島を出立した芭蕉一行は、石巻街道(金華山道)を東に旅し、途中、矢本で水を求めて難儀しているところを、通りすがりの侍、今野源太左衛門に救われ、当夜の宿まで紹介された。宿は歌枕「袖の渡り」の地からほど近い「四兵へ」宅だった。
現在、屋敷跡に石巻グランドホテルが建ち、玄関先に「芭蕉一宿の地」碑(昭和57年3月建立)が建っている。碑文内容は次の通り。
[正面]
旧町名 新田町
[側面]
元禄二年五月十日「奥の細道」の旅で石巻を訪れた芭蕉と曽良は、日和山からの眺望を楽しみ、住吉神社に参詣後、新田町(現千石町)の四兵へ宅に一泊した。安永二年三月の「安永風土記書出」には家数五十二軒と記されている。
第20集 芭蕉と石巻
石巻を訪れた背景を考える
おくのほそ道関連地図帳 芭蕉と石巻・登米
おくのほそ道関連地図帳 日和山公園
  

5月11日(新暦6月27日)

登米 -宮城県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。
(「石巻」の章段)

○戸伊摩→登米
金華山と「心細き長沼」について

「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 十一日
宿四兵ヘ、今一人、気仙ヘ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻、二リ鹿ノ股(一リ余渡有)、飯野川(三リニ遠し。此間、山ノアイ、長キ沼有)。曇。矢内津(一リ半。此間ニ渡し二ツ有)。戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス検断庄左衛門
一 十二日
曇。戸今を立。


○矢内津→柳津 鹿ノ股→鹿又 戸いま、戸今→登米
おくのほそ道・旅の宿
柳津の追分
  
「芭蕉翁一宿之跡」碑
検断の庄左衛門宅
  
上の写真は柳津の追分。

  
下の写真は、北上川の土手に建つ「芭蕉翁一宿之跡」碑。
芭蕉一行は一関街道を北上し、渡し舟で登米に辿り着いた。しかし、予定していた儀左衛門宅では宿泊できず、検断(村役人)の庄左衛門に事情を話して宿を借りた。上の写真に見る「芭蕉翁一宿之跡」の碑は、もと検断屋敷跡にあったが、大正元年(1912年)の北上川改修工事の時に屋敷跡が堤防に埋もれたため、史跡保存の目的で写真の位置に昭和9(1934年)年9月に建て直された。登米町では、芭蕉の一宿を記念して、昭和26年から6月の第4日曜日に「登米芭蕉祭俳句大会」が開かれている。
第20集 芭蕉と石巻
金華山と「心細き長沼」について
芭蕉が歩いた一関への道
資料写真と解説登米/1 一宿の地
資料写真と解説登米/2 「一宿庵の記」碑など
おくのほそ道関連地図帳 芭蕉と石巻登米
  

5月12日〜13日(新暦6月28日〜29日)

一関 -岩手県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。
(「石巻」の章段)
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 十二日
一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス
一 十三日
天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山(束稲山)・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂(新御堂)、无量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス
一 十四日
天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。
第3集 芭蕉と平泉
芭蕉の平泉の旅を検証する

中尊寺について
高館について
無量光院跡写真集
奥州道中 増補行程記 - 平泉(1)
奥州道中 増補行程記 - 平泉(2)
おくのほそ道・旅の宿
かっぱ崖下の道

五代の道標
   平泉町の航空写真
磐井橋近くの金森家

上の写真は、一関駅から南東へ15分ほど歩いたところにあるかっぱ崖下の道。

真ん中の写真は、右図・D地点(五代町)に建つ「五代の道標」。

下の写真は、平泉町の航空写真。

随行日記には、芭蕉一行が一関のどこに止宿したかについての記述はないが、磐井橋近くにあった金森家と伝えられている。しかし、金森家は隣接して二軒あったとされ、そのいずれに芭蕉が二泊したかについては定かではない。
その内の一軒が、天明年間(1781年〜1789年)を中心に一関俳壇で活躍した金森才良宅で、才良は芭蕉の作風を慕って蕉門を名乗り多くの門人を育てた。当家では、才良のほかに分字、世竹、竹人の四代が俳人だったと伝えられる。
もう一軒の金森家も俳人一家として知られ、江戸中期から明治にかけて、文魚、卓人、常丸といった俳人を出している。常丸は、芭蕉が当地に二泊したという謂れから屋敷の庵を「二夜庵」と呼んだというが、「二夜庵」は既になく、現在、跡地は上の写真のように駐車場に利用されている。
                                        当時の一関藩について

芭蕉が一関を訪れた1689年当時、一関の藩主は、江戸藩邸に浅野内匠頭長矩を預かったことで知られる田村建顕だった。建顕は、伊達宗勝が「伊達騒動」の裁決で廃藩に追い込まれ後、天和2年(1682年)に岩沼から当地に移封され、伊達藩からの3万石をもって一関藩を再興した。芭蕉来関はこの7年後であった。「奥州道中 増補行程記」の図297に描かれている「城山」は、中世期、葛西氏が築城して以来一関城が置かれたところだが、田村氏の統治下にあってはその邸宅が城として機能した。その位置は、田村邸裏門跡の南側一帯と見られている。
おくのほそ道関連地図帳 芭蕉と一関・平泉
奥州道中 増補行程記 - 一関(1)
奥州道中 増補行程記 - 一関(2)
奥州道中 増補行程記 - 一関(3)
奥州道中 増補行程記 - 一関(4)

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「奥州道中 増補行程記」展示室

盛岡市中央公民館所蔵

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「おくのほそ道」の旅から60余年を経た街道界隈の風景が克明に記されています。


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