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おくのほそ道・旅の宿   (株)インプレスの「Internetホームページ用素材集(Special)」から
[ 其の4 ]

「おくのほそ道」の旅で芭蕉一行が宿泊したと伝えられるゆかりの地を、本文や曽良随行日記、増補行程記(盛岡市中央公民館所蔵)、取材写真など、様々な資料を交えて説明しています。
  

5月14日(新暦6月30日)

岩出山 -宮城県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る
(「出羽越え」の章段)

○右の絵図は、芭蕉が一関から岩出山に向けて旅立った「台町追分」。
江戸期と現在の台町追分
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 十四日 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。四リ、一ノハザマ・岩崎(岩ヶ崎)(栗原郡也)、藻庭大隈。三リ、三ノハザマ・真坂(栗原郡也)(此間ニ二ノハザマ有。)岩崎ヨリ金成ヘ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。
             
四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山ハ正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川(江合川)ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也(二リ余)。故、川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓テ又曇テ折々小雨スル也。
  
中新田町。小野田(仙台ヨリ最上ヘノ道ニ出合)。原ノ町。門沢(関所有)。漆沢。軽井沢。上ノ畑。野辺沢。尾羽根沢。大石田(乗船)
岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。
右ノ道遠ク、難所有之由故、道ヲかヘテ、
                           
  
一 十五日 小雨ス。二リ、宮。

(2箇所)はの「岩出山」から続く意を表わす。
おくのほそ道・旅の宿
刈又一里塚
(A) 
「おくのほそ道」碑
(B) 
天王寺一里塚
(C) 
芭蕉一宿の地
(D)
岩出山城下の旅籠屋
「石崎屋」(下記参照)とする伝承あり。

(A)の写真は、一関と金成の境付近にある「刈又一里塚」。

(B)の写真は、千本松長根にある「おくのほそ道」碑。

(C)の写真は、岩出山地内に3つ築かれた一里塚の内、唯一現存する「天王寺一里塚」。「刈又一里塚」、「天王寺一里塚」ともに、道の両側に塚が残っている。

(D)の写真は、岩出山の芭蕉一宿の地。
5月13日平泉の旅を果した芭蕉は、同夜地主町に二泊目の宿をとり、翌朝、岩出山を目指して旅立った。まず奥州街道に出て台町の追分地点まで南下し、そこで奥州街道と分かれ奥州上街道に足を踏み入れた。奥州上街道は、台町の追分を起点とし、岩ヶ崎、真坂を経由し、岩出山の天王寺追分で出羽街道中山越に合流する脇街道である。芭蕉一行は、祥雲寺や長昌寺などが建ち並ぶ丘陵の下道を経て蔵主沢まで行き、山道に差しかかった。上街道はここから稜線伝いに南に走り、刈又で山を下り再び「ひじまがり坂」から山道に入る。一行は「よしめき坂」から山を下り、上片馬合、一塚坂、赤児を経由して岩ヶ崎の城下に至った。その後、三迫川、二迫川、金生川を越えて南進し、一迫川と昔川を歩渡(かちわた)りして宿駅・真坂に到達している。
奥州上街道は、真坂から昔川に沿うように南下を続け、昔川が垂直に向きを変えているあたりから左に折れ次第に勾配を増していく。一迫と岩出山の境目を過ぎれば、やがて堂の沢一里塚に至り、駅馬の継立が行われた馬館から千本松長根の松並木に入り込む。芭蕉と曽良は、右手に栗駒の山並みを眺めながら松並木の道を抜け、堂の沢から一里を隔つ天王寺一里塚を目指した。間もなく出羽(仙台)街道中山越と合流する天王寺追分に至る。一行は、歌枕「小黒崎」を一目見ようと、天王寺追分から西へ向かったが、日没が迫ったためこれを断念し、一栗から川に添って取って返し岩出山城下の旅籠に一宿した。
                                                 岩出山の宿泊先について

芭蕉の岩出山の宿泊先については資料が無く不明とされるが、伝承によれば、当時、荒町に商人宿「留平屋」、仲町に旅人宿「石崎屋」があったとされ、芭蕉はこの中の「石崎屋」に止宿したといわれている。
「岩出山のむかしかたり」の中で、旅籠・石崎屋の子孫である石崎東吉郎さんが芭蕉一行の宿泊について次のように記しておられる。
「南部道遥かにみやりて、岩手の里に泊る」と奥の細道に記されています。一関を後にした芭蕉と曽良は、その日、岩出山に泊まりましたが、それは私の祖先のところで一宿したのでした。私の家は、私の父の母の代までは現在の伊藤英二さんの場所で、代々「石崎屋」と称し、旅籠屋を営んでいました。主人は、代々「東七」と名乗っていたようです。それが明治九年の岩出山の大火の際、類焼したため、下町の現在地に移ったのでした。母から聞かせられていましたが、その建物は、当時としては珍しく、二階建で、二階の欄干は朱塗りだったとのことです。「石崎屋」という屋号は、殿様からいただいたのだそうです。その頃、岩出山には、荒町にも旅籠屋が一軒あったそうです。翌朝、芭蕉一行は、小野田を通り、山形へ行くつもりでしたが、道路が悪いというので予定を変更し、鳴子を通り、山形へ行ったのだそうです。
第21集 芭蕉と出羽越え
一関から尾花沢までの旅路
  

5月15日〜16日(新暦7月1日〜2日)

堺田 -山形県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
小黒崎みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す
(「出羽越え」の章段)
小黒崎と美豆の小島について
鳴子と尿前の関について
資料写真と解説鳴子/1-尿前の関への道
資料写真と解説鳴子/2-尿前の関跡関連 1
資料写真と解説鳴子/3-尿前の関跡関連 2
出羽街道中山越を行く
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 十五日
堺田。村山郡小田島庄小国之内。出羽新庄領也。中山ヨリ入口五・六丁先ニ堺杭有。
十六日
堺田二滞留。大雨。宿和泉庄や新右衛門兄也
十七日
快晴。堺田ヲ立。
おくのほそ道・旅の宿
封人の家
  
封人の家内部
  
封人の家内部


封人の家・庄屋有路宅
(和泉庄屋新右衛門兄宅)

上の写真は、解体・復元工事が施された旧有路家住宅。

下の2枚の写真は旧有路家住宅の内部。
上は、囲炉裏端から馬屋(まや)を写したもの。下は、芭蕉と曽良が就寝したとされる中座敷。

封人の家の平面図
当時、堺田村では、村の庄屋が境を守備する役人に就き問屋役を兼務した。芭蕉が元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)から3日間逗留した家は、こうした役割の庄屋・有路家であった。早坂忠雄著「芭蕉と出羽路」によれば、有路家の祖先は延沢(尾花沢市)の霧山城主であった延沢家の家臣・有路小三郎の一族で、小三郎は元和8年(1622年)に没したが、有路家はそれ以前に堺田に帰農していたという。国境の守役を「封人(ほうじん)」といったことから、芭蕉は止宿した有路家を「封人の家」と呼んでいる。
文化庁が江戸時代の初期に既に建てられていたと推定している旧有路家住宅は、昭和44年(1969年)重要文化財に指定され、昭和46年(1971年)6月から2年9ヶ月の歳月をかけて解体・復元工事が行われた。堺田村は新庄藩の保護・奨励のもと馬産地として発展し、有路家もこの大型民家で常時、数頭の母子馬を飼っていたという。
第21集 芭蕉と出羽越え
一関から尾花沢までの旅路

最上町と封人の家と蚤虱の句について
芭蕉・封人の家訪問の図
  

5月17日〜26日(新暦7月3日〜12日)

尾花沢 -山形県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比 とゞめて長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
(「尾花沢」の章段)
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
十七日
一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。三リ、市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野ゝ五、六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村(関谷村)也。正厳・尾花沢ノ間、村(二藤袋村)有。是、野辺沢(延沢)ヘ分ル也。正ゴンノ(正厳)前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ヘ着。一宿ス
十八日
昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居
十九日
朝晴ル。素英、ナラ茶賞ス。夕方小雨ス。
廿日
小雨。
廿一日
朝、小三良ヘ被招。同晩、沼沢所左衛門ヘ被招。此ノ夜、清風ニ宿
廿二日
晩、素英ヘ被招。
廿三日ノ夜、
秋調ヘ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス
廿四日之晩、
一橋、寺ニテ持賞ス。十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ。
○秋調 仁左衛門。○素英 村川伊左衛門。○一中 町岡素雲。○一橋 田中藤十良。遊川 沼沢所左衛門。東陽 歌川平蔵。○大石田、一栄 高野平右衛門 ○同、川水 高桑加助。○上京、鈴木宗専、俳名似林、息小三良。新庄、渋谷甚兵ヘ、風流。

廿五日
折々小雨ス。大石田ヨリ川水入来。連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被招。
廿六日
昼ヨリ於遊川ニ東陽持賞ス。此日モ小雨ス。
廿七日
天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。

堺田から尾花沢へのルートとして、当時、物流の一般道だった背坂峠越えが予定されたが、「廻リ成故」(随行日記)に、山刀伐峠越えのルートが選択された。究竟な若者を護衛につけて無事市野々に着いた芭蕉一行は、岩谷沢、関谷の番所、正厳、二藤袋を経て、昼過ぎ鈴木清風宅(島田屋)に到着した。この頃、近隣の紅花生産地ではいよいよ摘み取り作業が始まり、大手の紅花問屋として名を馳せた島田屋は繁忙期に差し掛かろうとしていた。こうしたことから清風は、尾花沢滞在中の休養は喧騒の店(たな)よりももっと寛(くつろ)げるところでと、芭蕉と曽良を村はずれの養泉寺に案内した。坂上にある養泉寺は、盆地特有の高温多湿を吹き払う最上川や丹生川からの涼風が吹き込んで、まさに「涼しさを我宿にしてねま」れる環境にあった。清風は、友人の村川素英に主従の接待役を頼み、自らも二度自宅に招き持て成しを行っている。芭蕉の「長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る」の叙述や「涼しさを」の詠句には、鈴木清風の、こうした風雅を心得た温情ある計らいへの深謝の念が込められている。
おくのほそ道・旅の宿
清風邸跡
 
養泉寺
鈴木清風邸と養泉寺

上の写真は、清風邸跡で、下の写真は、養泉寺。
尾花沢における宿泊先は次の通り。
 
5月17日(新暦7月3日)
 鈴木清風邸
18日(4日)
 養泉寺
19日(5日)
 養泉寺
20日(6日)
 養泉寺
21日(7日)
 鈴木清風邸
22日(8日)
 養泉寺
23日(9日)
 鈴木清風邸
24日(10日)
 養泉寺
25日(11日)
 養泉寺
26日(12日)
 養泉寺
第21集 芭蕉と出羽越え
芭蕉・山刀伐峠越の図

資料写真と解説尾花沢市 山刀伐峠越の道 4
山刀伐峠・尾花沢側登り口付近の景

第22集 芭蕉と尾花沢
鈴木清風仁ついて

芭蕉が尾花沢に残した11日間の足跡
羽州街道 宿駅探訪-尾花沢宿の絵図
おくのほそ道関連地図帳 芭蕉と尾花沢
  

5月27日(新暦7月13日)

山寺 -山形県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。
(「山寺」の章段)
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
廿七日
天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ(余)天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。宿預リ坊
一 廿八日
馬借テ天童ニ趣。
おくのほそ道・旅の宿
山寺の景観
(A) 
山寺の航空写真
(B) 
芭蕉が山寺を目指した旧山寺街道・地蔵堂地区
(C) 
山寺・高沢地区の紅花畑
(D)
宿坊「預り坊」

(A)の写真は、JR仙山線の山寺駅前から見た山寺の景観。

(B)の写真は、山寺の航空写真。

(C)の写真は、芭蕉が山寺を目指した旧山寺街道・地蔵堂地区。山寺方面を撮影。

(D)の写真は、山寺の西隣・高瀬地区(高沢)の紅花畑(2002年7月13日撮影)。
山寺立石寺に到着後、一行は、当日の宿「預り坊」で旅荷を下ろし山内巡礼に出向いた。この「預り坊」については、「・・・庄屋村松伊助殿江宿預り坊を以申所二候得共・・・」を記す宝永二年(1705年)の「山寺立石寺古記録文書」などを典拠に、芭蕉の頃この号の宿坊が存在したことが説かれるが、立石寺側の見解は「不明」であり、積極的な説明はしていない。
これに対し山寺山内にある日枝神社は、境内にある「手水盤」の説明板の中で「俳聖芭蕉と曽良が元禄二年五月二十七日(新七月十三日)未の下刻山寺に着き参詣し、麓の坊(預里)へ宿泊する。この手水盤は、その十年後元禄十二年四月十九日、今から二百九十年前に山王権現日枝神社に寄進されたもので『預里
を筆頭に寄進者の名が刻まれている。『預里』は麓の坊であり宿坊なのである。平成元年七月十三日 日枝神社」と説明している。
また、次のように、「預り坊」を普通名詞として捉える、すなわち、「預り坊」を「(山内で宿などを)預かり(提供する)坊」として捉える方法もある。
立石寺第六十七世芳田和尚を兄弟にし、山寺尋常高等小学校の初代校長を務められた故伊澤不忍氏は著作「山寺百話」の中で、「何という宿預かり坊なのか」という問いかけをした後に、芭蕉の頃、登山口に「信敬坊」、「徳善坊」という2つの宿坊があったことを述し、城主が参詣の際に利用するほどの宿坊だったことなどを根拠に、「徳善坊」を芭蕉止宿の「預り坊」と推定されている。
第22集 芭蕉と尾花沢
芭蕉が旅した羽州街道
資料写真と解説羽州街道/1(尾花沢市/村山市)
資料写真と解説羽州街道/2(東根市/天童市)
天童・山形 旧山寺街道を行く
おくのほそ道関連地図帳 天童に残る旧山寺街道

紅花(べにばな)について
山寺芭蕉記念館所蔵「紅花屏風」展示室
山形市高瀬地区の紅花畑写真集

第1集 芭蕉と山寺

山寺・立石寺めぐり
山寺の蝉の声を考える/蝉論争
山寺の参道と巨岩怪石の写真集
おくのほそ道関連地図帳 山寺
山寺の航空写真
  

5月28日〜5月30日(新暦7月14日〜16日)

大石田 -山形県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。
(「大石田」の章段)
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
一 廿八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内藏ニ逢、立寄ば持賞ス。未ノ中尅、大石田一英(一栄)宅ニ着両日共ニ危シテ雨不降。上飯田ヨリ一リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳、休ス。
一 廿九日 夜ニ入小雨ス。発・一巡終テ、翁両人誘テ黒瀧ヘ被参詣。予所労故止。未尅被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入帰。
〇一 晦日 朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺ヘ被遊、帰、物ども被書。
おくのほそ道・旅の宿
一栄邸跡 大石田・高野一栄邸
(写真は邸宅跡)
5月28日〜30日(7月14日〜16日)
第23集 芭蕉と大石田
山寺から最上川河港清川までの旅路
芭蕉に学んだ高野一栄と高桑川水
「五月雨を」の発句について
資料写真と解説/1(一栄宅跡迄1 楯岡/本飯田)
資料写真と解説/2(一栄宅跡迄2 最上川/船役所跡)
資料写真と解説/3(一栄宅跡迄3 一栄宅跡/歌仙碑)
地図でひらく最上川写真展示室
  

6月1日〜6月2日(新暦7月17日〜18日)

新庄 -山形県-
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
六月朔 大石田を立。辰刻、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬弐匹、舟形迄送ル。ニリ。一リ半、舟形。大石田ヨリ出手形ヲ取、ナキ沢ニ納通ル。新庄ヨリ出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共に入ニハ不構。ニリ八丁、新庄風流ニ宿ス
 二日 昼過ヨリ九郎兵衛ヘ被招。彼是、歌仙一巻有。盛信、息、塘夕(澁谷仁兵衛、柳風共)、孤松(加藤四良兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善衛門)、風流(渋谷甚兵ヘ)。
おくのほそ道・旅の宿
風流邸跡 新庄・渋谷風流邸
(写真は邸宅跡)
6月1日〜2日(7月17日〜18日)
地図でひらく最上川写真展示室
米倉兌筆・奥の細道絵巻「最上川下り」
資料と解説新庄/1(一里塚/柳の清水/風流宅跡)
資料と解説新庄/2(芭蕉乗船の地・本合海/芭蕉像)
  

6月3日〜6月9日(新暦7月19日〜25日)

羽黒山南谷、月山 -山形県-
「おくのほそ道」本文からの情報   [資料]
六月三日、羽黒山に登る。 図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。
八日(実際は六日)、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば湯殿に下る。

(「出羽三山」の章段)
「曽良随行日記」からの情報   [資料]
六日 天気吉。登山。三リ、強清水、ニリ、平清水(ヒラシミツ)、ニリ、高清(高清水)、是迄馬足叶。道人家小ヤガケ也。彌陀原コヤ有。中食ス。是ヨリフダラ、ニゴリ沢、御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。
おくのほそ道・旅の宿
羽黒山南谷の別院玄陽院と月山山頂の角兵衛小屋
(写真は南谷別院跡)
6月3日(新暦7月19日)〜5日(21日)
 玄陽院
6日(22日)
 角兵衛小屋
7日(23日)〜9日(25日)
 玄陽院
第24集 芭蕉と出羽三山
出羽三山について
芭蕉が出羽三山に残した8日間の足跡
空から見た出羽三山
出羽三山一枚絵図-本坊宝前院と別院
おくのほそ道関連地図帳 清川から月山まで
おくのほそ道関連地図帳 月山・湯殿山

次回の情報掲載は、第25集刊行時に行います。

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掲載のデータについて

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「奥州道中 増補行程記」展示室

盛岡市中央公民館所蔵

「奥州道中 増補行程記」展示室  「奥州道中 増補行程記」展示室

「おくのほそ道」の旅から60余年を経た街道界隈の風景が克明に記されています。


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