松尾芭蕉の総合年譜と遺書
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
白鴎画・渓斎賛「こよひ誰」句 芭蕉坐像図 (江東区芭蕉記念館所蔵)
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元禄7 元禄6 元禄5 元禄4 元禄3 元禄2 貞享5 貞享4 貞享3 貞享2 貞享元 天和3 天和2 天和元 延宝8 延宝7 延宝6 延宝5 延宝4 延宝3 延宝2 寛文12 寛文10 寛文9 寛文6 文4 寛文2 明暦
正保元
51 51 50 49 48 47 46 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36 35 34 33 32 31 29 27 26 23 21 19 13 1
自筆と支考代筆 江戸出立
/芭蕉死去
第三次芭蕉庵へ か 元
ら 禄
上 2
方 年
を の
漂 9
泊 月
おくのほそ道の旅 更科紀行 鹿島

笈の小文の旅
野ざらし
紀行
第二次芭蕉庵へ 芭蕉号

芭蕉庵類焼
庭に芭蕉を植える 深川の草庵へ この頃宗匠立机 桃青号 季吟から埋木を伝授 貝おほひ

江戸へ
々 江
の 戸
撰 下
集 向
に 迄
入 の
集 間
す に
る 数
藤堂蝉吟死去 初入集
この頃藤堂家に出仕 父死去 芭蕉生まれる

 

【1】 伊賀上野時代の松尾芭蕉
年号 松尾芭蕉年譜 参考事項
正保元

(1644)
-- -- 1 伊賀上野の赤坂町(三重県上野市赤坂町)に生まれる出生月日は不詳。幼名金作、のち宗房。

○家族は、父・与左衛門、母、長兄・半左衛門、ほかに一姉三妹。父・与左衛門は上柘植村の無足人(準武士待遇の農民)松尾氏の出。青年期に別家し赤坂町に移住ののち一般農民の階級となる。母は、伊予宇和島から伊賀名張に移住した桃地(百地)氏の出と伝えられる。
1642 井原西鶴生誕。

1645 北村季吟、松永貞徳門に入る。

1648 西山宗因、大坂天満宮連歌所の宗匠となる。
明暦2

(1656)
2 18 13 父・与左衛門死去享年不詳。上野農人町の愛染院に葬らる。戒名「松白浄恵信士」。

○愛染院の境内に、芭蕉が元禄7年(1694年)7月の帰郷時に詠んだ次の2句の碑が建つ。

甲戌の夏大津に侍りしを、兄のもとより消息せられければ、旧里に帰りて盆会を営むとて 家はみな杖に白髪の墓参り
(続猿蓑)
尼寿貞が身まかりけると聞きて 数ならぬ身とな思ひそ玉祭
(有磯海)
1653 松永貞徳死去。

1653 近松門左衛門誕生。

1656 北村季吟、俳諧宗匠として独立。

1657 明暦の大火。
寛文2

(1662)
-- -- 19
このころ、藤堂藩伊賀付
侍大将の藤堂新七郎家に
出仕

○芭蕉は、当主良精の嫡子で、芭蕉より2歳年上の良忠(俳号蝉吟)に近習役として仕えるが、実際の役職は台所用
義仲寺所蔵・芭蕉翁絵詞伝-藤堂新七郎屋敷の図
人または料理人と伝えられる。
1662 このころ井原西鶴、俳諧点者となる。
12 作句年次が判明している中で最古の発句成る。

○「千宜理記」より。
廿九日立春ナレバ 春や来し年や行きけん小晦日
寛文4

(1664)
9 -- 21 松江重頼編「佐夜中山集」に「松尾宗房」の名で発句2句が初入集同時に蝉吟の発句も1句入集。

○「佐夜中山集」より。
姥桜咲くや老後の思い出
月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿
1664 宗因、2月江戸下向。
寛文5

(1665)
11 13 22 蝉吟主催の貞徳翁十三回忌追善百韻に一座。連衆は、蝉吟、北村李吟(文音で脇句を付ける)、窪田政好、保川一笑、松木一以、宗房(芭蕉)。

「新編芭蕉一代集」より。
野は雪に枯るれど枯れぬ紫苑哉    蝉吟
鷹の餌こひと音をばなき跡      季吟
飼狗(いぬ)のことく手馴れし年を経て 政好
兀たはりこも捨ぬわらはべ      一笑
けふあるともてはやしけり雛迄    一以
月くるゝ迄汲むもゝの酒       宗房

以下略。


○北村季吟(1624〜1705)は近江生まれの国文学者で代々医者の家に生まれる。芭蕉の師として知られる。はじめ安原貞室に学ぶが、のち松永貞徳直門に入り俳諧・歌学を学ぶ。元禄2年、子
の湖春とともに幕府の歌学方となる。
寛文6

(1666)
4 25 23 藤堂蝉吟死去。享年25歳。

○蝉吟の死去により芭蕉の藤堂藩への仕官の道が途絶える。「幻住庵記」に「倩年月の移こし拙き身の科をおもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、・・・」とある。
1666 酒井忠清、大老となる

1666 西鶴、鶴永号で西村長愛子編「遠近集」に3句入集。
-- -- 内藤風虎編「夜の錦」に「伊賀上野松尾氏宗房」として発句4句以上入集。
寛文7

(1667)
10 -- 24 湖春編「続山井」に「伊賀上野松尾宗房」として発句28句、付句3句入集。

○湖春は北村季吟の子で、元禄2年(
1689年)に父とともに幕府の歌学方となる。
寛文9

(1669)
-- 26 荻野安静編「如意宝珠」(刊行は延宝2年)に「伊賀上野宗房」として発句6句入集。蝉吟、政好、一笑の発句も入集。
寛文10

(1670)
6 -- 27 岡村正辰編「大和順礼」に「伊賀上野住宗房」として発句2句入集。政好、一笑の発句も入集。
寛文11

(1671)
6 -- 28 吉田友次編「藪香物」に「伊賀上野宗房」として発句1句入集。蝉吟、政好、一笑の発句も入集。 1671 近松、山岡元隣編「宝蔵」に1句入集


1671 西鶴、以仙編「落花集」一句入集。
寛文12

(1672)
1 25 29 松尾宗房撰・三十番発句合「貝おほひ」成る。これを伊賀上野天満宮に奉納。

○寛文12年は菅原道真の770年忌にあたり、25日は伊賀上野天満宮の例祭日にあたる。芭蕉はこうした日に、文事の神に初著作の「貝おほひ」を奉納し文運を祈願した。自序に「寛文拾二年正月二十五日 伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にしてみづから序す」とある。
1672 石川丈山死去。
3 -- 松江重頼編「俳諧時勢粧」に「伊賀上野宗房」として発句1句入集。蝉吟、政好の発句も入集。
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【2】 東下から深川居住までの松尾芭蕉
年号 松尾芭蕉年譜 参考事項
寛文12

(1672)
-- 29 江戸に下る東下後の落着き先については、日本橋本舟町の名主卜尺方、小田原町の杉風方などの説がある。

○卜尺は、芭蕉が京都の北村季吟に学んでいるときに出会った同門の俳友で、杉風は日本橋で鯉屋という幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた門弟。
延宝2

(1674)
3 17 31 北村季吟から連歌俳諧の秘伝書「埋木」の伝授を受ける。

○「埋木」の巻尾に「此書、雖為家伝之深秘、宗房生依俳諧執心不浅、免書写而、且加奥書者也。必不可有外見而巳。延宝二年弥生中七 季吟」の識語あり。

○芭蕉の東下を、「埋木」伝授後とする捉え方もある。

芭蕉が参禅した仏頂禅師は、この年、33歳にして冷山和尚から鹿島根本寺を受け継ぎ二十一世住職に就任した。
1673 初代市川団十郎、荒事を演じ、江戸歌舞伎を開く

1673 安原貞室
死去

1673 西鶴、「生玉万句」興行。
延宝3

(1675)
5 -- 32 東下中の西山宗因を歓迎する画(大徳院の住職)邸興行百韻俳諧に一座。連衆は、宗因、画、高野幽山(松江重頼門弟)、桃青(芭蕉)、山口信章(素堂)、木也、久津見吟市、少才、小西似春、又吟。この百韻俳諧で初めて「桃青」と号す。以下に芭蕉の全付句を記す。

○写本「談林俳諧」より。

いと涼しき大徳成けり法の水    宗因
軒端を宗と因む蓮池        
反橋のけしきに扇ひらき来て    幽山
石壇よりも夕日こぼるゝ      桃青

(中略)
座頭もまよふ恋路なるらし     宗因
そひへたりおもひ積て加茂の山   桃青

(中略)

時を得たり法印法橋其外も     信章
新筆なれどあたひいくばく     桃青

(中略)

口舌事手をさらさらとおしもんで  吟市
しら紙ひたす涙也けり       桃青

(中略)

数寄は茶湯に化野の露       似春
石灯籠月常住の影見へて      桃青

(中略)

はなかみ袋形見なりけり      少才
さる間三年はこゝにさし枕     桃青

(中略)

月はこととふうら店の奥      幽山
秋の風棒にかけたる干菜売     桃青
賎がこゝろも明樽にあり      宗因

以下略。

○西山宗因(1605-1682)は、肥後八代城主加藤正方に仕えるが、同家改易のため浪人となり連歌師になる。のち俳諧師に転じ談林俳諧の総帥として活躍。井原西鶴は宗因門弟の一人。

○芭蕉は、西山宗因(梅翁)を高く評価して「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」と語っている。(去来抄)

山口素堂(1642〜1716)は、甲州の俳人で、俳諧のほかに儒学・書道・和歌・茶道・能楽も学び、江戸に出て芭蕉と親交を結んだ。「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句は有名。
1675 江戸市中に「辻かご」登場。
延宝4

(1676)
-- 33 山口信章(素堂)と両吟で天満宮奉納二百韻を興行。

○「桃青三百韻附両吟二百韻」より。

此梅に牛も初音と鳴つべし     桃青
ましてや蛙人間の作        信章
春雨のかるうしやれたる世の中に  信章
酢味噌まじりの野辺の下崩     桃青

以下略。   

 

 

6 -- 伊賀上野に帰郷し、7月2日まで滞在。
7 -- 甥の桃印を同道して江戸に帰る。
11 -- 北村季吟編「続連珠」に発句6句、付句4句入集。作者名として松尾宗房・桃青の2つ号が記される。
延宝5

(1677)

 

-- -- 34 この年から延宝8年までの4年間、神田上水(小石川上水)の修理工事に携わった 1677 西鶴、生玉本覚寺で一昼夜独吟千六百句を興行。
-- このころ、遅くとも翌年の春までに、宗匠立机

次の「桃青伝」や「俳諧解脱抄」、「富士石」などから芭蕉の宗匠立机の時期を窺い知ることができる。

○採荼庵梅人著「桃青伝」に「延宝六午年、桃青歳旦帳、手前所持」とある。歳旦帳
は俳諧宗匠たちが出した歳旦祝賀の俳書。

野口在色著「俳諧解脱抄」に「中比、桃青と名乗て東府に吟ひ、此道の宗匠を望み、万句の会を催しける。予わけてとりもちて成就しけり」とある。

岸本調和編「富士石」に、芭蕉の宗匠立机が春行われたことを伝える「桃青万句に 三吉野や世上の花を目八分 等躬」の句が見られる。
-- 杉山杉風と両吟で百韻を興行。

○「両吟百韻」より。
色付くや豆腐に落ちて薄紅葉 桃青
山をしぼりし榧(かや)の下露 杉風
手みづ桶雲の広袖月もりて  杉風
こぬか乱るゝ風の夕暮    桃青

以下略。
12 5 内藤風虎主催「六百番俳諧発句合」に「松尾桃青」として発句20句入集。
-- 京から東下中の伊藤信徳と山口素堂との三吟百韻を興行。
延宝6

(1678)
1 -- 35 信徳、素堂との三吟百韻を二巻興行。

 

3 -- 信徳編「江戸三吟」刊行。

○「江戸三吟」は、前年来の信徳、素堂との三吟三百韻を京の書肆寺田重徳から刊行したもの。同じ頃、信徳、素堂との三吟三百韻と延宝4年の素堂との二百韻を収めた芭蕉編「桃青三百韻 附両吟二百韻」が刊行された。
延宝7

(1679)
4 -- 36 岸本調和編「富士石」刊行。これに、芭蕉が万句興行を催して立机披露したことを祝す俳友相楽等躬(須賀川)の発句が入集している。

○「富士石」より。
桃青万句に 三吉野や世上の花を目八分
 等躬

等躬は、芭蕉の師北村季吟と同じ貞門の石田末得を師とする須賀川の俳人。
1679 大淀三千風、三千句独吟矢数俳諧を興行(仙台大矢立)。
延宝8

(1680)
4 -- 37 「桃青門弟独吟二十歌仙」刊行。杉風、卜尺、嵐亭(嵐雪)、螺舎(其角)ら総勢21名が名を連ねる。

○「名家俳句集」独吟二十歌仙の発句
1.誰れかは待つ蝿は来りてほとゝぎす  杉 風
2.遊花老人序を述べて後の上戸を待つ  卜 尺
3.蝿となって昼寝の心栩々然たり    巌 泉
4.夜着ふとん猫がふしけりけふの月   一 山
5.別春や上野かへりの道すがら     緑系子
6.山おろしの風礫打ちけり柚みかん   仙 松
7.猫の妻夫婦といがみ給ひけり     卜 宅
8.海鼠膓(このわた)や壷中の雲の入日影 白 豚
9.詠捨てけり秋の夕暮うば子供     杉 化
10.宿の夷豆腐つるべし年の暮      木 鶴
11.赤鰯鬼の草莖なるべしや       嵐 蘭
12.夫れ虹は蛙吟じて雲とかや      楊水之
13.霜朝のあらしやつゝむ生姜味噌    嵐 亭
14.月花を醫す閑素幽栖の野巫の子有り  螺 舎
15.長天も地につきにけり庭の雪     巌 翁
16.しぐるゝや和田の笠松下駄兵衞    嵐 窓
17.横雲や義之が引捨て五月闇      嵐 竹
18.此花に大師も角を折られけり     北 鯤
19.松たけや山下にくだる行脚の僧    岡 松
20.鰒汁や驕る疝気を退治の事      吟 桃

本書は桃青門の存在を強くアピールするもので、このころ、芭蕉は江戸俳壇で確固たる地位を築きつつあった。
1680 徳川綱吉、五代将軍となる

1680 西鶴、大坂生玉寺内で大矢数四千句興行


1680 松江重頼死去。
-- 江戸市中・小田原町から、杉風所有の深川の草庵に居を移す。

○其角の「芭蕉翁終焉記」に草庵の位置は第二次芭蕉庵と同じ所とあるので、その位置を記した「知足斎日々記」の貞享2年4月9日の条から「江戸深川元番所森田惣左衛門御屋敷」であることが知られる。

○芭蕉は、庭先より雪をかぶる富士山や船が眺められたことから、杜甫の「窓ニハ含ム西嶺千秋ノ雪、門ニハ泊ス東呉万里ノ船」を思い起こし、庵を「泊船堂」と名付けた。

○以下は、入庵して間もない頃の作、句文「しばの戸」。
こゝのとせの春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手にして金なきものは行路難しと云けむ人のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや。
しばの戸に茶をこの葉掻くあらし哉
(続深川集)

入庵して間もないころから、当時深川大工町臨川庵に滞在していた仏頂禅師のもとへの参禅がはじまったものと見られる。
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【3】 第二次芭蕉庵完成までの松尾芭蕉
年号 松尾芭蕉年譜 参考事項
天和元

(1681)
-- 38 門人の李下、芭蕉一株を贈る。

○「続深川集」より。

李下、芭蕉を贈る ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな

○芭蕉の葉が見事に繁って名物となったことから、草庵を「芭蕉庵」の庵号で呼ぶようになり、俳号として「芭蕉」を使用するようになる。
1681 (延宝9年)9月29日、「天和」に改元。
7 この春、伊藤信徳が刊行した八吟「七百五十韻」に呼応する四吟二百五十韻「俳諧次韻」を刊行。連衆は、芭蕉、其角、揚水、才丸。
7 -- 鈴木清風(残月軒)の初撰集「おくれ双六」刊行。

○自序に「花の都にも二年三とせすミなれ、古今俳諧の道に踏迷ふ。近曽より漸新しき海道に出て諸人をまねき、四季折々の佳作を得るといへとも、皆先達の俤ありて(以下略)」とある。

○俳友約150名から得た発句330句を収め、巻末に自らの独吟百韻二巻を載せている。芭蕉も桃青号で、次の句を寄せた。
郭公まねくか麦のむら尾花  桃青
天和2

(1682)
1 39 茅屋子編「俳諧関相撲」刊行。

○本書は、京都、大坂、江戸の三都で名立たる名匠6人ずつ、計18人を選んで各々の評点ぶりを紹介するもので、江戸では、桃青(芭蕉)、調和、幽山、露言、言水、才丸が選ばれている。
1682 宗因死去。
3 望月千春編「武蔵曲(むさしぶり)」(北村季吟序)に発句6句入集。この撰集で、初めて公に「芭蕉」号を使用する

○「武蔵曲」の百韻一巻「錦どる」より。
錦とる都にうらむ百つゝじ  麋塒
壹花さくら二番山ぶき    千春
風の愛三線の記を和らげて  卜尺
雨双六に雷を忘るゝ     暁雲
宵うつり盞の陣を退りける  其角
せんじ所の茶に月を汲    芭蕉
霧軽く寒や温やの語を盡ス  素堂
梧桐の夕繻子を抱イて    似春
孤村遥に悲風夫を恨ムかと  昨雲
媒酒棋に咲を進ムル     言水

以下略。
5 -- 大淀三千風編「松島眺望集」に発句1句入集。
武蔵野の月の若生えや松島種

○本書は
、芭蕉や西鶴、言水など全国の500余人にのぼる俳人から5000を越える発句、和歌、漢詩を収集し、そこから1500の作品を選んで2巻2冊を完成させたもの。
12 28
江戸駒込大円寺を火元とする大火で芭蕉庵類焼

江東区史によれば、火事は午の上刻(午前11時ごろ)に発生し、下谷、浅草、本所から本郷、神田、日本橋にも飛火し、大名75家、旗本166家、神社47社、寺院48宇を焼き尽し、千人を超す
義仲寺所蔵・芭蕉翁絵詞伝-深川芭蕉庵類焼の図
焼死者を出した後、翌朝卯の下刻(6時ごろ)ようやく鎮火したという。
其角の「芭蕉翁終焉記」に、大火の様子などについて「深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、これぞ玉の緒のはかなき初めなり」とある。
天和3

(1683)
-- 40 秋元藩家老・高山伝右衛門繁文(麋塒)の招きで甲斐の谷村に逗留。

○逗留中、麋塒、一晶と三吟歌仙二巻を興行。
夏馬の遅行我を絵に見る心かな   芭蕉
変り手濡るる瀧凋む瀧       麋塒
蕗の葉に酒そそぐ竹の宿かびて   一晶

以下略(「一葉集」-「夏馬の遅行」の巻)

胡(へぼち)草垣穂に胡瓜もむ屋かな 麋塒
笠おもしろや卯の実むらさめ    一晶
散る蛍沓に桜を払ふらん      芭蕉

以下略(「一葉集」-「へぼち草」の巻)

○以下は、元禄3年3月金沢の大火で家が類焼した北枝に送られた芭蕉書簡(元禄3年4月24日付。幻住庵発)。天和3年の甲斐逗留について触れている。
池魚の災(災いが意外なところにおよぶこと)承、我も甲斐の山ざとにひきうつり、さまざま苦労いたし候へば、御難儀の程察申候。されどもやけにけりの御秀作(北枝の「元禄三のとし大火に庭の桜も炭に成るを 焼けにけりされども花は散りすまし」の句)、かゝるときに望、大丈夫感心、去来・丈草も御作驚申斗二御ざ候。
以下略(「芭蕉消息集」)
1683 季吟、新玉玉津島神社に社司として移り住み、俳諧の月次を子湖春に任せる。
5 -- 甲斐から江戸に戻る。江戸の居所は不詳。
6 其角編「虚栗」刊行。発句13句、漢句1句、歌仙3入集。

○以下は、芭蕉の跋文。

栗と呼ぶ一書、其味四あり。李・杜(李白と杜甫)が心酒(精神)を嘗て、寒山(唐の禅僧)が法粥を啜る。これに仍って其句、見るに遥にして聞に遠し。侘と風雅のその生(つね)にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕(むしくい)栗也。恋の情つくし得たり。昔は西施(中国春秋時代の越の美女)がふり袖の顔(かんばせ)、黄金鋳小紫(黄金ハ小紫ヲ鋳ル)、上陽人(不遇の官女のたとえ)の閨(ねや)の中には、衣桁(衣服を掛ける道具)に蔦のかゝるまで也。下の品には眉ごもり親ぞひの娘、娶(よめ)姑のたけき争ひをあつかふ。寺の児、歌舞の若衆の情をも捨ず。白氏(白楽天)が歌を仮名にやつして、初心を救ふたよりならんとす。其ノ語振動虚実をわかたず、宝の鼎(かなえ)に句を煉て、竜の泉に文字を冶(きた)ふ。是必他のたからにあらず、汝が宝にして後の盗人を待テ。
天和三癸亥年仲夏日 芭蕉洞桃青鼓舞書
20 母死去享年不詳。上野農人町の愛染院に葬らる。戒名「梅月妙松信女」。
9 -- 寄付名簿に勧化文添付の素堂筆「芭蕉庵再建勧化簿」成る。
総勢52名の寄進者を得、冬、新築の第二次芭蕉庵に入る。


○素堂筆勧化文
芭蕉庵裂て芭蕉庵をもとむ。力を二三生にたのまんや、めぐみを数十生に待たんや。広くもとむるはかへって其おもひやすからんと也。甲をこのまず乙を耻づる事なかれ。各志のある所に任すとしかいふ。これを清貧とせんや将狂貧とせんや。翁(芭蕉)みづからいふ唯貧なりと。貧のまた貧、許子の貧。それすら一瓢一覃のもとめあり。雨をささへ風を防ぐそなへなくば、鳥にだも及ばず。誰か忍びざるの心なからむ。是草堂建立のよりて出る所なり。
天和三年秋九月 潜汲願主之旨 濺筆於敗荷之下  山  素 堂
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【4】 「おくのほそ道」までの松尾芭蕉
年号 松尾芭蕉年譜 参考事項
貞享元

(1684)
8 -- 41 門人千里とともに「野ざらし紀行」の旅に出る。

野ざらしを心に風のしむ身かな」を矢立の初めとし、故郷、伊賀上野に向かって旅立つ。前年に亡くなった母の墓参を兼ねての旅。東海道から、伊勢、伊賀上野、当麻、吉野山、大垣、桑名、熱田、名古屋、伊賀上野(越年)、奈良、京都、大津、水口、鳴海 と旅し、木曽路から甲州路に入り、貞享2年4月末、江戸に戻る。

松尾芭蕉の旅-野ざらし紀行
1684 西鶴、摂津住吉の神前で一日一夜二万三千五百句独吟を成就。
11 -- 「野ざらし紀行」の旅中、名古屋にて、「冬の日」五歌仙・追加の表六句成る。荷兮編芭蕉七部集の一つ。

奥書に「貞享甲子歳(元年)」とあるが、刊行は翌年。
貞享2

(1685)
4 42 「野ざらし紀行」の旅から帰る。

○「知足斎々日記」の4月10日の条に「桃青丈江戸へ御下り」とある。
1685 このころ、曽良、芭蕉の門弟となり、芭蕉庵近くに住む。
6 2 江戸小石川で、清風歓迎の七吟百韻「古式百韻」を興行。連衆は、清風、芭蕉、嵐雪、其角、才麿、コ斎、素堂。

○「古式百韻」より。
涼しさの凝(こり)くだくるか水車 清風
青鷺草を見越す朝月       芭蕉

以下略。
貞享3

(1686)
-- 43 芭蕉庵で蛙の二十番句合を興行。芭蕉の他、素堂、李下、去来(京から文音で参加)、嵐雪、宗波、杉風、曽良、其角など全40名が参加。

○芭蕉の「古池や蛙飛び込む水のおと」と仙北の「いたいけに蝦つくばふ浮葉哉」が第一番目の句合。
3 20 江戸小石川で七吟歌仙を興行。連衆は、芭蕉、清風、挙白、曽良、コ斎、其角、嵐雪。

○清風編「俳諧一橋」(貞享3年9月刊)より。
三月廿日即興
花咲て七日(つる)みる麓哉 芭蕉
懼て蛙のわたる細橋     清風
足踏木を春また氷る筏して  挙白
米一升をはかる関の戸    曽良
名月を隣はねたる草枕    コ斎
枝みくるしき桐の葉を刈   其角
8 15 其角、仙化らと芭蕉庵月見の会を催す。

○隅田川に船を浮かべ各々が作句。芭蕉、「名月や池をめぐりてよもすがら」を吟じる。
8 荷兮編「春の日」刊行。古池や蛙飛び込む水の音」など発句三句入集。芭蕉七部集の一つ。

「春の日」には、芭蕉が一座した連句は記載されていない。本書は、芭蕉が、荷兮、野水、越人を助けて撰ばせたもの。
-- 雪の夜に訪ねた曽良を叙す句文「雪まるげ」成る。

○曽良何某は、此のあたりちかく、かりに居をしめて、朝な夕なに訪(と)ひつ訪(と)はる。我くひ物いとなむ時は柴折くぶるたすけとなり、ちゃを煮る夜はきたりて氷をたたく。性隠閑をこのむ人にて、交金を断つ。あるよ、雪を訪(と)はれて、
きみ火をたけよき物見せむ雪まるげ ばせを
(若人編「花膾」)
貞享4

(1687)
8 14 44 月見と鹿島神宮参詣を兼ねて、曽良と宗波を伴い鹿島へ旅立つ。

この旅を綴った「鹿島紀行(鹿島詣)」は、同年8月25日に成立。

「鹿島紀行」より。
昼ひるより雨しきりに降て、月見るべくもあらず。麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。
 おりおりにかはらぬ空の月かげも
  ちぢのながめは雲のまにまに  和尚
 月はやし梢は雨を持ながら    桃青
 寺にねてまことがほなる月見かな 桃青
 雨にねて竹おきかへる月見かな  曽良
 月さびし堂の軒端の雨しづく   宗波


松尾芭蕉の旅-鹿島紀行
10 11 「笈の小文」の旅を前にして、其角亭で送別の句会が開かれる。
10 25 「笈の小文」の旅に出る。

江戸の芭蕉庵から、鳴海、豊橋、渥美半島、伊良湖崎、熱田神宮、伊賀上野(越年)、伊勢、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大阪と巡り、貞享5年4月20日、須磨、明石を訪れ、須磨に一宿したところまでの紀行が「笈の小文」としてまとめられている。「笈の小文」は、この旅の草稿をもとにして、大津蕉門の重鎮・川井乙州(おとくに)が編集したもの。

「笈の小文」より。
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫道するものは一つなり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(四季)を友とす。見るところ花にあらずといふことなし。思ふところ月にあらずといふことなし。像、花にあらざる時は夷狄(いてき。未開人)にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
貞享5

(1688)
8 11 45 15日の仲秋の名月を見るため、蕉門越人(えつじん)とともに岐阜から信濃国の更科へ旅立つ。

木曽路を登って更科の姨捨山へ行く。古来、更科から鏡台山や姨捨山にかかる月を見るのが風流とされており、多くの旅人が当地を訪れている。観月の後、長野から浅間山の麓を通って江戸に戻った。この旅の紀行は「更科紀行」としてまとめられた。
1688 金沢の一笑、12月6日死去。
元禄2

(1689)
2 46 第二次芭蕉庵を手放し、杉風の別墅「採荼庵」に居を移す。 1689 杉風、8月3日に友五、蒼波を伴って隅田川に遊び、「角田川」成る。
3 -- 荷兮編「あら野(曠野)」、京の井筒屋から刊行。芭蕉七部集の一つ。

芭蕉筆「あら野」の序文。
尾陽蓬左、樫木堂主人荷兮子、集を編みて名をあらのといふ。何故に此名ある事を知らず。予はるかにおもひやるに、ひとゝせ此郷に旅寝せしおりおりの云捨あつめて、冬の日という。其日かげ相続きて、春の日また世にかゞやかす。げにや衣更着(きさらぎ)、やよひの空のけしき、柳桜の錦を争ひ、てふ(蝶)鳥のおのがさまざまなる風情につきて、いさゝか実をそこなふものあればにや。いとゆふのいとかすかなる心のはしの有かなきかにたどりて、姫ゆりのなにゝもつかず、雲雀の大空にはなれて、無景のきはまりなき道芝のみちしるべせむと、此野の原の野守とはなれるべらし。
   元禄二年弥生         芭蕉桃青
3 -- 「おくのほそ道」の旅を前にして、内藤露沾邸で餞別吟あり。

○其角編「いつを昔」(元禄3年刊)より
松島行脚の餞別(二吟二句)
月花を両の袂の色香かな 露沾
蛙のからに身を入れる声  翁
3 23 落梧宛書簡を執筆。

三国路紀行文学館所蔵の落梧宛書簡。
御同境又三郎殿御下りの砌(みぎり)、芳翰(ほうかん)に預り、殊に小紙一束堅慮に懸けられ、忝く存じ奉り候。愈(いよいよ)其元(そこもと)俳諧も隆盛の由、御手柄感心斜めならず候。野生、とし明け候へば又々たびごこちそぞろになりて、松島一見のおもひやまず、此廿六日江上(こうしょう)を立ち出で候。みちのく・三越路の風流佳人もあれかしとのみに候。
はるけき旅寝の空をおもふにも、心に障らんものいかがと、まづ衣更着(きさらぎ)末草庵を人にゆづる。此人なん、妻を具しむすめを持たりければ、草庵のかはれるやうをかしくて、
草の戸も住みかはる世や雛の家
三月廿三日              ばせを
落梧雅丈
御連中へ然るべく頼み存じ候。取り込み候故、一紙申し残し候。
尚々、秋芳軒主御状に預り忝く存じ候。
3 27 曽良同道で「おくのほそ道」の旅に出立。

曽良の随行日記には、出立日について「巳三月廿日 日出、深川出船」と記されている。(「芭蕉と旅立ち-芭蕉について」を参照)
4 3   黒羽、余瀬着。16日発。
20   白河着。
22   須賀川着。29日発。
5 4   仙台着。8日発。
9   松島着。10日発。
13   平泉の旅。
17   尾花沢着。27日発。
27   山寺着。
6 3   羽黒着。10日発。
13   酒田着。15日象潟へ。
16   象潟着。
18   酒田着。25日発。
7 15   金沢着。24日発。
27   山中着。 8月 5日発。
8 12   12日(推定)福井着。 
14   敦賀着。
21   大垣着。
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【5】 「おくのほそ道」後の松尾芭蕉
 
<  伊賀上野   京都   湖南     >
年号 松尾芭蕉年譜 参考事項
元禄2

(1689)
9 -- 46 曽良の叔父良成が住職をつとめる伊勢長島・長松山大智院に逗留。
長島→桑名→久居・長禅寺→伊勢→伊賀上野
1689 北村季吟、湖春親子、幕府の歌学方となる。
12 -- 京都滞在中、去来に「不易流行」の理念を説く。

「去来抄」より
去来曰く、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分けて教へ給へる。その元は一つ也。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風(ふう)新たならず。不易は古へによろしく後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日の風、今日よろしからず。今日の風、明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやることをする也。

膳所・義仲寺の草庵で越年。
元禄3

(1690)
1 3 47 膳所から伊賀上野へ。 1690 三千風、「日本行脚文集」出版のため春から夏まで在京。
3 伊賀上野から膳所へ。
4 6
義仲寺の草庵から幻住庵に入る。 義仲寺所蔵・芭蕉翁絵詞伝-幻住庵付近の図
6 -- 京都へ。幻住庵に戻る。
-- 「幻住庵記」執筆。
7 23 幻住庵を引き払い大津へ。
8 13 珍碩編「ひさご」、京の井筒屋から刊行。題簽は「飛さご」。越人序。芭蕉七部集の一つ。

○同年3月下旬、膳所における芭蕉、珍碩、曲水の三吟歌仙(木のもとにノ巻)が入集。
8 -- 義仲寺在住。「幻住庵記」成る。

幻住庵記」より
予又市中をさる事十年計にして、五十年やゝやちかき身は、蓑虫のみのを失ひ、蝸牛家を離て、奥羽象潟の暑き日に面をこがし、高すなごあゆみくるしき北海の荒磯にきびすを破りて、今歳湖水の波に漂。鳰の浮巣の流とゞまるべき蘆の一本の陰たのもしく、軒端茨あらため、垣ね結添などして、卯月の初いとかりそめに入し山の、やがて出じとさへ思ひそみぬ。(中略) 倩年月の移こし拙き身の科をおもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる。
9 25 杉風から第二次芭蕉庵の再入手不能を伝える旨の書簡が届く。
膳所から伊賀上野へ。
11 京都へ。
12 -- 京都→大津義仲寺
元禄4

(1691)
1 -- 48 義仲寺で新年を迎える。

伊賀上野へ。
1691 曽良、3月4日上方巡遊のため江戸発足。7月初旬江戸帰着。
2 -- 一時奈良に滞在し、伊賀上野に戻る。
4 18
京都・落柿舎に入り、5月4日まで滞在。

「落柿舎」は蕉門十哲の一人、向井去来の草庵。
「嵯峨日記」は、この間に綴られた日記。
義仲寺所蔵・芭蕉翁絵詞伝-嵐山の図
5 5 落柿舎から洛中小川椹木町上ル・凡兆宅に移る。

6月にかけて「猿蓑」に取り組む。
7 3 去来・凡兆編、芭蕉監修「猿蓑」刊行。芭蕉七部集の一つ。

○書名の「猿蓑」は、芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えて故郷伊賀上野に向かう途中、初時雨に震える猿に出会い「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」と詠んだ句に由来する。「猿蓑」では発句の配列が冬、夏、秋、春となっていて、この句がその巻頭を飾っている。
「はつしぐれさるもこみのをほしげ也」と書かれた芭蕉真蹟懐紙には、「あつかりし夏も過、悲しかりし秋もくれて、山家に初秋をむかえて はせを」の前書がある。
-- 新草庵「無名庵」に滞在。これは、膳所で経済的に援助した水田正秀らが芭蕉のために義仲寺の境内に新築したもの。

一時京都に滞在し、無名庵に戻る。
8 15 無名庵で路通、丈草、支考らと月見の会を催す。
9 23 一時京都に滞在し、無名庵に戻る。
28 無名庵から桃隣とともに江戸に立つ。
無名庵→大津→彦根平田
10 -- 彦根平田→美濃垂井→大垣→熱田→三河新城(鳳来寺参詣。持病起こる)→島田(「島田の時雨」を執筆)→沼津→江戸(10月29日)
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【6】 第三次芭蕉庵から晩年までの松尾芭蕉
年号 松尾芭蕉年譜 参考事項
元禄5

(1692)
5 -- 49 第三次芭蕉庵完成。日本橋橘町から深川へ。

5月になって、杉風と枳風の出資、曽良と岱水の設計により、旧庵の近くに第三次芭蕉庵が新築された。この庵は、元禄7年(1694年)5月11日に江戸を離れるまでの丸2年間の住まいだった。
1692 支考、奥州行脚を志し、2月10日に餞別句会。6月中旬に江戸帰着。下旬、美濃に帰国。
8 -- 「芭蕉を移す詞」所収の「芭蕉庵三ケ月日記」成る。

○「芭蕉を移す詞」の全文。
菊は東雛に栄え、竹は北窓の君となる。牡丹は紅白の是非にありて、世塵にけがさる。荷葉は平地に立たず、水清からざれば花咲かず。いづれの年にや、住みかをこの境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端も隠るばかりなり。人呼びて草庵の名とす。旧友・門人、共に愛して、芽をかき根をわかちて、ところどころに送ること、年々になむなりぬ。一年、みちのく行脚思ひ立ちて、芭蕉庵すでに破れむとすれば、かれは籬の隣に地を替へて、あたり近き人々に、霜のおほひ、風のかこひなど、かへすがへす頼み置きて、はかなき筆のすさびにも書き残し、「松はひとりになりぬべきにや」と、遠き旅寝の胸にたたまり、人々の別れ、芭蕉の名残、ひとかたならぬ侘しさも、つひに五年の春秋を過ぐして、再び芭蕉に涙をそそぐ。今年五月の半ば、花橘のにほひもさすがに遠からざれば、人々の契りも昔に変らず。なほ、このあたり得立ち去らで、旧き庵もやや近う、三間の茅屋つきづきしう、杉の柱いと清げに削りなし、竹の枝折戸やすらかに、葭垣厚くしわたして、南に向ひ池に臨みて、水楼となす。地は富士に対して、柴門景を追うて斜めなり。淅江の潮、三股の淀にたたへて、月を見るたよりよろしければ、初月の夕べより、雲をいとひ雨を苦しむ。名月のよそほひにとて、まづ芭蕉を移す。その葉七尺あまり、あるいは半ば吹き折れて鳳鳥尾を痛ましめ、青扇破れて風を悲しむ。たまたま花咲けども、はなやかならず。茎太けれども、斧にあたらず。かの山中不材の類木にたぐへて、その性たふとし。僧懐素はこれに筆を走らしめ、張横渠は新葉を見て修学の力とせしなり。予その二つをとらず。ただその陰に遊びて、風雨に破れやすきを愛するのみ。
-- 素龍、初来庵。

○素龍は、「おくのほそ道」の清書本を代筆した能書家。
元禄6

(1693)
3 -- 50 甥の桃印、芭蕉庵で逝去。 1693 西鶴死去。
4 江戸詰彦根藩士森川許六への「許六離別の詞」を書く。
5 -- 「許六を送る詞」を書く。

○「許六を送る詞」の全文。

木曽路を経て旧里にかへる人は、森川氏許六と云ふ。古しへより風雅に情ある人々は、後に笈をかけ、草鞋に足をいため、破笠に霜露をいとふて、をのれが心をせめて、物の実をしる事をよろこべり。今、仕官おほやけの為には、長剣を腰にはさみ、乗かけの後に鑓をもたせ、歩行若党の黒き羽織のもすそは風にひるがへしたるありさま、此人の本意にはあるべからず。
椎の花の心にも似よ木曽の旅 ばせを
うき人の旅にも習へ木曽の蝿 同
7 8月にかけての約1ヶ月間、庵にこもり面会を絶つ。この間、「閉関之説」を書く。
元禄7

(1694)
1 20 51 猿雖宛書簡で、今春帰郷する意向を伝える。 1694 支考、春から美濃、尾張、大坂、伊勢を旅する。
4 7 乙州宛書簡で、持病快復次第帰郷する意向を伝える。

○書簡に「拙者、持病快気次第発足致すべく候」とある。
「おくのほそ道」素龍清書本成る。芭蕉、これに自筆の題簽を付し自らの所持本とする。
5 -- 子珊亭の別座敷で芭蕉餞別句会。芭蕉の他、子珊、杉風、桃隣、八桑を連衆とする五吟歌仙あり。

杉風に
「軽み」の理念を説く。

帰郷のため寿貞の子二郎兵衛を伴い
江戸を発つ曽良、箱根まで同行する。伊賀上野着は28日。
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【7】 俳聖 松尾芭蕉、堕(お)つ
容態が悪化するまでの4ケ月
元禄7

(1694)
5 28 51 伊賀上野着。閏5月16日まで滞在。
後、大津→膳所→落柿舎。
1694 支考、伊賀上野から芭蕉と同道。

1694 大淀三千風、7月頃隅田川の河畔に庵を結ぶ。
6 8 寿貞が(6月2日ごろ)芭蕉庵で死去したことを知る。
杉風宛書簡を執筆。
杉風に「軽み」の撰集「別座舗」が上方で賞賛されていることを伝える。
28 野坡・利牛・孤屋編「炭俵」、京の井筒屋から刊行。

題簽は「すみたはら」。芭蕉七部集の一つ。
6月中旬から7月5日まで湖南逗留。
後、京都の去来宅へ。
7 7月中旬、伊賀上野で「続猿蓑」撰に従事。

○芭蕉七部集の一つ「続猿蓑」は、芭蕉死後の元禄11年(1698年)に刊行。
9 3 支考、「続猿蓑」の仕上げに加わる。
8 反目しあう門弟、之道と酒堂の仲を取り持つため大坂へ向かう。

支考と二郎兵衛が同道。
10 杉風宛書簡を執筆。

本書簡は、「芭蕉翁真跡集」に「駿府小西氏子来所持」として所収。書簡に、「いまだ句体定め難く候。他見被成まじく候(他の者には見せないでほしい)」とし、次の発句を記す。
菊の香や奈良にハ古き仏達
菊の香やならハ幾世の男ぶり
ぴいと啼尻声悲し夜の鹿


本書簡に「いかにも秋冬間恙(つつが)なく暮し申すべき様に覚え候間、少しも御気遣なさるまじく候」と記すが、晩方から悪寒、頭痛に襲われ、この日から10日間ほど同じ症状を繰り返す
23 兄半左衛門宛書簡を執筆。

以下は、書簡からの抜粋。
私南都に一宿、九日に大坂へ参着、道中に又右衛門かげにてさのみ苦労も不仕、なぐさみがてらに参つき申候。大坂へ参候而、十日之晩よりふるひ付申、毎暁七つ時より夜五つまでさむけ、熱、頭痛参候而、もしは、おこり(瘧。マラリア)に成可申かと薬給候へば、二十日頃よりすきとやみ申候。


意專・土芳宛書簡を執筆。

書簡に「いまだ気分も勝れず」とある。書簡に次の発句を記す。
 
九日南都を立ちける心を
菊に出て奈良と難波ハ宵月夜
 秋夜
秋の夜を打崩したる咄かな
 秋暮
この道を行人なしに秋の暮
26 大坂清水茶屋四郎兵衛の晴々亭で十吟半歌仙。
連衆は、芭蕉、泥足、支考、之道、酒堂など。


泥足編「其便」(元禄7年刊)より。
所思
此道や行人なしに秋の暮     芭蕉
岨の畠の木にかゝる蔦      泥足
月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て 支考

以下略。
27 園女亭で九吟歌仙、附句4。
連衆は、芭蕉、園女、之道(諷竹)、渭川(夫一有)、支考など。


園女「菊の塵」より。
白菊の目に立てゝ見る塵もなし  芭蕉
紅葉に水を流す朝月       園女
冷々と鯛の片身を折まげて    諷竹
何もせずに年暮行        渭川

以下略。
28 秋の余波を惜しみ、蛙止亭で句会。
連衆は芭蕉、酒堂、支考など七人。七種の恋を結題にした句会。

泥足編「其便」(元禄7年刊)より。
月下送兒
月澄むや狐こはがる兒の供    芭蕉
寄鹿憶壻
篠越て来ル人床し鹿の脛     酒堂
以下略。


29日の夜に予定されていた芝柏亭俳諧のため
発句「秋深き隣は何をする人ぞ」を遣わす。

俳聖 芭蕉、堕つ

元禄7

(1694)
9 29 51 夜、下痢で床に臥す。
この日を境に次第に容態悪化。
10 5
之道亭から花屋仁左衛門の貸座敷に病床を移す。
膳所、大津、伊勢などの門人に急を告ぐ。
義仲寺所蔵・芭蕉翁絵詞伝-花屋の病床の図
8 夜更けに、病中吟を示す
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
9 付き添いの支考に、嵯峨で吟じた「大井川浪に塵なし夏の月」の句を、次の句に改案したい旨を告げる。
清滝や波に散り込む青松葉
10 晩方から様態急変。
兄半左衛門に自らの手で遺書を認(したた)める。
支考、門人たちへの遺書を代筆。
11 朝から食を断って不浄を清める。
12
申の刻(午後4時ごろ)死去
夜、去来・基角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・二郎兵衛の十名、遺骸とともに淀川を遡る。
義仲寺所蔵・芭蕉翁絵詞伝-柩航送の図
14
遺言により義仲寺に埋葬する。 義仲寺所蔵・芭蕉翁絵詞伝-義仲寺の図

[ 参照 ]  芭蕉の晩年と墓所義仲寺-芭蕉の最期

  
松尾芭蕉の遺書

兄半左衛門宛  芭蕉自筆遺書

 御先ニ立候段残念可被思召候。如何様共又右衛門便二被成、御年被寄、御心静二御臨終
 可被成候。至爰申上る事無御座候。市兵へ・次右衛門・意
老を初、不(残)御心得奉頼
 候。中二も十左衛門・半左殿右之通。
 はゝ様・およし力落し可申候。以上
          十月十日                       桃青
   松尾半左衛門様
 新蔵ハ殊二骨被折忝候
■御先ニ立候段残念可被思召候。如何様共又右衛門便二被成、御年被寄、御心静二御臨終可被成候。至爰申上る事無御座候。

読みは、「御先に立ち候段、残念に思し召さるべく候。如何様(いかよう)とも又右衛門便(頼)りになされ、御年寄られ(長生きなさって)、御心静かに御臨終なさるべく候。(ここ)に至って申し上ぐる事御座なく候」

■市兵へ・次右衛門・意専老を初、不(残)御心得奉頼候。中二も十左衛門・半左殿右之通。はゝ様・およし力落し可申候。以上


市兵へ
は、伊賀上野の人。貝増氏。俳号卓袋。芭蕉の死に際しては、土芳と伊賀の門人を代表して出向き、遺髪を義仲寺から携え帰り、愛染院に故郷塚を営んだ。

次右衛門は、伊賀上野の人。岡本氏。俳号苔蘇。藤堂家藩士。

意専老は、伊賀上野の人。窪田氏。俳号猿雖。元禄2年仏門に入って家業を子に譲り、意専と改号し俳諧に精進した。

不(残)御心得奉頼候の意は、「皆によろしくお伝えください」

十左衛門は、共に山岸十(重)左衛門と称した芭蕉の姉の夫・陽和、または、子・半残。

半左は、服部土芳。通称半左衛門。藤堂家に仕えたが、のち浪人して俳諧に生涯を託し、芭蕉の遺風を伝えて「三冊子」を残した。

はゝ様は、「ばば様」で兄嫁のことか。

およしは、芭蕉の末の妹。

■十月十日  桃青


■松尾半左衛門様


■新蔵ハ殊二骨被折忝候


読みは、「新蔵は殊に骨折られ忝(かたじけな)く候」

新蔵は、伊賀上野の人。片野氏。俳号望翠。屋号を井筒屋といった。芭蕉の一の妹の夫。

遺 書(支考代筆) その一 

 一、三日月記   伊賀に有り
 一、発句の書付  同断
 一、新式 是は杉風へ遣はさるべく候。落字これ有り候間、本写を改め校せらるべく候。
 一、百人一首・古今序註 抜書、是は支考へ遣はさるべく候。
 一、埋木  半残方に之有り候。  
   江戸
 一、杉風方に前々よりの発句文章の覚書之あるべく候。支考之を校し、文章引き直さる
   べく候。何れも草稿にて御座候。
 一、羽州岸本八郎右衛門発句二句、「炭俵」に拙者句になり、「公羽」と「翁」と
   の紛れにて之有るべく、杉風より急度御断わり給はるべく候。
三日月記   伊賀に有り

発句の書付  同断

同断は、「同上」と同義。

新式 是は杉風へ遣はさるべく候。落字これ有り候間、本写を改め校せらるべく候。

新式は、二條良基の応安新式(連歌の式目作法書)。

落字これ有り候間、本写を改め校せらるべく候は、「落字があるので、もとの写本を調べて校合してください」。

百人一首・古今序註 抜書、是は支考へ遣はさるべく候。

古今序註は、明暦4年(1658年)刊のものか。

埋木  半残方に之有り候。

埋木は、芭蕉が京都で俳諧を学んだときの師北村季吟著の俳諧伝書(延宝元年刊)で、藤堂家本写本の巻末識語(写本の巻末に書写・入手先等の来歴・月日を記したもの)に、延宝2年(1674年)3月芭蕉に俳諧の秘事を伝授したことが季吟の自筆で記されている。
「此書、雖為家伝之深秘、宗房生依誹諧執心不浅、免書写而、且加奥書者也、必不可有外見而巳。 延宝二年弥生中七  季吟(花押)」


半残は、伊賀上野の山岸重(十)左衛門の俳号。母は芭蕉の姉。藤堂玄蕃家に仕えた。

江戸

杉風方に前々よりの発句文章の覚書之あるべく候。支考之を校し、文章引き直さるべく候。何れも草稿にて御座候。

支考之を校し」以下は、「十論為辯抄」では「文章の草稿は、支考点検為さるべく候」と記される。

羽州岸本八郎右衛門発句二句、「炭俵」に拙者句になり、「公羽」と「翁」との紛れにて之有るべく、杉風より急度(きつと)御断わり給はるべく候。

八郎右衛門は八郎兵衛のこと。

文意は、「出羽国の岸本八郎兵衛の
発句二句(『川中の根木よろこぶすゞみ哉』と『冬枯の磯に今朝みるとさか哉』)が『炭俵』で私の句として採録されている。八郎兵衛の号『公羽』と私の『翁』が紛れたものだから、杉風の方からすぐに釈明してあげてください。」

遺 書(支考代筆) その二

 一、伊兵衛に申し候。当年は寿貞事に付き色々御骨折り、面談に御礼と存じ候所、是非
   なき事に候。残り候二人の者共、途方を失ひ、うろたへ申すべく候。好斎老など
   御相談成され、然るべく了簡有るべく候。
 一、好斎老、よろづ御懇切、生前死後忘れ難く候。
 一、栄順尼・禅可坊、情ぶかき御人々、面上に御礼申さず、残念の事に存じ候。
 一、貴様病起、御養生随分御勉め有るべく候。
 一、桃隣へ申し候。再会叶はず、力落さるべく候。弥杉風・子珊・八草子よろづ御投げ
   かけ、兎も角も一日暮しと存ずべく候。
      元禄七年十月
 支考此度前後の働き驚き、深切実を尽され候。此段頼み存じ候。庵の仏は即ち出家の事
 に候へば遣はし候。
        ばせお 朱印
    (注)「支考」以下は芭蕉自筆とされる。
伊兵衛に申し候。当年は寿貞事に付き色々御骨折り、面談に御礼と存じ候所、是非なき事に候。残り候二人の者共、途方を失ひ、うろたへ申すべく候。好斎老など御相談成され、然るべく了簡(考慮)有るべく候。

伊兵衛は、猪兵衛と同人。白亥の「真澄の鏡」に「鯉屋(杉風)手代伊兵衛は桃青翁の甥なり」とある。「桃青翁(芭蕉)の甥」は真否不明。芭蕉または寿貞と縁故関係にあったと見られている。

寿貞は、芭蕉の青年時代の愛人といわれ、芭蕉が藤堂家に仕えていたころ既に関係が結ばれていたとの説もある。

面談に御礼と存じ候所、是非なき事に候は、「直接会ってお礼を申したいが致し方ありません」。

残り候二人の者共は、寿貞の子、「まさ」と「おふう」。

好斎老は、寿貞の家族が芭蕉庵に住んでいた折に世話をした芭蕉庵付近の住人。

好斎老、よろづ御懇切、生前死後忘れ難く候。

栄順尼・禅可坊、情ぶかき御人々、面上に御礼申さず、残念の事に存じ候。

栄順尼・禅可坊
好斎老と同様の人と目される。

貴様病起(気)、御養生随分御勉め有るべく候。

貴様は伊兵衛のこと。

桃隣へ申し候。再会叶はず、力落さるべく候。弥(いよいよ)杉風・子珊・八草子よろづ御投げかけ、兎も角も一日暮しと存ずべく候。

桃隣は、芭蕉の縁者で本名天野勘兵衛。元禄9年(1696年)「おくのほそ道」の足跡をたどり「陸奥鵆」を著わした。芭蕉は、元禄7年に伊兵衛に宛てた書簡の中でも「杉風・子珊心にたがはざる様に実を御つとめ候へと御申し成さるべく候(杉風・子珊の機嫌を損なわないよう誠実に仕えなさいとご忠告してあげてください)」と桃隣への気遣いをみせている。

子珊は、江戸における芭蕉晩年の門人で「別座舗」の編者。

八草は、「別座舗」や「枯尾花」に名が見える江戸の俳人。

文意は、「桃隣へは再会できないが力を落とさないように言ってください。こうなったからには、杉風・子珊・八草子に何事も頼りにし、ともかく毎日を大切に生きなさい。」


元禄七年十月

支考此度前後(原文では「後」が脱字)の働き驚き、深切実を尽され候。此段頼み存じ候。庵の仏は即ち出家の事に候へば遣はし候。

支考は、元禄7年の9月になって「続猿蓑」撰に協力し、また、険悪になっている大坂の門人、之道と酒堂の仲を取り持つため芭蕉とともに大坂に旅をし、さらには、倒れた後も離れずに看病にあたるなど、芭蕉にとっては、やはり、「此度前後」にわたって「深切実を尽」した人物であった。

文意は、「支考には、このところずっと感ずるほどに活躍していただき、まごころ込めて尽していただいた。この支考の深切を心にとどめておいてください。芭蕉庵にある仏像は即ち出家に関わるものだから(僧侶の)支考に与えてください」。

ばせお 朱印

遺 書(支考代筆) その三

 一、杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御暇
   乞ひ致さざる段、互ひに存念、是非なき事に存じ候。弥俳諧御勉め候ひて、老後
   の御楽しみになさるべく候。
 一、甚五兵衛殿へ申し候。永々御厚情にあづかり、死後迄も忘れ難く存じ候。不慮
   なる所にて相果て、御暇乞ひも致さず、互ひに残念是非なき事に存じ候。
   弥俳諧御勉め候ひて、老後はやく御楽しみ成さるべく候。御内室様の相替らざる
   御懇情、最後迄も悦び申し候。
 一、門人方、其角は此方へ登り、嵐雪を初めとして、残らず御心得成さるべく候。
      元禄七年十月
        自筆 ばせを 朱印
杉風へ申し候。久々厚志、死後迄忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御暇乞ひ致さざる段、互ひに存念、是非なき事に存じ候。弥俳諧御勉め候ひて、老後の御楽しみになさるべく候。

文意は、「杉風に申します。長い間親切な志をたまわりましたこと、死んでも忘れません。思いがけないところで命を落とすことになり、お別れを直に告げられませんこと、互いに心残りとなりましょうが致し方ありません。杉風には、ますます俳諧に力を入れられ、是非老後の楽しみになさってください。」

甚五兵衛殿へ申し候。永々御厚情にあづかり、死後迄も忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御暇乞ひも致さず、互ひに残念是非なき事に存じ候。弥俳諧御勉め候ひて、老後はやく御楽しみ成さるべく候。御内室様の相替らざる御懇情、最後迄も悦び申し候。

甚五兵衛は、中川甚五兵衛で大垣藩士。濁子と号す。

御内室様の相替らざる御懇情、最後迄も悦び申し候は、「奥様にいつもご親切にしていただきましたこと、最後まで嬉しく思っております」。

門人方、其角は此方へ登り、嵐雪を初めとして、残らず御心得成さるべく候。

文意は、「其角はこちらに向かっているとのことですが、嵐雪を初めとするすべての門人の方々にいとまごいを伝えてください。」

元禄七年十月

自筆 ばせを 朱印

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参 考 文 献


芭蕉年譜大成 今 栄蔵 角川出版

芭蕉翁編年誌 目黒野鳥 青蛙房

俳人芭蕉伝 加藤紫舟 天来書房

芭蕉全伝 山崎藤吉 建設社

芭蕉書簡集 阿部喜三男 新地社



掲載している「芭蕉翁絵詞伝」の画像について


「芭蕉翁絵詞伝」の画像は、義仲寺(滋賀県大津市)が所蔵するポジフィルムを
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 ◇藤堂新七郎屋敷  第0101-1号
 ◇深川芭蕉庵類焼  第0127-1号
 ◇国分山・幻住庵付近  第0127-2号
 ◇嵐山  第0127-3号
 ◇花屋の病床  第0127-4号
 ◇柩航送  第0127-5号
 ◇義仲寺  第0101-5号

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