芭蕉の晩年と墓所義仲寺
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース



 

 

【芭蕉の晩年】    「おくのほそ道」の旅の終わり | 畿内逗留の二十五ヶ月 | 不易流行の説

第三次芭蕉庵で過ごした二十四ヶ月 | 寿貞の死と「続猿蓑」の完成 | 最後の旅 | 芭蕉の最期


【墓所義仲寺】   芭蕉の葬儀 | 義仲寺について | 戦前と現在の義仲寺の資料写真と解説




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落柿舎(嵯峨野)

無名庵(膳所)

記念館(深川)

芭蕉像(深川)

翁堂(膳所)



 

 

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芭蕉の晩年
  
1.「おくのほそ道」の旅の終わり

行春や鳥啼魚の目は泪」を矢立の初めとして奥州、北陸と旅を続けた芭蕉は、元禄2年(1689年)8月21日ついに結びの地大垣に到着。師の無事を喜ぶ門弟とともに大団円の時を迎えた。当地には翌月初めまで滞在し、その間、美濃赤坂の虚空蔵奥の院参詣(8月28日)、歌仙興行(9月3日)、3日に伊勢から来着した曽良と大垣藩士戸田如水宅訪問(9月4日)、「紙衾ノ記」(「和漢文操」所収)の執筆などをして気ままに過ごし、9月6日午前8時頃、曽良と路通を従え伊勢に向けて水門川を下った。
芭蕉は、船場まで見送った友人や門人との別れを「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」と詠んで、およそ150日に及ぶ俳諧紀行「おくのほそ道」の旅を締め括った。

伊勢にまかりけるを、人の送りければ、
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
(真蹟懐紙)

露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
(おくのほそ道)

船問屋木因亭前を離れた舟には、如行などの門人も乗り込んで三里見送り、木因は長島まで見送って送別の句を吟じた。

六日 同。辰尅出船。木因、馳走。越人、船場迄送ル。如行、今一人、三リ送ル。餞別有。申ノ上尅、杉江ヘ着。予、長禅寺ヘ上テ、陸ヲスグニ大智院ヘ到。舟ハ弱半時程遅シ。七左・由軒来テ翁ニ遇ス。(曽良随行日記)

ばせを、伊勢の国におもむけるを舟にて送り、長島といふ江に寄せて立ち別れし時、
荻伏して見送り遠き別れ哉(木因)

 




2.畿内逗留の二十五ヶ月

「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、元禄2年(1689年)9月7日から元禄4年(1691年)9月28日に東下の途につくまで、二十五ヶ月(元禄4年は閏8月あり)にわたって畿内に逗留した。逗留中の芭蕉の動向は下の年譜の通りだが、芭蕉はこの期間、伊賀上野、湖南(大津・膳所)、京都を頻繁に往還する中で、元禄3年(1690年)4月6日から7月23日までの四ヶ月間余を石山・国分山の幻住庵で過ごした。その間の暮しぶりや人生観などを「幻住庵記」としてまとめ翌年7月刊行の「猿蓑」に収めている。

予又市中をさる事十年計にして、五十年やゝやちかき身は、蓑虫のみのを失ひ、蝸牛家を離て、奥羽象潟の暑き日に面をこがし、高すなごあゆみくるしき北海の荒磯にきびすを破りて、今歳湖水の波に漂。鳰の浮巣の流とゞまるべき蘆の一本の陰たのもしく、軒端茨あらため、垣ね結添などして、卯月の初いとかりそめに入し山の、やがて出じとさへ思ひそみぬ。(中略) 倩年月の移こし拙き身の科をおもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる。(幻住庵記)

[現代語訳] 私もまた市中を去って10年ばかりになり、50歳にほどちかくなった身体ながら、蓑虫が蓑をはずし、かたつむりが殻を抜け出すように奥羽や象潟まで足をのばして、灼熱の太陽に顔をこがし、歩きにくい砂丘を越え、北海の荒磯でかかとを痛めながら旅をしたが、今年は琵琶湖のほとりを漂泊している。この草庵を、さまよい流れる鳰(にお。カイツブリ)の浮巣を留める一本の葦ほどに頼りとし、さっそく屋根を葺きかえ(「茨」に屋根を葺く「かや」の意味がある)、垣根を結って築いたりした。卯月(4月)の初め、実にふとしたことからこの草庵に住まうことになったが、そのうちに心底ここに留まろうかとさえ思ってしまった。(中略) ここまで生きてきた拙い(たいしたことのない)私のあやまちをよくよく思うと、ある時は、仕官して生計が立てられることを羨み(「懸命の地」に「一家の生計を支える大切な領地」の意味がある)、また、一たびは仏籬祖室(ぶつりそしつ。仏門)の戸を叩こうと思ったこともあったが、結局は道筋の知れない風雲に身を責め、花鳥風月に情けを傾けて、当分の間はこれが生涯の計り事(もくろみ)となったので、とうとう無能無才のままこれ一筋の生業となってしまった。(現代語訳:LAP Edc. SOFT)
  




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元禄2年
(1689年)
 46歳
9月 曽良の叔父良成が住職をつとめる伊勢長島・長松山大智院に逗留。
長島→桑名→久居・長禅寺→伊勢→伊賀上野
12月 京都滞在中、去来に「不易流行」の理念を説く。
膳所・義仲寺の草庵で越年。
元禄3年
(1690年)
 47歳
1月 膳所から伊賀上野へ。
3月 伊賀上野から膳所へ。
4月 義仲寺の草庵から幻住庵に入る。
6月 京都へ。幻住庵に戻る。
(夏) 「幻住庵記」執筆。
7月 幻住庵を引き払い大津へ。
8月 義仲寺在住。「幻住庵記」最終稿成る。
9月 杉風から第二次芭蕉庵の再入手不能を伝える旨の書簡が届く。
膳所から伊賀上野へ。
11月 京都へ。
12月 京都→大津義仲寺
元禄4年
(1691年)
 48歳
1月 義仲寺で新年を迎える。
伊賀上野へ。
2月 一時奈良に滞在し、伊賀上野に戻る。
4月 京都・落柿舎に入り5月4日まで滞在。「嵯峨日記」は、この間に綴られた日記。
5月 落柿舎から洛中小川椹木町上ル・凡兆宅に移る。
6月にかけて「猿蓑」に取り組む。
7月 凡兆・曽良編、芭蕉監修「猿蓑」刊行。
新草庵「無名庵」(膳所で経済的に援助した水田正秀らが芭蕉のために義仲寺の境内に新築したもの)に滞在。
一時京都に滞在し、無名庵に戻る。
8月 無名庵で路通、丈草、支考らと月見の会を催す。
9月 一時京都に滞在し、無名庵に戻る。
無名庵
から桃隣とともに江戸に立つ。
無名庵→大津→彦根平田
10月 彦根平田→美濃垂井→大垣→熱田→三河新城(鳳来寺参詣。持病起こる)→島田(「島田の時雨」を執筆)→沼津→江戸(10月29日)
 



 

 

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3.不易流行の説

芭蕉の俳諧理論の根幹をなす「不易流行」の説は「おくのほそ道」の旅の体験を通して更に成熟し、芭蕉は、旅を終えた後の元禄2年(1689年)12月、去来に初めてこの新俳論を直伝した。

奥州行脚の前はままあり。この行脚の内に工夫し給ふと見えたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりす、といふ句あり。後に、あなの二字を捨てらる。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨て給ふ多し。この年の冬、初めて不易流行の教を説き給へり(去来抄)

マンネリからの脱却を目指し、俳諧に新しみを取り入れることを提唱した「不易流行」については、師説を書き留めた「聞書七日草」(呂丸)、「山中問答」(北枝)、「去来抄」、「三冊子」(土芳)などの門弟の書にその概念を読み取ることができる。

去来は、「贈晋子其角書」や「去来抄」の中で、蕉門俳諧に千歳不易(不変)と一時流行(変化)という対立する内容の教えがあるが、「風雅の誠」をよりどころとする点においてその根本は一つであり、「不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまず」と教えの本質を説き、土芳は「三冊子」の中で「千変万化する物は自然の理也。変化にうつらざれば、風あらたまず。」と書いて、自然界で万物が常に変化すると同様、俳諧も流行し、新しみを取り入れなければ俳風は改まらないことを説いている。

呂丸「聞書七日草」
花を見る、鳥を聞く、たとへ一句にむすびかね候とても、その心づかひ、その心ち、これまた天地流行の俳諧にて、おもひ邪なき物也。


器物、そのほかなにゝよらず、世上に専らと行ハるゝにしたがひ、いろいろのいろ、さまざざまのかたち、変化つかまつるに候へば、あなかしこ、変化を以てこのミちの花と御心得なさるべく候也。こゝに天地固有の俳諧あり。


天地流行の俳諧あり、風俗流行の俳諧あり。只此道ハ、花のもとに、ほとゝぎすの窓に、上ハあたごの風味より、下は木曽路の績桶迄、歌にもれ行茶ごとをももらさゞるの歌なり。


(本書の論は「不易流行説」の原形と見られている。呂丸に語った時点では、まだ「不易」の言葉は使用されていない。)


北枝「山中問答」
蕉門正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺馬鹿の言語になづむべからず。天地を右にし、万物山川草木人倫の本情を忘れず、飛花落葉に遊ぶべし。其姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変に渡る。

「贈晋子其角書」にある去来の言
句に千歳不易のすがたあり。一時流行のすがたあり。これを両端におしへたまへども、その本一なり。一なるは、ともに風雅のまことをとれば也。不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば風あらたまず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。

去来抄
去来曰く、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分けて教へ給へる。その元は一つ也。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風(ふう)新たならず。不易は古へによろしく後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日の風、今日よろしからず。今日の風、明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやることをする也。

土芳「三冊子」
師の風雅に万代不易有り。一時の変化有り。この二つに究まり、その本一つ也。その一つといふは風雅の誠也。不易を知らざれば実(まこと)にしれるにあらず。不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたるすがた也。代々の歌人の歌をみるに、代々その変化あり。また、新古にもわたらず、今見る所むかし見しに変らず、哀なる歌多し。是まづ不易と心得べし。又、千変万化する物は自然の理也。変化にうつらざれば、風あらたまず。是に押しうつらずと云ふは、一旦の流行に口質時を得たるばかりにて、その誠を責めざるゆゑ也。せめず心をこらさざる者、誠の変化を知るといふ事なし。ただ人にあやかりて行くのみ也。せむるものはその地に足をすゑがたく、一歩自然に進む理也。行く末いく千変万化するとも、誠の変化はみな師の俳諧也。かりにも古人の涎(よだれ)をなむる事なかれ。四時(しいし。春夏秋冬)の押しうつるごとく、物あらたまる。皆かくのごとしともいへり。師末期の枕に、門人この後の風雅を問ふ。師のいはく「此みちの、我に出でて百変百化す。しかれども、その境、真、草、行の三つをはなれず。その三つが中にいまだ一二をも尽くさず」と也。生前、をりをりの戯れに、「俳諧いまだ俵口を解かず」ともいひ出でられし事度々也。

「不易流行」を具体的に示した撰集「猿蓑」(去来・凡兆編、芭蕉監修)は、元禄4年(1691年)7月3日に京都の井筒屋から出版され、門人の許六は「宇陀法師」の中でこれを「俳諧の古今集也」と表し、支考は「発願文」の中で「猿蓑集に至りて花実を備ふ」と絶賛した。

 




 

 

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4.第三次芭蕉庵で過ごした二十四ヶ月

出発して32日後の元禄4年(1691年)10月29日、芭蕉は江戸に帰着した。「おくのほそ道」の旅を前にして第二次芭蕉庵を人手に譲ったため一時居所不定となったが、すぐに日本橋橘町の彦右衛門の借家に住まいを定めた。
江戸において芭蕉を経済的に庇護していた杉風は、第二次芭蕉庵の再入手に努めていたが資金的な問題から実現できなかった。

しかし、元禄5年(1692年)4月になって、杉風と枳風の出資、曽良と岱水の設計により第三次芭蕉庵の建築工事がはじめられ、同年5月中旬、第二次芭蕉庵の付近に新庵が完成した。芭蕉は、元禄7年(1694年)5月11日に江戸を出立するまで、以後二十四ヶ月にわたってこの庵に居住した。この間における芭蕉周辺の出来事を表すと次のようになる。

  




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元禄5年
(1692年)
 49歳
5月 第三次芭蕉庵完成。日本橋橘町から深川へ。
8月 芭蕉を移す詞」所収の「芭蕉庵三ケ月日記」成る。
素龍、初来庵。
元禄6年
(1693年)
 50歳
3月 甥の桃印、芭蕉庵で逝去。
4月 江戸詰彦根藩士森川許六への「許六離別の詞」を書く。
5月 「許六を送る詞」を書く。
7月 8月にかけての約1ヶ月間、庵にこもり面会を絶つ。この間、「閉関之説」を書く。
元禄7年
(1694年)
 51歳
1月 猿雖宛書簡で、今春帰郷する意向を伝える。
4月 乙州宛書簡で、持病快復次第帰郷する意向を伝える。
おくのほそ道」素龍清書本(芭蕉所持本)成る。芭蕉、これに自筆の題簽を付し自らの所持本とする。
5月 子珊亭の別座敷で芭蕉餞別句会。芭蕉の他、子珊、杉風、桃隣、八桑を連衆とする五吟歌仙あり。
杉風に「軽み」の理念を説く。
帰郷のため寿貞の子二郎兵衛を伴い江戸を発つ。曽良、箱根まで同行する。伊賀上野着は28日。

5月
湖南へ。膳所から京都・落柿舎へ。
子珊編(杉風、桃隣協力)の芭蕉帰郷餞別集「別座舗」成る。
6月 杉風から書簡と「別座舗」届く。
野坡(やば)・利牛・孤屋編「炭俵」成る。
 



 

 

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5.寿貞の死と「続猿蓑」の完成

元禄7年(1694年)5月28日、芭蕉は二郎兵衛とともに伊賀上野に到着し、閏5月16日まで滞在する。その後、大津、膳所、落柿舎と旅する中、寿貞が(6月2日ごろ)深川芭蕉庵で逝去したことを松村猪兵衛の書簡で知らされる。京都滞在中の6月8日のことだった。芭蕉は寿貞の死を悲しみ、猪兵衛に書いた書簡の中で次のように心情を吐露している。寿貞は、芭蕉の青年時代の愛人といわれ、芭蕉が藤堂家に仕えていたころ既に関係が結ばれていたとの説もある。

寿貞無仕合もの、まさ・おふう(寿貞の子)同じく不仕合、とかく申し尽しがたく候。(中略) 何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理くつは之なく候。

6月末、芭蕉は杉風宛書簡で、「軽み」の句集「別座舗」が上方で賞賛されていることを次のように書き、新風「軽み」が享受されたことへの喜びを伝えた。

『別座舗』、門人残らず驚き、もはや手帳にあぐみ(取るに足らない手帳俳諧に辟易し)候折節、此の如くあるべき時節なりと大手を打って感心致し候。

「軽み」の概念は、芭蕉から直伝を受けた杉風の麋塒(びじ)宛書簡から読み取ることができる。

段々句の姿重く、理にはまり、六ヶ敷(むつがしき)句の、道理入りほがに罷りなり候へば、皆只今までの句体打ち捨て、軽くやすらかに、不断の言葉ばかりにて致すべし。


芭蕉は、6月中旬から7月の初めまで、膳所・無名庵を本拠地にして湖南で過ごし、その後、京都桃花坊の去来宅に逗留した。7月中旬、伊賀上野に帰郷後「続猿蓑」撰に従事し、9月3日には伊勢から来訪した支考も最後の仕上げに加わり、9月8日の離郷までに編集を完了した。「続猿蓑」は同年6月刊行の「炭俵」とともに「軽み」を具現化した撰集として知られ、芭蕉没後の元禄11年(1698年)に井筒屋から刊行されている。

 




 

 

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6.最後の旅

「続猿蓑」を遂げた芭蕉は、元禄7年(1694年)9月8日、支考や江戸から戻っていた二郎兵衛とともに、大坂(大阪)に向けて伊賀上野を旅立った。旅の目的は、反目し合う大坂の門人、之道と酒堂の仲を取り持つことにあった。出発当日の8日は奈良に一泊し、翌日大坂に到着した。10日になって芭蕉は大坂の酒堂亭(のちに之道亭に移る)で杉風と去来に書簡を書いている。

拙者、まづは無事に長の夏を暮し、やうやう秋立ち候て、頃日、夜寒むのころに移り候。いかにも秋冬のあひだつつがなく暮し申すべきやうに覚え候あひだ、少しも御気遣ひなさるまじく候。おつつけ参宮心がけ候ゆゑ、まづ大坂へ向け出で申すべく、去る八日に伊賀を出で候て、重陽の日南都を立ち、すなはちその暮れ大坂へ至り候て、酒堂かたに旅宿、仮に足をとどめ候。名月は伊賀にて見申し候。(杉風宛書簡。抜粋)

 




 

 

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7.芭蕉の最期

門弟に2通の書簡を書いた9月10日の晩、芭蕉は悪寒・頭痛に襲われ、この日から10日間ほど同じ症状を繰り返した。薬の甲斐あってか、20日ごろになり悪寒・頭痛は治まったものの、その後も持病のために「いまだ気分もすぐれず、・・・発句もしかじか得つかまつらず候」(下記書簡)といった状況が続いた。

○23日に書かれた兄の半左衛門宛書簡の一部
大坂へ参り候て、十日の晩より震ひ付き申し、毎晩七つ時(午後4時ごろ)より夜五つ(午後8時ごろ)まで、寒気・熱・頭痛参り候て、もしは瘧(おこり。隔日または一定時間に発熱する病)に成り申すべきかと薬食べ候へば、二十日ごろより、すきと止み申し候。


○23日に書かれた猿雖・土芳連名宛書簡の一部
拙者、そこもと生壁(なまかべ。発疹)さし出で候ところ、参着以後、毎晩震ひ付き申し候て、やうやう頃日、つねの通りに罷りなり候。(中略) 委細に御報申したく候へども、いまだ気分もすぐれず、なにかと取り紛れ候あひだ、伊勢より便次第に、細翰を以て申し上ぐべく候。右の気分ゆゑ、発句もしかじか得つかまつらず候。


○25日に書かれた曲水<翠>宛書簡の一部
おもしろからぬ旅寝の体、無益の歩行、悔み申すばかりに御座候。まづ伊州(伊賀国)にて山気に当り、到着の明くる日より寒気・熱、晩々におそひ、やうやう頃日、常の持病ばかりに罷り成り候。ここもと、おつつけ発足つかまつるべく候。もしは貴境へめぐり申すべくやと、支考なども勧め候へども、まづ大寒いたらざる内に伊勢まで参り候て、その後の勝手につかまつるべく候。


芭蕉は病を押して9月26日から28日まで3日連続して俳席に連座したが、「秋深き隣は何をする人ぞ」(28日吟)を発句として芝柏亭俳諧が行われることになっていた29日の夜、下痢のために床に臥し、この日を境に次第に容態が悪化していった。

10月に入ると病状はいよいよ差し迫り、芭蕉は之道亭から花屋仁左衛門の貸座敷に移され、膳所、大津、伊勢などの門人に急が告げられた。8日の夜更け、病中吟「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を示すなどの気力も見せたが、翌々日の10日になって、暮方から様態が急変した。死に際を悟った芭蕉は、同日、兄半左衛門宛に自らの手で遺書を認めた後、門人たちへの遺書を支考に代筆させた。

10月11日、朝から食を断って不浄を清めていた芭蕉のもとへ、上方の旅先から其角が駆けつけた。その夜、芭蕉は永久の別れを直ぐにして門弟たちの夜伽の句を耳に残し、翌12日申の刻(午後4時ごろ)、51歳でその生涯を閉じた。同日夜、芭蕉の遺言通り義仲寺に葬るため、去来・基角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・二郎兵衛の十人が、遺骸とともに淀川をさかのぼった。

 




 

 

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墓所義仲寺
  
1.芭蕉の葬儀

元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉の遺骸を乗せた舟は夜のうちに伏見まで下り、翌13日の朝、伏見を立って昼過ぎ膳所の義仲寺へ到着した。14日に葬儀が行われ、同日深夜になって境内に埋葬された。葬儀に参列した門人は80名、会葬者は300余名にのぼった。芭蕉の忌日は「時雨忌」などと呼ばれ、旧暦の気節に合わせ毎年11月の第二土曜日に法要が営まれている。

芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺に葬られた経緯は、生前芭蕉が死後木曽殿と塚をならべてと語ったことによるもので、芭蕉は源義経や義仲、斎藤別当実盛といった悲劇伝を残した武人や藤原実方などにとりわけ思いを寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れて句を残し、義仲については寿永2年(1183年)4月に平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め、次の句を詠んでいる。

義仲の寝覚めの山か月悲し
(「荊口句帳」所収「月一夜十五句」のうちの一句)

 




 

 

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2.義仲寺について

「木曽義仲御墓所」として知られる義仲寺は、木彫りの聖観世音菩薩を本尊とする寺で、開山は室町末期といわれ朝日山義仲寺と号する。義仲寺本堂を朝日堂と称し、本堂には義仲とその子義高の木像を厨子に納め、義仲や芭蕉など、31柱の位牌が安置されている。

義仲寺が建つあたりはその昔粟津ヶ原と呼ばれ、琵琶湖に面する景勝地であった。寿永3年(1184年)、義仲討伐を目指す源範頼・義経の軍勢におされ、宇治から北へ逃れる途中、義仲は31歳の命をこの地で果てている。

義仲の亡骸は当地に葬られたが、寺伝によれば義仲の側室巴御前が無名の尼僧となって墓所の辺に草庵を結び供養を続けたといわれ、死後、草庵は「無名庵(むみょうあん)」と命名されたという。その「無名庵」は、「木曽塚」、「木曽寺」、「義仲寺」とも称され、現在に至っている。
義仲寺の境内には次の3つの芭蕉句碑が建っている他、又玄(ゆうげん)の「木曽殿と背中合せの寒さかな」など、全19の句碑が俳諧碑林を織り成している。
  




 

 

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3.戦前と現在の義仲寺の資料写真と解説

No. 戦前の写真 現在の写真 解  説
義仲寺境内。山門をくぐってやや行ったところから南向きに撮影。写真中央に<2>の義仲の墓(木曽塚)が建つ。奥の茅葺きの建物は<3>の「翁堂」。[戦前]の写真には義仲の墓の手前に芭蕉が1本見られるが今はない。写真の右手に義仲寺本堂の朝日堂が建つ。
【関連写真】 朝日堂。   義仲、義高親子の木像が納められている。
義仲の墓。寿永3年(1184年)、義仲討伐を画した源範頼・義経の軍勢におされて宇治から北へ逃れる途中、義仲は31歳の若さで当地で討たれた。小高く盛られた土壇の上に「宝きょう印塔」が据えられている。義仲の忌日「義仲忌」は毎年1月の第3日曜日に営まれる。義仲の墓のやや北側に巴御前の墓がある。
【関連写真】 巴御前の墓 A B<表示される写真の左下>
翁堂。境内の南詰付近に建つ。正面祭壇に芭蕉座像と、左右に去来、蝶夢法師の像が安置されている。翁堂からやや奥の東側に義仲寺の鎮守木曽八幡神社があり、西側に曲水(翠)の墓がある。
【関連写真】 芭蕉座像。 木曽八幡神社。 曲水の墓
芭蕉の墓。芭蕉は、元禄7年(1694年)10月12日午前4時ごろ逝去し、14日の深夜、芭蕉の遺言通り義仲の墓の隣に埋葬された。葬儀に参列した門人は80名、会葬者は300余名にのぼった。芭蕉の忌日は「時雨忌」などと呼ばれ、旧暦の気節に合わせ毎年11月の第二土曜日に法要が営まれている。墓石の「芭蕉翁」の文字は門人の内藤丈草の筆といわれる。
【関連写真】 別の墓の写真。 粟津文庫の前に育つ芭蕉。 二百年・三百年忌碑
粟津文庫。寛政3年(1791年)に蝶夢法師が創設した文庫で、蝶夢(五升庵)は、芭蕉の研究と顕彰に生涯をささげた京の俳人で、粟津文庫創設の際、蕉門俳書60部を寄贈した。「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」でその一部を掲載している「芭蕉翁絵詞伝」(粟津文庫蔵)は蝶夢が芭蕉百回忌に芭蕉伝記をまとめ、狩野常信に絵を描かせ義仲寺に奉納したもの。
【関連資料】 義仲寺・粟津文庫所蔵の「芭蕉翁絵詞伝」挿絵
無名庵。寺伝によれば義仲の側室巴御前が無名の尼僧となって義仲の墓所の辺に草庵を結び供養を続けたといわれ、死後、草庵は「無名庵(むみょうあん)」と命名されたという。その「無名庵」は、「木曽塚」、「木曽寺」、「義仲寺」とも称され、現在に至っている。芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えた後、度々無名庵を訪れ、逗留している。

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参 考 文 献

今 栄蔵著「芭蕉年譜大成」
角川出版
平成6年6月10日発行(初版)
 

 
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第一次芭蕉庵から第三次芭蕉庵まで

 

  
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