山寺・立石寺めぐり

立石寺について | 立谷川と対面石 | 根本中堂 | 清和天皇の宝塔と日枝神社
芭蕉句碑と芭蕉・曽良像/芭蕉一行の宿泊先
念仏堂 | 山 門 | 姥堂と笠岩 | 四寸道 | 蝉塚と茶店周辺 | 弥陀洞と仁王門山上の院々
開山堂周辺 | 胎内くぐりと胎内堂 | 三重小塔 | 奥の院と大仏殿 | 立石寺本坊
  

立石寺について


山寺の山容

立谷川

山寺登山口

根本中堂

清和天皇宝塔

山寺の別称をもつ立石寺(りっしゃくじ)は、正式には宝珠山阿所川院立石寺といい、山形市の東北部に位置している。第56代清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が開山し、その年代について「円仁置文」、「円仁注進状」は貞観2年(860年)と伝えている。

立石寺は、開山後すぐに三百八十町の寺領を免租地として下賜され、慶長・元和(1596〜1624)期は二千四百二十石の寺領に及ぶなど朝廷の手厚い保護を受けて長期の歴史を刻み、徳川三代将軍家光の代に千四百二十石の御朱印地となった。

立石寺の歴史を支えた人物としては、戦乱期に衰退した立石寺に根本中堂を再建した山形初代城主斯波兼頼のほか、天童頼長に破壊された諸堂を慶長年間(1596〜1615年)に修築した立石寺第三十八世円海和尚、諸堂の修理再建に努めた五十三世寛雄和尚、私財千八百両余を投じて参道や諸堂を修改築した六十五世情田和尚などが挙げられる。

天台の教学道場として開かれた立石寺は、古来より「奇岩怪石」の霊窟として広く知られ、凝灰岩の岩質やその肌を抉(えぐ)る多数の風化穴は幽境の聖域に情趣に満ちた音響効果をもたらし、中谷に響きわたる蝉の音は芭蕉をして「岩にしみ入(いる)」と言わしめた。

筆者は、かの滑り台があった幼少の頃から幾度となく山寺を訪れているが、四季折々の寺景に溶け入り、蘚苔滑らかな石階千級を踏み締めての山寺巡りは格別なものである。それでは35万坪を有する宝珠山立石寺の奥の院を目指し、宝珠橋から歩きはじめてみよう。  

立谷川と対面石

宝珠橋は、宝珠山の南麓を東西に流れる立谷川に架かる橋で、立谷川は、面白山の谷合から流れ出る紅葉川と二口峠からの立石川を宝珠橋の300mほど東で一つにし、自らの流れをこしらえている。昔、立谷川は阿所(あそ)川と呼ばれ、立石寺の院号「阿所川院」はこの川の名に由来する。

○紅葉川はかつて「楓(もみじ)川」と表記された。


宝珠橋のたもとに巨石「対面石」がある。これは、慈覚大師が立石寺を開山するにあたって、宝珠山を住処とする狩人磐司(ばんじ)と対面し寺院建立の了解を得たところと伝えられ、傍らにあった欅の木は、「山寺七木」の一つに数えられた。「山寺七木」は、この「対面石の欅」の他、「山王(日枝神社)の銀杏」、「南院の藤」、「三輪の老松」、「極楽院の椿」、「暖沢(あだかざわ)の千本桂」、「如法堂(奥の院)の飛梅」を指したが、現存するのは「山王の銀杏」と「暖沢の千本桂」のみである。

立谷川  宝珠橋  対面石  山王の銀杏樹    

根本中堂

対面石から大日堂を経て登山口に辿る。なだらかな石段を登った先に、貞観2年(860年)慈覚大師が創建した根本中堂がある。立石寺は一山の総称でその名の堂宇はなく、この根本中堂が立石寺の本堂且つ中心道場である。堂内には大師自作の薬師如来のほか伝教大師や文珠毘沙門の諸像が安置されている。

根本中堂は正平12年(1357年)出羽按察使斯波兼頼が再建し、慶長年間(1596〜1615年)に大修理が施された。明治41年(1908年)に特別保護建造物に指定され、現在は、国指定の重要文化財になっている。昭和38年(1963年)、再建から600余年ぶりに解体修理が行われ、建立当時のものに復元された。

根本中堂には、千年以上の昔から火を灯し続ける法燈がある。これは、天台宗宗祖伝教大師が中国の天台山国清寺から伝えたもので、慈覚大師は立石寺開山の際、比叡山からこの火を伝え、奥の院(如法堂)の常火、開山堂の常香、根本中堂の法燈の3つに分けた。

しかし、大永元年(1521年)、天童頼長により一山が焼かれたことから、円海和尚が比叡山より改めて火を貰い受け、また、その50年後の元亀2年(1571年)、織田信長によって比叡山が焼き払われたため、再興の折、逆に立石寺から延暦寺に分火されたという経緯もある。こうして「千年不滅」の法燈は今も山寺にあって火を灯し続けている。

大日堂  登山口  根本中堂  根本中堂の裏にある姫岩   

清和天皇の宝塔と日枝神社

根本中堂の傍らに清和天皇の宝塔がある。立石寺は清和天皇の勅願により開山され、三百八十町の寺領を免租地として下賜されるなど、手厚く保護されたことから、崩御の後、遺徳を慕って根本中堂の北西側の隅に宝塔を建てて供養した。盂蘭盆会においては一山衆徒が会して読経が行われる。

宝塔の左手前に鎮座する日枝神社は、慈覚大師が立石寺一山の守護神として比叡山延暦寺から山王権現、すなわち大山咋神(おおやまくいのかみ)を勧請して祭ったのに始まる。本社は元大宮山王権現と称す官幣大社であったが明治維新後に村社となった。現在は山形市山寺地区に属し、5月17日の例祭は、山形市の無形文化財に指定されている。

清和天皇の宝塔  日枝神社

   
芭蕉句碑と芭蕉・曽良の像
 


芭蕉句碑

芭蕉像

曽良像

芭蕉句碑

全 景
 
根本中堂の正面左側の石垣の上に、嘉永6年(1853年)に建立された松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句碑がある。その右側面に一具の「左羽に夕日うけつゝほととぎす」の句を刻み、左側面には二丘の「楽書は笹の葉にある清水かな」と川丈の「花咲かぬ草木より風薫りける」の句が刻まれている。

芭蕉句碑拡大

日枝神社の左隣に、立石寺の永々たる歴史を蔵する秘宝館があり、その向かい側に、昭和47年(1972年)建立の芭蕉像と「おくのほそ道」紀行300年を記念し平成元年(1989年)に建てられた曽良の像、「閑さや岩にしみ入蝉の声」を刻む芭蕉句碑がある。

芭蕉の像  曽良の像  芭蕉句碑拡大    

芭蕉一行の宿泊先

出羽越えを果した芭蕉一行は、当初、鈴木清風の里・尾花沢から直接大石田に旅立つ予定であったが、逗留中、山寺の参詣を強く勧められ、元禄2年(1689年)5月27日(新暦7月13日)羽州街道を南下した。

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
閑さや岩にしみ入蝉の声
  (おくのほそ道)

廿七日 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル。
(曽良随行日記)


山寺立石寺に到着後、一行は、当日の宿「預り坊」で旅荷を下ろし山内巡礼に出向いた。この「預り坊」については、「・・・庄屋村松伊助殿江宿預り坊を以申所二候得共・・・」を記す宝永二年(1705年)の「山寺立石寺古記録文書」などを典拠に、芭蕉の頃この号の宿坊が存在したことが説かれるが、立石寺側の見解は「不明」であり、積極的な説明はしていない。

これに対し日枝神社は、境内にある「手水盤」の説明板の中で「俳聖芭蕉と曽良が元禄二年五月二十七日(新七月十三日)未の下刻山寺に着き参詣し、麓の坊(預里)へ宿泊する。この手水盤は、その十年後元禄十二年四月十九日、今から二百九十年前に山王権現日枝神社に寄進されたもので『預里』を筆頭に寄進者の名が刻まれている。『預里』は麓の坊であり宿坊なのである。平成元年七月十三日 日枝神社」と説明している。

日枝神社の手水盤

また、次のように、「預り坊」を普通名詞として捉える、すなわち、「預り坊」を「(山内で宿などを)預かり(提供する)坊」として捉える方法もある。

立石寺第六十七世芳田和尚を兄弟にし、山寺尋常高等小学校の初代校長を務められた故伊澤不忍氏は著作「山寺百話」の中で、「何という宿預かり坊なのか」という問いかけをした後に、芭蕉の頃、登山口に「信敬坊」、「徳善坊」という2つの宿坊があったことを述し、城主が参詣の際に利用するほどの宿坊だったことなどを根拠に、「徳善坊」を芭蕉止宿の「預り坊」と推定されている。    

念仏堂

秘宝館を過ぎた先に念仏堂がある。念仏堂は、慈覚大師が入唐の際、五台山竹林院で授かった念仏三昧の法を修めた道場で、宝冠をつけた大師作の阿弥陀如来像が本尊となっている。

念仏堂には、徳川将軍家の霊碑、山形二十四万石鳥井左京亮や同十五万石源直基などの位牌が安置されている。「常行念仏堂」の扁額は、東叡山第五世兼立石寺第五十一世公弁法親王の書による。御堂は、もと根本中堂の東にあったが、元禄4年(1691年)に現在地に移された。

秘宝館  念仏堂   

山 門

「除夜の鐘」で知られる鐘楼堂を右に見て石段を登ると、左側に「山寺宝珠山立石寺」と彫られた2mを越す石柱があり、その先に、鎌倉時代末期の建立と伝えられ、「開北霊窟」の扁額を掲ぐ山門がある。立石寺は、創建以来、度々火難に遭ったが、根本中堂と山門だけはそのままに残され現在に至っている。

山門に立つと思い出すことがある。筆者が小学生の頃、山寺には五大堂から西谷の方へ30mほど行ったあたりを起点とする滑り台があった。幅1m、長さ300m程の滑り台は百丈岩と天華岩の間を通り抜け、終点がこの山門の上の笠岩付近だった。今、喚声をあげながら長蛇の遊具に興じた記憶が蘇るが、廃止されて既に30年近くにもなる。

鐘楼  山門   

姥堂と笠岩

山門からやや登ったところに間口2.7m、奥行1.8mの姥堂がある。十王経に書かれた鬼婆で、三途の川のほとりにいて亡者の着物を奪い取るという奪衣婆(だつえば)の像と地蔵尊が並んで祭られている。姥堂は、これを境にした極楽(上方)と地獄(下方)との分かれ目とされ、極楽浄土への入口と説かれている。

姥堂の向かい側に、形が笠に似ていることから笠岩、笠投岩と呼ばれる巨岩が鎮座する。慈覚大師が岩陰で雨宿りしたという伝説の岩石である。

姥堂  地蔵尊と奪衣婆の像  石清水  笠岩    

四寸道

2つの大きな岩石が登山道の両側から迫り出し、道幅を極端に狭くしているところがある。これが四寸道(四寸は約12cm)で、親が踏んだ箇所を子孫も踏むことになることから親子道、子孫道の言い方もある。道を狭くしている岩石は昔のままで、四寸道は慈覚大師以来、千百年以上の時を刻んでいる。

四寸道

    
蝉塚と茶店周辺
 


百丈岩

御休石

蝉塚全景

蝉塚・芭蕉碑

芭蕉顕彰碑

四寸道から更に登ると、慈覚大師が登山の途中に休んだと伝えられる「御休石」があって、その向かい側に山形名物「玉こんにゃく」や「ところてん」を賞味できる茶店がある。

芭蕉の蝉塚は茶店の山側にあり、背後に五大堂や納経堂、開山堂をいただく百丈岩の絶壁がそそり立っている。茶店の奥から右手に回ったところに、銅板に「おくのほそ道」の山寺の章段を刻する巨石「芭蕉顕彰碑」もある。

蝉塚は、俳人壷中(こちゅう)を中心とする俳諧仲間が、宝暦元年(1751年)、芭蕉が書いた短冊を埋めて石碑を建てたところで、碑表に「芭蕉翁」の三文字、側面に「さや岩にしミ入蝉の声」の句が刻まれている。

「おくのほそ道」中の「さや岩にしみ入蝉の声」の初案にあたる句が、曽良の「俳諧書留」(山寺や石にしミつく蝉の聲)や風国撰の「初蝉」・「泊船集」(さびしさや岩にしみ込蝉の声)に見られるが、「」の文字使用については、蝉塚の石碑に刻する句が唯一のものである。

蝉塚は当初山門の傍らに築かれたが、後年、句意に鑑みて現在地に移された。  

弥陀洞と仁王門

蝉塚から更に行くと、道の右側に直立した巨岩が見えてくる。長い歳月にわたる自然の営みが岩を風化させ、阿弥陀如来を彷彿させる姿にした謂れから「弥陀洞」の名があり、岩の高さから「丈六(一丈六尺。約4.8m)の阿弥陀如来」とも呼ばれる。その先に奥の院の山門・仁王門があり、弥陀洞から仁王門を眺める光景は、立石寺一山の中で格別に美しい風景の一つとされ、紅葉の季節になると仁王門周辺のもみじがその度合を一層強め、更なる絶景を醸し出す。

昔は、仁王門のところに十王堂が建てられていたが、嘉永年間(1848〜1854年)になって、立石寺第六十五世情田和尚が現在の仁王門を建立した。左右に安置されている仁王像は運慶第十三代の後裔平井源七郎の作と伝えられ、傍らに高さ45cmの十王尊を祭っている。

弥陀洞から仁王門を見る   仁王門    

山上の院々

現在立石寺の山上に5つの寺が建つが、享保7年(1722年)の松本一笑軒著「山寺状」から、当時の院数が17で、構え方が次のようであったことが知られる。

中谷・血の池付近に3院
中谷・登山道の東側に観明院、性相院、金乗院、中性院など7院
西側に華蔵院など6院
西谷に1院
 

写真 寺 名 位 置 解 説
観明院 中谷・東 本尊として阿弥陀如来を安置。昔は、立石寺の卒塔婆書写場に使用された。現在は無住。
性相院 中谷・東 本尊として慈覚大師が自ら彫った丈30cm余りの阿弥陀如来を安置するほか、運慶作の毘沙門天を安置。仙台藩祖伊達政宗の生母の日牌(にっぱい。位牌を安置して供養)所。明治維新後に、極楽院と澤之院を合併吸収。
金乗院 中谷・東 本尊として延命地蔵菩薩を安置。他に、千体地蔵や不動明王を安置。寺は天保11年(1840年)、澄明旭海により再建。平泉藤原三代秀衡の日牌所。
中性院 中谷・東 本尊として阿弥陀如来を安置。背後の岩窟に新庄藩戸沢候代々の墓碑がある。明治維新後に、不動院、中之院、観明院を合併吸収。ただし、観明院は檀家のみを合併。
華蔵院 中谷・西 本尊として慈覚大師が自ら彫った観世音菩薩を安置。慈覚大師が開山の時、この寺を住居にしたと伝えられる。本院からの眺めは格別で、付近に、大正天皇が皇太子のころに眺望した東宮記念殿がある。

   
開山堂周辺
 


帝釈天堂

納経堂と開山堂

納経堂と開山堂

五大堂

磐司祠(左上)

性相院、またはその上方の金乗院から左に折れて崖道を行くと、道端に帝釈天堂、突き当たりに開山堂があり、その左側に納経堂がある。また、開山堂の右脇から岩間を行ったところに五大堂、そこからやや西谷に歩いたところに磐司祠がある。

帝釈天堂

帝釈天堂は四面が2.1mの小堂で、慈覚大師の創建と伝えられる。天保4年(1833年)に立石寺第六十四世慈舜和尚が再建した。雷除けとして有名である。

開山堂

開山堂は、慈覚大師の廟所で、立石寺第六十五世情田和尚が嘉永4年(1851年)に再建した。堂内には、大師の座像が安置され、また、千百年以上にわたって香煙をゆらし続ける不滅の「常香」がある。

納経堂

百丈岩の絶壁の頂に建つ納経堂は、立石寺一山の衆徒が奥の院(加法堂)で書写した経文を安置するところで、慶長4年(1599年)7月、山形城主最上義光の祈念により、その家臣菱和田讃岐守が修造した。開山当初の創建だが、再建がいつかは不明という。

五大堂

正徳4年(1714年)に再建された舞台造りの御堂で、大聖不動明王、東降三世明王など五大明王を安置している。五大堂からの景観は山寺随一とされる。

五大堂からの景観
(山寺芭蕉記念館が写真の右に見える)

入定窟

開山堂の背後の崖下に、慈覚大師の遺骸を納めた入定窟(にゅうじょうくつ)がある。昭和23年(1948年)から24年にかけてその調査が行われ、窟の入口が四重の板扉で塞がれ、中はやや方形で奥行が五尺五寸(165cm)であることが分かった。慈覚大師のものと推定された遺骸は金棺に納められていたが頭蓋骨を伴わず、代わりに木彫りの頭像が安置されていた。頭像の制作年代は平安初期と判断されている。

磐司祠と山寺シシ踊り

五大堂から西谷へ10mほど行った右手に、磐司の位牌を安置する「磐司祠」がある。その昔、宝珠山を一大霊場にすることを念願した慈覚大師が、当山を住処にする猟師磐司にその旨を話すと、快諾した上に、殺生を絶って自ら宝珠山を駆け巡り、大師の立石寺開山を助けたと伝えられている。

伝説によれば、こうして殺生禁断となった宝珠山を森の獣たちが大いに喜び、慈覚大師に謝意を述べたところ、礼なら磐司にすべきと諭された。そこで獣たちは、「地主権現」として崇められることとなった磐司のところに赴いて、感謝の踊りを披露したという。8月7日の祭礼日に山内で行われる「山寺シシ踊り」は、この伝承に基づくものとされ、まず磐司の祠の前で舞を奉納し、その後に慈覚大師の霊廟・開山堂で踊るのが習わしとなっている。

因みに、磐司に感謝して踊った獣が猪だったと伝えられることから、「山寺シシ踊り」は、全国的に見られる獅子や鹿ではなく、猪であることが特徴と言われる。この踊りは、現在も山寺高瀬地区や東根市長瀞、天童市高擶などに伝えられ、地区ごとに舞の奉納が行われている。

磐司祠

磐司祠から西谷へ更に行くと平に開けたところがある。以前は当地から天狗岩まで歩き、鎖を伝って巨岩の頂に辿ることができたが、今は禁止になりスリリングでダイナミックな眺望は昔語りとなってしまった。

磐司祠から西谷の方を見る   


胎内くぐりと胎内堂

金乗院の前庭から山側を眺めると、深い谷の上に鉄製の橋が架かっていて、その先に岩穴がある。ここが「胎内くぐり」と言われるところで、かつては、穴を数メートル這って胎内堂に出ることができ、岩穴の右側にあった10段ほどの階段を登って胎内堂に辿ることもできた。

金乗院の上方に山頂売店があって、ここから山側に歩いて行くと、平地があり、正面の岩壁基部に一間四方の準提堂(左)と六観音堂(右)が建つところがある。ここが、胎内堂から地獄谷、釈迦堂を巡り帰着する地点だったところで、六観音堂の右方向にある小道が、巡礼に使用された登山道である。

胎内くぐりの手前に架かる橋と胎内堂   胎内堂(上方に六地蔵を祭る岩窟がある)
準提堂六観音堂   釈迦堂    

三重小塔

参道に戻り、更に石段を登ると中性院が建ち、その正面に銀杏の古木がある。そこから階段を上って西に歩くと、華蔵院の手前に岩窟の中にすっぽりと納められた三重小塔がある。塔銘により、十穀静允の作で静運が寄進、建立が永正16年(1519年)6月であることが知られる。この塔は、相輪頂までの高さが2.4m余りという全国で最も小さいもので、昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定された。

三重小塔   拡大    

奥の院(如法堂)と大仏殿

千年以上昔からの「常火」が灯る「奥の院」は、正式には「如法堂」で、慈覚大師が国々を巡行の際に持ち歩いたという釈迦牟尼仏と多宝如来を本尊として安置している。堂は、明治4年(1871年)に火災にあったが、翌年、立石寺第六十六世優田和尚が再建した。

奥の院では、千年以上使っても擦り減らないという硬い石墨と草で作った筆(総じて「石墨草筆」という)を使用して毎日7行半ずつ経文を書写し、4年の歳月を掛けて全文を写し終え、閏年の11月28日にこれを納経堂に納めている。

奥の院の左の大仏殿には、丈5mの金色の阿弥陀如来像が安置されている。

奥の院(如法堂)   大仏殿   一切経蔵   鐘楼   全景(右端に「金灯篭」が見える)    

立石寺本坊

奥の院から870ほどの石段を踏んで下山し、山門近くの寺務所から右に行くと抜苦門があり、その先に羅漢像、背後に巨大な蛙岩がある。その脇に構える大きな建物が立石寺中枢の本坊で、立石寺一山の維持管理や宗教行事はすべてこの本坊で行われる。

本坊の前庭から更に西へ行き、神楽岩から坂を下ったところが山寺・立石寺の下山口である。

抜苦門   羅漢像と蛙岩   蛙岩   本坊   神楽岩

 


【参考文献】 

宝珠山立石寺編 「名勝史跡山寺」


伊澤不忍原著・伊澤貞一編集 「山寺百話」「続山寺百話」


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第1集 芭 蕉 と 山 寺
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