中尊寺について
 
中尊寺金色堂(覆堂)
中尊寺金色堂(覆堂)。金色堂は、天治元年(1124年)奥州藤原氏・初代清衡により造営された中尊寺創建当初の唯一の遺構。須弥壇に藤原三代の遺骸が納められている。
 
芭蕉句碑 金色堂の脇に建つ芭蕉の「五月雨の降のこしてや光堂(あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか)」の句碑。
芭蕉が中尊寺を訪れた57年後の延享3年(1746年)10月に建てられた。取材の前日に降った雪が都合よく碑文の窪みに入り込み、拓本仕立ての写真をとることができた。碑文の拡大写真

経蔵
金色堂の西北に建つ経蔵。建武4年(1337年)の火災で2階部分が焼け、1階部分を修復して現在に至っている。

芭蕉像 「おくのほそ道」は、医王寺や鹽竈神社の章段で、家臣を通して語られた義経追懐の情念や、岩沼や多賀城でつづられた古きものへの感動の陳述が、この平泉の地で、高館と金色堂を舞台にして締めくくられ、最大の山場を迎える。 芭蕉像の拡大写真

旧覆堂
金色堂旧覆堂。新覆堂建設の際、現在地に移築された。「金色堂建立から164年後の正応元年(1288年)に、鎌倉幕府が風雪から護る為に建造した」と説明されるが、解体調査の結果、「建築様式から判断して旧覆堂は建造年代を鎌倉時代までさかのぼることができない」とされている。

寺伝によれば、中尊寺は嘉祥3年(850年)に慈覚大師が開基した天台宗の寺院で、建立時は関山弘台寿院と号したが、貞観元年(859年)に中尊寺と改めたという。
江刺郡の豊田館から平泉に移った奥州藤原氏・初代清衡は、この基盤の上に長治2年(1105年)、前九年・後三年の戦いで亡くなった人々の霊をなぐさめ、仏国土を建設するため中尊寺一山の造営に着手した。
  
鎌倉幕府が編纂した公式の歴史書である「吾妻鏡」の文治5年(1189年)、すなわち義経が没し、藤原氏が滅んだこの年の9月17日の条には、当時の中尊寺の規模が「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇也」と書かれ、また、平泉中心の体制づくりが仏教を基盤にして行われたことが、次のような内容で記されている。
白河ノ関(福島県白河市)ヨリ外ヶ浜(青森県青森市)ニ至ル廿余ヶ日ノ行程ナリ。其路一町(約109m)別ニ笠率都婆(仏の供養のために立てた細長い木の板)ヲ立テ、其面ニ金色阿弥陀像ヲ図絵シ、当国(平泉)ニ中心ヲ計リ、(中尊寺・関山)山頂上ニ一基塔ヲ立ツ。又寺院中央ニ多宝塔アリ。釈迦多宝像ヲ左右ニ安置ス。其中間ニ関路ヲ開キ、旅人往還ノ道トナス。
  
隆盛を極めた中尊寺も、藤原氏が滅亡した後はすっかり衰え、さらには、建武4年(1337年)の火災で山内のほとんどが焼け、金色堂と経蔵の一部を残すのみとなったが、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っている。
  
中尊寺には、金色堂をはじめ数多くの国宝や重要文化財などが所蔵され、東日本随一の平安美術の宝庫となっている。
光堂とも称される金色堂は中尊寺創建当初の唯一の遺構で、堂の内外ともに厚く黒漆が塗られ、その上に一面金箔が押されている。
明治30年(1897年)の修理の際に棟木の墨書銘が発見され、天治元年(1124年)に落成したことが明らかになった。
  
金色堂の中央の須弥壇には、初代清衡の遺骸、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の遺骸が安置されており、秀衡の遺骸の傍らに、子泰衡の首級が納められている。
    

戦前の絵葉書に見る金色堂(覆堂)


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第3集 芭 蕉 と 平 泉
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