芭蕉の平泉の旅を検証する
おくのほそ道文学館収蔵

一関から平泉へ  曽良の日記にも書かれなかった毛越寺

芭蕉の旅について検証し道筋を推定する

伽羅御所跡  柳之御所跡  無量光院跡  高館  衣の関  中尊寺  金色堂
経蔵  白山神社  泉ヶ城

紅葉の平泉写真集・毛越寺  紅葉の平泉写真集・中尊寺

一関から平泉へ


一関駅

磐井川

宿泊跡地

八坂神社

平泉駅

元禄2年(1689年)5月12日(新暦6月28日)、芭蕉と曽良は雨中一関に到着。その夜、磐井橋付近の民家に宿泊した。

翌朝天気は一転し、陽光の下、平泉に向けて出立した。前日の豪雨で川幅を広くする磐井川の橋を渡ったのは、巳の刻、午前10時頃であった。磐井川は栗駒山を源流とする延長51km余りの一級河川で、磐井橋からおよそ3.5km東で北上川に合流する。磐井橋から3kmほど上流域の萩荘や赤萩付近は前九年の役の決戦場となったところで、このとき磐井川に赤い水が流れたという。

芭蕉一行は磐井橋を渡って奥州街道をほぼ真北に進み、4km近く歩いたところで宿駅・山の目に至った。山の目から平泉までは6kmばかり道を残すが、その途中に「祇園」という名の地区がある。これは、むかし京都・八坂神社の分霊社である八坂神社(祇園社)を建て、京都・祇園をなぞった町がつくられたことに由来する地名で、中尊寺造営の際、京都から迎い入れた知識人や文化人、工人などをもてなすために奥州藤原氏が築いた京風・平泉の名残である。

      
曽良の日記にも書かれなかった毛越寺
  

祇園から更に北へ街道を進むと、太田川を越えて間もないところに西方へ延びる道があり、この先1kmほどのところに、12世紀の中頃、藤原基衡が中尊寺を遥かに凌ぐ規模で築き上げたといわれる毛越寺がある。

今は山門や本堂などが再建され、特別史跡と特別名勝の二重に国指定されているが、芭蕉が平泉を訪れたころはすべての堂塔が焼失し、大泉が池は草原の中に姿を隠すなど、寺は荒れ放題となり、残すは南大門や嘉
祥寺などの礎石だけという有様だった。

芭蕉は、事前調査や宿泊先でこうした様子を知り得たために毛越寺を通り過ぎ、曽良も日記に綴らなかったということになるのだろうが、街道から10分もあれば行き着けるこの寺院跡に、本当に足を踏み入れなかったのだろうか。曽良は、達谷の窟については「タツコクガ岩ヤヘ不行」と、行かなかったことをわざわざ日記に書いているのに、毛越寺については一言も触れていない。

「おくのほそ道」の中で書かれた「大門」がどこを指しているかについては諸説あるが、中尊寺・毛越寺発行の書籍「平泉」では次のように説明している。

南大門跡は東西三間南北二間の、十二個の礎石が整然と原位置に並んでいる。「吾妻鏡」(鎌倉幕府が編纂した公式の歴史書)に「二階惣門」といい、芭蕉が「奥の細道」のなかで「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有」と綴るのもこれを指す。

[見学] 山門 | 境内 | 大泉が池 | 芭蕉句碑 | 芭蕉英文句碑  [参照] 復原図

      
芭蕉の旅について検証し道筋を推定する
  

奥州街道と毛越寺へ通じる道
「平泉」(平成3年、中尊寺・毛越寺発行)に掲載の地図(10000分の1)を使用。
奥州街道と毛越寺へ通じる道が交差するところ(左図)をスタート地点として、芭蕉が名句を詠み遺した平泉の旅をたどってみることにする。
 
曽良の日記に書かれた旧跡などが、実際に足を運んだところか否かを検証しながら、旅の道筋を推定してみよう。

芭蕉が足跡を残したと思われるところは○遠望のみと思われるところはXで

示した。行き先の順番については日記に書かれた通りであるとする考え方もあるが、ここでは、日記にこだわらず最短距離を考慮して推定し、区間毎の道程も書き加えた。道程については下の地図を用い独自の方法で計測している。

高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留主ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。(曽良随行日記)

(下における日記に書かれた旧跡など表記は次の通り。衣ノ関→衣の関、光堂→金色堂、泉城→泉ヶ城、さくら山→束稲山、秀平やしき→秀衡やしき跡、経堂→経蔵、无量劫院跡→無量光院跡)

[平泉の旅] 道程の計測

「平泉」(平成3年、中尊寺・毛越寺発行)に掲載の地図(10000分の1)を使用。
図中の「衣の関」は、曽良の日記に書かれた「衣ノ関」の位置を推定したところ。

 
秀衡やしき跡
→○。

[順路1] 伽羅御所跡
伽羅御所跡の計測点:道路沿い南端

[順路2] 柳之御所跡
柳之御所跡の計測点:現在の東端(江戸期の東端は、現在よりも東寄りだった)
[順路1]からの道程 約0.50km


「秀衡やしき跡」は、「吾妻鏡」が秀衡の常の居所としている「伽羅御所」の跡地と見られる。ただし、「柳之御所」も、秀衡が鎮守府将軍・陸奥守に任ぜられ政庁として機能するようになるまで、秀衡の居館として使用されたと判断されている。

一 館の事 秀衡
金色堂の正方、無量光院の北に並べて、宿館を構ふ。平泉館(ひらいずみのたち。「柳之御所」を指すと見られている)と号す。西木戸に嫡子国衡の家有り。同四男隆衡の宅之に相並ぶ。三男忠衡の家は、泉屋の東に在り。無量光院東門に一郭を構う。加羅御所と号す。秀衡常の居所也。泰衡之を相継ひで居所と為す。(吾妻鏡)


さくら山→X。
束稲山のこと。距離から判断してただ眺めただけと思われる。束稲山は平泉のどこからでも眺められるが、曽良が日記に書いた中では、柳之御所跡が束稲山に最も近い距離にある。

さくら川→○。
平泉を描いた古図をいくつか見てみると、共通して、高館の東を流れる川の箇所に「北上川」と「桜川」の両方が書かれていることから、「さくら川」は北上川の別称だったと思われる。今北上川は柳之御所跡のすぐ東を流れているが、芭蕉が訪れたときは現在よりやや束稲山寄りながら、やはりその近くを蛇行しており、芭蕉はこの柳之御所跡で最も北上川に接近したものと見られる。

ただし、曽良は「名勝備忘録」の中で「衣関 高館ノ後、切通シノヤウナル有リ。是ナリ。南部海(街)道也。」に続けて「ソバノ小キ土橋ヲ桜川ト云。」と書いている。これについて調べてみると、現在も参道・月見坂の入り口付近を流れ、高館付近で北上川に入る「さくらがわ」があることが分かった。曽良の日記にある「さくら川」は、おそらくこの小さい方の川の方を指しているのだろう。

その昔、北上川が束稲山付近を流れていた頃、「桜山と称されるほど美しい山の近くを流れる川」という意味で桜川と呼ばれていた時代があったことを古図は伝えており、北上川が西に移るにしたがって束稲山の桜も衰えをみせはじめ、やがて桜川の呼称も消えたのだろう。そして、曽良が書いた小さな川にその名が転化され受け継がれたということではないだろうか。

[順路3] 無量光院跡→○。
無量光院跡の計測点:道沿い北端
[順路2]からの道程 約0.56km 累積 約1.06km

無量光院跡は、旅の行き帰りに通った奥州街道沿いにあり、曽良の日記にある「見た」は「行った」に等しい。無量光院は秀衡の持仏堂ともいえる寺院で、秀衡の居館は無量光院の東門に接して建てられていた。日記の中の「シミン堂」は無量光院のこと。

金鶏山→X。
奥州街道から500mほど離れたところにある小山だが、恐らく遠望しただけだろう。金鶏山は、秀衡によって築かれた山である。無量光院の背景として称えられた山だが、柳之御所跡からも望められる。

[順路4] 高館→○。
[順路3]からの道程 約0.60km 累積 約1.66km
義経ゆかりの地であり、「夏草や兵どもが夢の跡」は、この高館で詠まれたと考えられる。

[順路5] 衣の関→○。
[順路4]からの道程 約0.61km 累積 約2.27km
「おくのほそ道」の「泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。」の「衣が関」は藤原朝の関を指していると考えられ、その関道は中尊寺の境内を通っていた。今の表参道・月見坂の入口付近がその関道への入口と考えてよいだろう。

関山に築かれた「衣の関」は、中尊寺・関山の裏(北側)に位置するが、曽良の「名勝備忘録」に書かれた「衣関」は、表参道・月見坂の入口付近を指したものだろう。
衣関  高館ノ後、切通シノヤウナル有リ。是ナリ。南部海(街)道也。(名勝備忘録)


[順路6] 中尊寺→○。
(金色堂までの道程に含まれる)

[順路7] 金色堂→○。
[順路5]からの道程 約0.85km 累積 約3.12km

[順路8] 経蔵→○。
[順路7]からの道程 約0.03km 累積 約3.15km
日記で「経堂」が「光堂」に続けて書かれず、後半に位置しているのは、金色堂に引き続き経蔵を拝観しようとしたが、別当が留守だったのでこれを後回しにし、時間を経た後に改めて訪ねたがまだ別当が帰っておらず、とうとう扉を開けて宝物を見せてもらえなかったという事情を含んでいることも考えられる。

経蔵の中は見られなかったが、「おくのほそ道」では見たことに脚色されている。本文に「経堂は三将の像をのこし」とあるが、実際は今も昔も経蔵に「三将の像」は所蔵されていない。

[順路9] 白山→○。
[順路8]からの道程 約0.20km 累積 約3.35km
日記に「白山ヲ見ル」とあるが、白山神社の本殿は参道からは見えず行かなければ見られない。白山神社は経蔵から4、5分で行ける距離にある。

[順路10] 泉ヶ城→○。
[順路9]からの道程 約2.43km 累積 約5.78km
曽良の日記に「泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。」とあり、また、曽良の「名勝備忘録」に「泉城衣河ニ方ヲ廻リ流ル。平城也。平泉廿町(約2180m)程有。南部海(街)道ノ左ノ方、山ノキワ也。」と、実際に見たと思える書き方から○と判断したが、泉ヶ城に行ったとした場合は下の[総括]にあるように時間的にかなり窮屈になる。

「泉ヶ城へは行っておらず、中尊寺から眺めただけ」とする考え方もあるので、中尊寺から泉ヶ城を眺められるか否かを中尊寺に聞いたところ、一ヶ所だけ、開山堂の西南にある釈尊院の位置からなら見晴らせることが分かった。もし曽良が行っていないのに「泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。」と書いたとすれば、これの意味するところは「事前に泉ヶ城から霧山が見えると聞いていたのだが、土地の人によれば、遠すぎて見ることができないそうだ」ということになるのだろう。

衣川→○。
泉ヶ城跡に行っているなら、そこをめぐって流れている衣川も○。もし、行っていなければ、曽良が日記に書いた中で衣川に接近できる場所が他にないのでXとなる。

月山→X。
泉ヶ城跡の西にある山で、泉ヶ城からよく見える。

以上のことを踏まえて総括すると次のようになる。
 
往路 伽羅御所跡〜泉ヶ城跡
合計道程 約5.78km
復路 泉ヶ城跡〜伽羅御所跡
道程 約4.30km
総  括
復路は、高館や白山神社への往復の道程などを含まないため、往路より約1.48km短縮された。

伽羅御所跡を起点にした道程は往復で約10.08km。一関からの道程は、10.08 + 宿泊先から伽羅御所跡までの道程 x 2 となり、「宿泊先から伽羅御所跡までの道程」を 約8km とすると、道程の合計は 10.08 + 8 x 2 = 26.08(km)となる。

歩いた速さを現代人(およそ毎時5kmくらいか)より早めに毎時5.5kmとすると、

 (1) 歩きだけに所要した時間は、およそ4時間40分。
 (2) 旅の時間は、巳ノ尅(午前9時00分〜11時00分ごろ)に出立して申ノ上尅(午後3時00分〜
   4時00分ごろ)に帰ったとして最大で7時間。

であり、(1)と(2)の差が最大で2時間20分ほどとなる。すなわち、訪問先で見込める滞在時間の合計が2時間20分ということだが、これは、あくまで最大であり、たとえば午前10時に出立して午後3時30分に帰ったとすれば、その差が50分ほどとなり、かなりきびしい旅程となる。
そこで、泉ヶ城に行っていないとして考えることにすると、上の26.08kmから、泉ヶ城・参道間の往復の道程 2.23x2=4.46(km) を引いた21.62kmが道程の合計となり、

 (1) 歩きだけに所要した時間が、およそ4時間。
 (2) 旅の時間は最大で7時間、午前10時に出立して午後3時30分に帰ったとして5時間30分。

これなら、訪問先に滞在できる時間の合計が最大で3時間、後者の場合も1時間30分となり、無理のない旅ができただろう。
これらのことから、芭蕉が[順路1]から[順路10]のすべてを訪れたと考えることは可能だが、かなり難しいことが分かり、もし、泉ヶ城へ行かなかったとすれば、各訪問先で、ある程度ゆったり過ごすことができただろう。
ただし、これはあくまで筆者が推定した道筋をたどり、整備された現在の道を毎時5.5kmの速さで歩いた場合のことである。
また、道程も何回か計測した平均値で考えているので、実際の値との誤差も見込まなければならない。

以上でこの章を締めくくり、平泉を次の順に訪ね歩いてみる。
 

伽羅御所跡

柳之御所跡

無量光院跡

高館

衣の関

泉ヶ城跡

白山神社

経蔵

金色堂

中尊寺

      
1.伽羅御所跡
  

平泉駅から450mほど北に、「吾妻鏡」に「無量光院東門に一郭を構う。加羅御所と号す。秀衡常の居所也。泰衡之を相継ひで居所と為す」と書かれた伽羅御所の跡地がある。無量光院の東門に接して建てられていた秀衡、泰衡の居館の地は、今や宅地や畑となり、往時を偲べるものは残っていない。

[見学] 道標(説明板) | 伽羅御所跡

      
2.柳之御所跡
  

伽羅御所跡の北側に、奥州藤原清衡、基衡、秀衡の居館であったと伝えられる柳之御所跡がある。柳之御所は、秀衡が鎮守府将軍・陸奥守に任ぜられたことで政庁としても使用されることになり、このため秀衡は居館として新たに伽羅御所を建てたものと見られている。東京ドームの約2.5倍の広さを有する柳之御所遺跡は、昭和63年(1988年)から大規模な発掘調査が始められ、忽然として絶えた奥州の都平泉の繁栄ぶりや文化などの解明が進められている。平成11年、発掘された遺物などを展示する柳之御所資料館が建築された。

[見学] 柳之御所跡(丘陵は高館)  [眺望] 金鶏山 | 束稲山(高館橋) | 北上川

[周辺] 柳之御所資料館1 2

      
3.無量光院跡
  

無量光院は、秀衡が柳之御所の西側に建てた持仏堂(個人の守り本尊などを安置する堂)ともいわれる寺院で、「吾妻鏡」に、宇治の平等院鳳凰堂を模して建てたとある。昭和27年に行われた発掘調査によって、本堂を中心にして左右両翼廊が広がっていたことが明らかとなり、ほぼ平等院鳳凰堂と同じ平面であることが確認された。また、発掘調査によって、東西に走る伽藍の軸線が、東門、橋、中島、橋、本堂を通り、その先に金鶏山を望むというかなり壮大な寺院であったことも確認されている。現在は、遺跡のほとんどが水田に変わっているが、今も池跡や中島や本堂の礎石が残っている。

[見学] 入り口 | 本堂跡と池跡 | 中島 | 全景  [参照] 復原図

      
4.高 館
  

柳之御所跡から北に見える丘陵が判官館、衣川館とも呼ばれる高館で、無量光院跡からは徒歩で10分ほどのところにある。

高館は、その昔、源義経が秀衡を頼って下向した時に居城したところで、秀衡の子泰衡によって家臣や妻子もろとも攻め滅ぼされたところでもある。悲運の若武者義経にとって第二の故郷ともいえる高館は、歳月の流れに逆らうことなく朽ち果て、跡形すら残っていないという現実がある。その周囲を見晴らしてもここが全盛を極めた藤原の里と想念できる痕跡もない。しかし高館は偲べる唯一のものとして義経を祭る祠を残している。芭蕉は伝説が現実に転化する確かな瞬間を感じて哀惜を極め、在りし日の義経や鎧をまとって兵どもが戦場を駆けめぐる情景を夢想した。閑寂をきわむ高館の草原にたたずみ、芭蕉は「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んで人の世の興亡を儚んだ。傍らの曽良は、白髪頭を振り乱しながら戦って義経に忠義を尽くした兼房に思いを寄せ「卯の花に兼房みゆる白毛かな」と詠んでいる。

高館の入り口から階段を上ると、正面にどっかと腰を据えた束稲山が見られる。束稲山は、その昔「さくら山」と呼ばれ、京都の東山に見立てて桜狩りを楽しんだという山である。今、束稲山はツツジの山として知られ、火で山頂付近に「大」の字を描く「大文字まつり」は平泉に欠かせない夏の風物詩となっている。高館からの眺望で最たるは北上川である。平泉の悠久を知り尽くす大河北上川は、それゆえに、平泉の流れにおいて最も人を感嘆させる容姿と化しているように思われる。

山頂付近の階段を上ったところから右に行くと、平成元年に「おくのほそ道」300年を記念して建てられた「おくのほそ道」碑がある。石碑には、芭蕉の生涯で最高傑作の一つに挙げられる「夏草や兵どもが夢の跡」の句と、平泉の章段の抜粋が刻まれている。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

高館山頂の北端に源義経像を祭る義経堂がある。義経堂は天和3年(1683年)、仙台藩四代藩主伊達綱村が建立したもので、芭蕉はその6年後にこの義経堂を訪れたことになる。

[見学] 入り口 | 階段 | 頂上1 2 | 「おくのほそ道」碑 | 義経堂1 2 3

[眺望] 北上川と束稲山 | 北上川

[周辺] 曽良の句碑が建つ「うの花清水」
 標柱  曽良句碑 | 衣川古戦場(供養塔の先が高館)

[参照] 源義経物語 | 北上川の方から高館を見る

      
5.衣 の 関
  


月見坂
(旧関道)

月見坂

関道の碑・墓

関道(山は関山)

庚申大神塚
高館を下ったところから北西の方向へ3、4分歩くと弁慶の墓があり、そのすぐ先が中尊寺の表参道・月見坂への登り口である。

「吾妻鏡」の文治5年(1189年)9月17日条に、清衡が天治3年(1126年)に中尊寺を建立した後、南は白河の関から北は外ケ浜までの路一町毎に、金色の阿弥陀仏を彫った笠卒都婆を道標として建て、さらに白河の関と外ケ浜の真ん中を中尊寺・関山として関を置き、中尊寺の境内を通る道を旅人が往還する関道としたとある。

白河ノ関(福島県白河市)ヨリ外ヶ浜(青森県青森市)ニ至ル廿余ヶ日ノ行程ナリ。其路一町(約109m)別ニ笠率都婆(仏の供養のために立てた細長い木の板)ヲ立テ、其面ニ金色阿弥陀像ヲ図絵シ、当国(平泉)ニ中心ヲ計リ、(中尊寺・関山)山頂上ニ一基塔ヲ立ツ。又寺院中央ニ多宝塔アリ。釈迦多宝像ヲ左右ニ安置ス。其中間ニ関路ヲ開キ、旅人往還ノ道トナス。

書籍「平泉」の「藤原朝の推定復元 平泉文化史跡図」を見ると、当時の街道は次の道筋をたどったようである。以下、地名などはすべて現在のもので表記した。

曽良の「名勝備忘録」に「衣関   高館ノ後、切通シノヤウナル有リ。是ナリ。南部海道(街道)也」とあり、また「奥州観蹟聞老志」に「高館ヲ去ルコト一町(約109m)余ノ山下ニ小関路」とあるが、これらはいずれも、中尊寺の境内を通る関道への入口付近、すなわち中尊寺の表参道・月見坂の入口付近を書いていると見られ、したがって「おくのほそ道」に書かれた「衣が関」もこの付近を指していると思われる。

毎日多くの参拝客で賑わう中尊寺関山の裏手に、写真に見るような昔の関跡が残されていることは余り知られていない。関道が畑の途中で切れ、衣川を越える橋もなく、わずかに碑や道標や市場跡などを残すのみではあるが、このあたりの大気には、きらびやかな遺物とは違う、人間味を帯びた悠久の昔を感じとることができる。平泉の風景が醸し出す「しっとりとした美しさ」はそういったところに起因しているのかもしれない。

室町末期の絵図に描かれた衣の関
 
時代的にはいつごろか不明だが、関山の北側に築かれていた関が2kmほど北東の現胆沢郡前沢町の「鵜ノ木」に移されたと伝えられ、現在、鵜ノ木に「衣関(<きぬとめ>と読む)」という地名が残っている。また、平泉全盛の頃を描いた古図がいくつかあり、その中で最古のものが泰衡の頃を描く中尊寺利生院蔵「平泉全盛図」である。当絵図は、寺伝では室町時代末期に葛西氏が描いたのを永正年間(1504〜1521年)に複写したものとされ、これには高館の北東の北上川沿い、すなわち前沢町の鵜ノ木と思しきところに「衣関」が描かれ、また、中尊寺釈尊院蔵の「平泉古図」や他の古図にもほぼ同位置に「衣関(衣ヶ関)」が描かれている。

[見学] 鵜ノ木に残る地名「衣関」
前九年の役の時の関といわれる衣河関
 
泉ヶ城跡から400mほど西に行った高速道路沿いに衣河関跡がある。この関の設置は延暦21年(802年)頃と伝えられ、当初、胆沢郡の宝塔谷地に置かれていたが、永承元年(1045年)頃になって、胆沢郡司安部頼良(頼時)が本拠を上衣川の阿部館に移した時、当地に転移されたものと見られている。また、前九年の役時点における関がこの衣河関であるとの見解がある。

[見学] 衣河関跡(衣川村) 関跡の右を見る 関跡の左を見る

[参照] 前九年の役の頃、安倍貞任の末弟行任が居城した城柵・白鳥館跡(前沢町)

      
6.中 尊 寺
  

中尊寺の表参道・月見坂は、関山の東谷と北谷を分ける尾根にあたり、その両脇には樹齢300年ほどの杉木立が延々と続いている。

寺伝によれば、中尊寺は、嘉祥3年(850年)に慈覚大師が開基した天台宗の寺院で、建立時は関山弘台寿院と号したが、貞観元年(859年)に中尊寺と改めたという。 江刺郡の豊田館から平泉に移った清衡は、この基盤の上に長治2年(1105年)、前九年・後三年の戦いで亡くなった人々の霊をなぐさめ、仏国土を建設するため中尊寺一山の造営に着手し、完成まで実に21年の歳月を費やした。鎌倉幕府が編纂した公式の歴史書である「吾妻鏡」の文治5年(1189年)9月17日条には、この時点での中尊寺の規模が「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇也」と書かれている。

[見学] 「弁慶の松」と弁慶の墓1 2 | 表参道月見坂1 2 3 4 | 秋の月見坂 | 冬の月見坂
 
弁 慶 堂
 
平坦になった月見坂を少し歩いたところに、文政9年(1826年)に再建された弁慶堂の参道入口がある。参道奥に鎮座する弁慶堂はもと「愛宕堂」であったが、山麓にあった堂が朽ちたために当地に移され「弁慶堂」にその名を変えた。堂内に、源義経の木像と立ったまま大往生をとげたと伝えられる弁慶の木像を安置するほか、国宝の「金銅剛孔雀文磬(けい。勤行のときに鳴らす仏具)」や重要文化財の「鶴亀松竹文彫木笈(おい。行脚僧や修験者などが仏具や衣服、食器などを入れて背に負う箱)」を所蔵する。

[見学] 弁慶堂  [参照] 弁慶のいでたち
 
 
東物見(ひがしのものみ)
 
弁慶堂の参道入口から50mほど行くと、月見坂の右側にカーテンを開いたように木々が途絶えたところがある。ここが東物見で、この物見から平泉の四季折々の景観を楽しむことができる。

桜に魅せられて数多くの桜の歌をつくり、「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と詠んだ西行は、平泉でも、束稲山の桜を「ききもせずたばしね山のさくら花よしののほかにかかるべしとは」と詠んでいる。東物見の一角にこの歌を刻んだ石碑がある。西行は生涯で2度平泉を訪れており、2度目は秀衡が果てる1年前の文治2年(1186年)10月(新暦11月)で、その目的は、平重衡によって焼かれた東大寺大仏殿を再建するための砂金調達であった。次の詞書と歌はこの折にしたためられたものである。
十月十二日、ひらいつみにまかりつきたりけるに、ゆきふりあらしはけしく、ことのほかにあれたりけり、いつしか衣河みまほしくて、まかりむかひてみけり、かはのきしにつきて、衣河の城しまはしたる、ことからやうかはりて、ものをみる心ちしけり、みきはこほりて、とりわきさへけれは
とりわきて心もしみてさえそわたる衣河みにきたるけふしも

[見学] 東物見からの眺望 | 東物見からの秋の眺望 | 東物見からの冬の眺望 | 西行歌碑
 
  
中尊寺本堂
 
東物見から更に進んだところに本堂の山門がある。本堂は、中尊寺一山の中心となる堂宇で、中尊寺の多くの儀式はここで行われる。建武4年(1337年)の野火で多くの堂や塔とともに本堂も焼失したが明治42年(1909年)に再建されている。

[見学] 本堂の山門 | 本堂  [周辺] 積善院1 2
 

      
7.金 色 堂
  

光堂とも称される金色堂は中尊寺創建当初の唯一の遺構で、堂の内外ともに厚く黒漆を塗り、その上に一面に金箔が押されている。明治30年(1897年)に行われた修理の際に棟木の墨書銘が発見され、天治元年(1124年)に落成したことが明らかになった。天治元年は、清衡が亡くなる4年前、69歳の時にあたる。

昭和25年(1950年)朝日新聞社が実施した調査により、金色堂に眠る藤原四代の遺体について、中央の須弥壇の中に初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の遺骸が納められ、その傍らに子泰衡の首級が納められていることが明らかになった。それから12年後の昭和37年(1962年)から6年の歳月をかけ、国家的規模で金色堂の解体修理が行われている。

金色堂には、本尊阿弥陀如来像、観音菩薩、勢至菩薩の弥陀三尊のほか、六地蔵菩薩、増長・持国天が祭られている。

芭蕉は、別当の案内で金色堂を拝観し、500年以上の長い歳月を経ながらも、朽ちもせず佇み続ける栄華の遺産・金色堂を風格ある文体で「おくのほそ道」の中で表現し、これを眼前にした感動を静かに伝えている。

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

金色堂の傍らに、延享3年(1746年)10月12日建立の「五月雨の降のこしてや光堂」の句碑がある。
FLASHムービー 芭蕉が見た奥の記念物「中尊寺金色堂」
[見学] 金色堂(覆堂)1 2 3 | 秋の金色堂 | 冬の金色堂 | 旧覆堂

[周辺] 芭蕉句碑1 2 | 宮沢賢治歌碑

      
8.経 蔵
  

金色堂の北西方向30mほどのところに、本尊の騎獅文殊菩薩像と従者の四眷属像を安置する経蔵がある。天治3年(1126年)に2階瓦葺で建立されたが、建武4年(1337年)の火災で2階部分が焼け、1階部分を修復して現在に至っている。経蔵に収められていた経巻や経箱は、今、平成12年(2000年)竣工の讃衡蔵(さんこうぞう)に保存されている。

[見学] 経蔵 | 経蔵の秋の佇まい

      
9.白山神社
  

金色堂の向かい側に白山神社の朱色の鳥居が建ち、そこから神社への参道が続く。縁起によれば、白山神社は嘉祥3年(850年)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山神社から分霊し、大師自ら十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号した。秀衡の持仏である運慶作正観音と源義経の持仏である毘沙門天が祭られていたが、嘉永2年(1847年)の火災で焼失した。

白山神社では、藤原三代の頃から田楽能が神事として行われていたが、これに用いた旧能舞台は火災で焼失し、今ある能舞台と鳥居は、嘉永6年(1853年)仙台藩十三代藩主伊達慶邦(よしくに)から再建奉納されたものである。毎年白山祭りで行われている能舞は、天正19年(1591年)、関白豊臣秀次と伊達政宗が参拝の折に観覧して以来続けられている。

[見学] 鳥居 | 能楽堂 | 本殿

      
10.泉 ヶ 城
  

泉ヶ城は秀衡の三男泉三郎(泉の三郎、和泉三郎)こと藤原忠衡の居城といわれ、「平泉舊蹟志」に「琵琶柵跡、戸河内村に在り。往昔貞任が後見成道が居城の跡なり。中尊寺の北にあたる。里俗此所を泉三郎忠衡が居所なりと傅へり」と書かれている。

文治3年(1187年)に秀衡が病で急逝したのち、二男泰衡は秀衡の遺言に従って源頼朝から平泉に逃れていた義経をかくまうが、頼朝の激しい圧迫に抗しきれず義経を襲うことになる。これに対して、忠衡は父の意志を継ぎ最後まで忠義を尽して義経の力となったが、義経が滅んだ後の約二ヶ月後、兄泰衡により攻め殺された。

義経を深く思慕した芭蕉は、義経に忠義を尽した家臣にも心を寄せ、福島で佐藤庄司一族の菩提寺である医王寺を訪ね、塩釜では鹽竈神社の参詣で忠衡ゆかりの燈篭を目のあたりにし、次のように「おくのほそ道」に記している。

神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。

石川県の門前町に、没年の文治5年(1189年)に泉三郎が苗を持ってきたと伝えられる「ひのきあすなろ(ヒバ。アテ)」(門前町の泉正孝氏所有)の巨木が育っている。「能登ヒバ」のブランド名で流通している木の元祖で、「元祖アテ」と言われる。この「元祖アテ」は、義経が生前愛でていた木との言い伝えもある。

[見学] 泉ヶ城跡を遠望する(写真中央) | 泉ヶ城跡と衣川に架かる橋 | 衣川 | 泉ヶ城跡と曽良日記に書かれた月山 | 泉ヶ城跡の右手を見る | 泉三郎の墓 | 泉三郎の古い墓

[参照] 泉ヶ城の地図 | 泉三郎が鹽竈神社に寄進した燈篭1   2 | 墓付近にある「元祖アテ」の説明板

 
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