平泉資料写真と解説(7)

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                   泉三郎忠衡について
藤原秀衡の次男・泰衡は、文治5年(1189年)4月、源頼朝の圧力に屈し秀衡の遺言に背いて義経を攻めたが、三男・泉三郎(泉の三郎、和泉三郎)忠衡は、秀衡の意志を継いで、最後まで忠義を尽し義経を守った。忠衡は義経の死後、23歳の時に泰衡によって攻め殺された。
忠衡の居館と伝えられるのが、中尊寺・関山の北西部にあった泉ヶ城であり、「おくのほそ道」の中で「衣川は、和泉が城をめぐりて」と書かれた衣川は、主の忠義心をなぞるように、今もなお同じ流れを続けている。
泉ヶ城跡を遠望 泉ヶ城跡。

写真中央の丘陵が泉ヶ城跡。「平泉舊蹟志」に、「琵琶柵跡、戸河内村に在り。往昔貞任が後見成道が居城の跡なり。中尊寺の北にあたる。里俗此所を泉三郎忠衡が居所なりと傅へり」とある。
衣川支流と泉ヶ城跡。

衣川支流の土手を泉ヶ城跡に向かって進む。
前九年の役中、康平5年(1062年)に、業近柵(なりちかのさく)の焼亡が安部貞任軍の衣川全面撤退につながったとされるが、この先に見える泉ヶ城跡がその業近柵にあたるとする見解がある。   
衣川支流と泉ヶ城跡
衣川に架かる橋

衣川支流を北(地図で上方)へ進んでの地点に到着。
泉ヶ城跡をめぐる衣川。

西側から注ぐ衣川が丘陵の岩肌に当たって分流し、その一筋、右奥への流れが、低い地形のために勢いを増しながら時計回りにめぐっている。右手前から分流地点に逆流する川筋もできている。

右の写真を拡大
同位置から南側を見る (拡大)
泉ヶ城をめぐる衣川
泉ヶ城跡 泉ヶ城跡。

現在、泉ヶ城跡は民家の敷地や、畑、水田に利用されている。
丘陵の北側に泉三郎の墓があり、その先に、曽良の随行日記に書かれた月山が見える。

東側の景観 (西側は民家)
泉三郎忠衡の墓。

芭蕉は、鹽竈神社の境内で忠衡寄進の燈篭を目の当たりにし、その感動を「おくのほそ道」の中で次のように記している。
神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。

北側にある旧墓石
泉三郎忠衡の墓
衣河関跡 衣河関跡。

前九年の役時点における関の跡で、戦の中心舞台となったところ。今、この付近を高速道路が通っている。
  
右景観  


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第3集 芭 蕉 と 平 泉
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