高館(たかだち)について
高館

高館の頂への上り口。中央の石段を上ると、正面に、その
昔、さくらの名所として知られた束稲山が見えてくる。

義経堂

仙台藩主伊達綱村が天和3年(1683年)に建立した義経堂。

源義経最期の地として知られる高館は、中尊寺の東南にある丘陵で、衣川館または判官館とも呼ばれる。頂に義経の像を祭る義経堂がある。

高館から東方を眺めると、その昔「さくら山」と呼ばれ、京都の東山に見立てて桜狩りを楽しんだという束稲山があり、眼下に北上川が悠々と流れている。

平泉を貫く北上川は、四季折々の景観とともに大パノラマを展開する美しい川であるが、その一方で、氾濫の歴史を刻む「暴れ川」の側面も持ち合わせる。

このため、かつては東側に離れて蛇行していた流れが現在では高館の崖下まで川筋を移し、丘陵の半分ほどを削り取っている。
平泉町の航空写真

北上川を背にし、義経堂にその像を祭られている源義経は、平安末期の武将で、幼名を牛若という。7歳で鞍馬寺に入り、その後、藤原秀衡のもとに身を寄せたが、兄頼朝の挙兵に参じ、

源義仲を討伐し、更に平氏を壇ノ浦などで破って全滅させた。

しかし、頼朝はこれを勲功と認めず、逆に追われる身となった。そこで、義経は秀衡を頼って平泉に逃げるが、秀衡はまもなく病死する。その子泰衡は、文治5年(1189年)4月、頼朝の圧力に屈し、家臣を大将にして高館の義経を急襲させ、義経は自刃して果てた。
源義経物語
 
源義経像と束稲山
義経堂に祭られている源義経の像と義経堂から見た束稲山
 
それから500年ほど後の1689年の夏、芭蕉は曽良とともに高館の地を訪れた。しかし、平安の世に、奥の都として隆盛を極めた平泉は、過ぎ行く時の流れと共に跡形を無くし、もはや、あめ土そして山河の息遣いがこの辺地に残る全てだった。

芭蕉は、志を遂げずに散った義経主従を追想し、「夏草や兵どもが夢の跡」の句を詠んで人の世の興亡を儚み、曽良は「卯の花に兼房みゆる白毛かな」の句をもって、義経家臣の忠義心を称えた。

この旅から300年を経過した平成元年、「おくのほそ道」紀行を顕彰する行事が全国各地で催され、平泉では、「奥の細道300年 平泉芭蕉祭」が開かれた。中尊寺金色堂の旧覆堂脇に見られる芭蕉像や、高館の頂に建つ「夏草や」句と下記本文を刻む碑は、この折の記念物である。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

平泉で見られる「夏草や」の石碑としては、この他に、高館の地を領有する毛越寺に3基存在する。その1つは、明和6年(1769年)に高館から毛越寺に移した芭蕉真筆の句碑で、高平眞藤編「平泉志巻之下」に、この碑について「池の南畔に石碑あり。芭蕉俳詠の自筆を勒せり里俗之を芭蕉塚といふ」の記述がある。

他の2つは、一関法泉院住職を勤めた平泉出身の俳人素鳥が、上の真筆句碑を模して文化3年(1806年)に建立したものと、新渡戸稲造(1862〜1933)が「夏草や」句を翻訳した英文句碑であり、都合3基が境内に建っている。

毛越寺の芭蕉句碑(左:芭蕉真筆 右:素鳥建立) ○渡戸稲造が英訳した句碑

曽良の句碑が建つ「卯の花清水」は、高館の北側の上り口からほど近いところにある。当所は、古来、霊水がこんこんと湧き出る名水地として知られたが、平成5年に行われた道路の拡張工事で水が涸(か)れてしまい、現在は、水道水を利用してかつての名水を再現する状況となっている。
卯の花清水


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第3集 芭 蕉 と 平 泉
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