芭蕉について
 

松島へのあこがれ

松島湾の島々

元禄2年(1689年)2月15日付の桐葉宛書簡に「拙者三月節句過早々、松島の朧月見にとおもひ立候」とあり、同年、「おくのほそ道」の旅直前に書かれた猿雖宛書簡に「彌生に至り、待侘候塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみふくころより北の国にめぐり」と記されている。

さらに、岐阜の門人安川落梧への同年3月23日付の書簡で「又々たびごこちそぞろになりて、松島一見のおもひやまず、此廿六日江上(こうしょう)を立ち出で候」と記すなど、「おくのほそ道」の旅は、松島に対する憧憬が、その着想の大きな要因となったことが窺われる。


また、同書簡の中で、「みちのく・三越路(みこしじ)の風流佳人のあれかしとのみに候」と記し、「おくのほそ道」の旅の目的が、古人の旅杖の跡を慕い、歌枕を訪ね、そして悲劇の武人を追懐することのみならず、地方の俳人との交流にもあったことを強く印象付けている。旅中、最大の盛り上がりを見せた平泉や、当地松島において、わずかに一宿だったことは大きな驚きであるが、この事の由を同書簡から見出すことは、あながち的外れでは無いかもしれない。

芭蕉の松島の句は...

芭蕉は、「おくのほそ道」の中で松島の句を示していない。その訳を、伊賀蕉門・服部土芳の「三冊子」に見られる「師のいはく、『絶景にむかふ時は、うばはれて不叶』」をもとに考えれば、松島では、「扶桑第一の好風」をまのあたりにし、感動の余り思うように句が作れなかったということになるのだろうが、その一方で、中国の文人的姿勢「景にあうては唖す(絶景の前では黙して語らず)」に感化され、意識的に句を示さなかったとする見方もある。

師のいはく、「絶景にむかふ時は、うばはれて不叶。ものを見て、取所(とるところ)を心に留て不消。書写して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。其おもふ処しきりにして、猶かなはざる時ハ書うつす也。あぐむべからず」となり。師、まつ嶋に句なし。大切の事也。(「三冊子」わすれみづ)。

ただし、「おくのほそ道」に記すことはなかったが、芭蕉の句に「島々や千々に砕きて夏の海」という松島を詠んだものがあり、本句は、「蕉翁全伝附録」に、「
松島は好風扶桑第一の景とかや。古今の人の風情、この島にのみおもひよせて、心を尽し、たくみをめぐらす。をよそ海のよも三里計にて、さまざまの島々、奇曲天工の妙を刻なせるがごとく、おのおの松生茂りて、うるはしさ花やかさ、いはむかたなし。」の前書付きで所収されている。

  
松島や ああ...

「松島や ああ松島や 松島や」の句が広く知られ、これが芭蕉作と言われることがあるが、実際は、江戸時代後期に相模国(神奈川県)の狂歌師・田原坊が作ったもの。仙台藩の儒者・桜田欽齊著「松島図誌」に載った田原坊の「松嶋やさてまつしまや松嶋や」の「さて」が「ああ」に変化し、今に伝えられている。
  

松島図誌

「おくのほそ道」と松島/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と松島
元禄2年(1689年)5月9日(新暦6月25日)〜5月10日(新暦6月26日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 九日
快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰テ出船。千賀ノ浦・籬島・都島等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不残見物。開山、法身和尚(真壁平四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿被宿岩屈(窟)有。無相禅屈(窟)ト額有。ソレヨリ雄島(所ニハ御島ト書)所ゝヲ見ル(とミ山モ見ユル)。御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山(一山一寧)ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰テ後、八幡社・五太堂ヲ見、慈覺ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云。加衛門状添。
 
一 十日
快晴。松島立(馬次ニテナシ)。馬次、高城村(間廿丁計)、(是ヨリ桃生郡)小野(弐里半)。石巻(四里余)。仙台ヨリ十三里余。小野ト石ノ巻(牡鹿郡)ノ間、矢本新田ト云町ニテ咽乾、家毎ニ湯乞共不与。刀さしたる道行人、年五十七、八、此躰を憐テ、知人ノ方ヘ壱町程立帰、同道シテ湯を可与由ヲ頼。又、石ノ巻ニテ新田町、四兵ヘと尋、宿可借之由云テ去ル。名ヲ問、小野ノ近ク、ねこ(根古)村、コンノ(今野)源太左衛門殿。如教、四兵ヘヲ尋テ宿ス。着ノ後、小雨ス。頓テ止ム。日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハ「渡波」ト云)・遠島・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。
 九日
快晴。午前8時頃、鹽竈明神を拝す。帰宿後、出船。千賀ノ浦、籬島、都島等、所々見て、正午頃松島に着船。茶など呑んで瑞巌寺に詣で、残らず見物す。開山、法身和尚(真壁平四良)。中興、雲居。法身和尚の頃、最明寺(北条時頼)殿が宿した岩窟有り。無相禅窟と額有り。それより雄島(あるいは御島と書く)の所ゝを見る(富山も見える)。御島に雲居の坐禅堂有り。その南に寧一山(一山一寧)の碑文有り。島の北に道心者住む庵(松吟庵)有り。帰ってから、八幡社、五太堂を見る、慈覺の作。松島に宿す。久之助という。加衛門の紹介状あり。
 
一 十日
快晴。松島を立つ(馬継にて無し)。馬継、高城村(その間廿丁ばかり)、(是より桃生郡)小野(二里半)。石巻(四里余)。仙台より十三里余。小野と石巻(牡鹿郡)の間の矢本新田で咽乾き、家毎に湯を乞うが与えず。刀をさした道行人、年五十七、八、此躰を憐れみ、知人の方へ壱町程立ち帰り、同道して湯を与えるよう頼む。又、石巻で新田町の「四兵へ」を尋ね宿を借りるよう云って去る。名を問えば、小野の近く根古村、今野源太左衛門殿。教えられるまま四兵ヘを尋ねて宿す。到着後、小雨。頓て(とみて。すぐに)止む。日和山と云う山に上る。石巻中見渡し得る。奥の海(今「渡波」と云う)・遠島(牡鹿半島)・尾駮(おぶち)の牧山眼前也。真野萱原も少し見える。帰りに住吉神社参詣。袖の渡り、鳥居の前也。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第2集 芭 蕉 と 松 島
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