雄島について

雄島の景1

雄島の景2

雄島からの景1

雄島からの景2

往時の船着場

   
松島水族館から南東へ200mほど行ったところに、日本三景「松島」の地名のルーツとされる雄島がある。「瑞巌寺の奥の院」とも称される雄島は、東西40m、南北200mほどの島で、朱塗りの渡月橋で陸と結ばれている。島内に点在する岩窟には、諸国から渡った修行僧が刻んだ卒塔婆や仏像、法名などが数多く見られ、霊場としての風景を今にとどめている。   

1.見仏上人と見仏上人の旧跡・見仏堂
  


渡月橋

磨崖仏

散策路脇の景

トンネル

見仏堂跡

  
見仏上人について

見仏上人は、長治元年(1104年)伯耆国(鳥取県)から雄島に渡った僧で、瑞巌寺発行の堀野宗俊著「瑞巌寺の歴史」に、「延福寺時代約四百年を通じ、開山の慈覚大師を除き、一番著名な高徳の僧は、雄島に住した見仏上人であろう」と記される程の人物である。

瑞巌寺の住持職に就くことはなかったが、上人の高僧としての名声は京にまで届き、鳥羽上皇から本尊や法器、松の苗木千本が下賜された。これにより雄島が「千松島」と呼ばれ、「御島」と表記されるようになったと説明されている。そして、いつしか「千松島」が「松島」全体を指し、島々の中で最も由緒ある島であることから「御島」が雄(ゆう)なる島「雄島」と書かれるようになったようである。
   
見仏上人は、法華経6万巻をひたすら読誦して法力を身に付け、鬼神を使い、奇蹟を起こしたと伝えられ、西行仮託の仏教説話集「撰集抄」には、「遠距離空間の瞬間移動」ともとれる上人の超能力ぶりが語られている。


「さても誰人にてかいまそかるらん。いつも此ところに住み給ふにや」なんどたづね侍りしかば、「いさとよ、人は月待嶋の聖とこそ呼ばひ侍れ。又いつもこゝに住むにはあらず。月に十日はかならずきたりて住むなり。その程はなにも食ひ侍らず」と、のたまひ侍りしに、あさましくて、さては見佛上人と聞え給ふ人の御ことにこそと、かたじけなく覚えて、「我をば西行となん申に侍り」と、おそれおそれ申侍りしかば、「さる人ありと聞く」とのたまはせ侍りき。さて(し)も侍るべきにあらざりしかば、なごり多く侍りしかども、心とまる法文など問ひ奉りて、泣く泣くわかれさり侍りき。かへるさには見え給はざりしかば、わざと四日の道をへて松島へたづね参りて、かの寺に二月ばかり住みて侍りき。(中略) 松嶋に侍りし程にも、かみの弓張の十日の程は、かきけし失せ給ひにし(か)ば、又能登の岩やにすみ給ふにこそと、あはれに悲しく侍り。失せ給へる程は、ひとりの弟子の、寺をはからひ侍ける也。月ごとにあるわざなんめれは、いまさらおもひ驚く弟子も侍らざりき。


「ところで、あなたはどなたですか。いつもここにお住まいですか」などと尋ねましたところ、「さあ、人はわたしのことを月待嶋(つきまつしま)の聖と呼んでおります。いつもここに住まっているのではありません。月に十日はかならずここにやってきて住んでおります。その間なにも食しません。」とおっしゃったので、たいそう驚いて、それでは見仏上人とお聞きしている方にちがいない、と恐縮に思われて、「わたしは西行と申します。」と、恐れ多く思いながら申し上げると、「そのような人がいると聞いている」とおっしゃられた。それで、長居するわけにもいかず、おなごり多くございましたが、心に残る教義などをお聞き申し上げて、泣く泣くお別れして参りました。帰るときお見えになりませんでしたので、わざわざ四日の道を経て松島へ行って上人を訪ね、かの寺に二ヶ月ばかり滞在しました。(中略)松島に居りました間も、上の弓張(上弦の月)の十日間は、一瞬のうちに姿を消されご不在になりますので、また能登の岩屋にお住まいなのだと、しみじみとした思いに駆られました。ご不在の間は、一人の弟子が寺をとりさばいておりました。毎月同じようなことなのでしょうから、いまさら(見仏上人がいなくなったことに)おどろく弟子もいらっしゃいませんでした。

(撰集抄 巻三・第一「松嶋上人事」/現代語訳:LAP Edc. SOFT)

  

見仏上人の旧跡・見仏堂(妙覚庵)

渡月橋の袂から左に折れ崖上の散策路をしばらく行くと、修行僧が岩を削って作ったトンネルに行き着く。これを抜け出た先()が、その昔、見仏上人が法華経六万巻を読誦した見仏堂の跡地とされるところで、そのお堂は妙覚庵とも呼ばれた。今は礎石すら残さないが、かつては「奥の院」と呼ばれ、三方を卒塔婆や仏像を刻む岩盤で囲まれた見仏堂跡は、全島霊地とされる雄島の中で最もそれらしい風情を漂わせている。


しかしながら、見仏上人の旧跡については、の南側で一段高くなっているところ、即ち松吟庵跡とする捉え方もあって、厳密には不明である。松島町の観光案内書や雄島の案内板で旧跡をとしているので、本サイトも地を見仏堂跡として説明しているが、松島町史では、「松吟庵址もその跡地といわれ、又、松吟庵址の北西側(正しくは北側)低地の海浜部()ともいわれ、その原初地のはっきりしたことは不明である」としている。

元文元年(1736年)建立の「御嶋松吟菴薬師堂記碑」に、松吟庵は見仏上人の旧跡に建てた由が刻されているので、松吟庵の跡地が上人の旧跡である可能性は低くないと見てよいのだろう。もしそうなら、松吟庵の建立が万治2年(1659年)であるから、芭蕉が雄島を訪れた元禄2年(1689年)当時、見仏堂は既に跡形も無くなっていたということになり、まさに「おくのほそ道」にあるように「彼見仏聖の寺はいづくにや」ということになるのだが。

雄島の北端に「妙覚庵敷」と書かれた標柱がある。こちらの見仏堂(妙覚庵)は、享保17年(1732年)になって、僧良哉が一庵を建てて六時念仏の道場にしたいと懇願したのに応え、瑞巌寺第105代天嶺性空が、三万人からの布施を集め建立を遂げたものである。その後、荒廃して建て直され、最後の堂宇は瑞巌寺に移築され近年まで執事寮として使用された。

大正期の見仏堂(妙覚庵)
江戸期以降の見仏堂(妙覚庵)跡
  

2.松吟庵と薬師堂
  


松吟庵跡

跡地の岩窟1

跡地の岩窟2

跡地からの景

薬師堂跡

  
「おくのほそ道」に書かれた松吟庵

見仏堂跡()の南隣の崖上に、卒塔婆や仏像を刻んだ岩盤を南と西に控える平地がある。ここが、かつて瑞巌寺山内の小院、松吟庵(しょうぎんなん)と薬師堂(医国殿)があったところで、二院ともに海の際に東面して建てられていた。芭蕉が「おくのほそ道」で「落穂・松笠など打けふりたる」と形容した庵は、この松吟庵である。

雄島が磯は地つゞきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の庵、閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。
  松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曽良
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂松島の詩あり。原安適松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。
(おくのほそ道-雄島が磯の章段)


薬師堂跡に建つ「御島松吟菴薬師堂記碑」によれば、松吟庵は万治2年(1659年)、瑞巌寺第103代通玄和尚が26歳の時、兄松岩道知によって建てられ、庵名は第100代洞水和尚の詩の結句から2文字をとって名付けられた。

常掛壁間禅定箴   心如月矣月如心
夜深風冷江山静   唯聴古一様

通玄は、3年間一人で座禅修行をし、4年目の寛文3年(1663年)の冬、松の枝が風に吹き折られ、松吟庵の小窓を破った音を聞いて悟りを得たという。

この庵は、大正12年(1923年。大正8年または11年の説もある)失火により焼失し、昭和期になって再建されたが、昭和58年(1983年)に又もや失火で全焼した。

大正期の松吟庵と薬師堂
  

松吟庵の北隣にあった薬師堂

薬師堂は医国殿とも呼ばれ、松吟庵の北隣にあった。元文元年(1736年)天嶺性空によって創建され、慈覚大師作の丈六(一丈六尺の高さ。約3.3m)薬師大仏が安置されていた。薬師堂は今跡形も無いが、被った火難の歴史は、隣り合わせた松吟庵と同一のものだったようである。
  

3.座禅堂(把不住軒)と頼賢の碑
  


座禅堂

座禅堂からの景

散策路

頼賢の碑

東屋からの景

  
雲居禅師ゆかりの座禅堂

○「瑞巌寺について-雲居禅師」参照

渡月橋を渡って南に50mほど行くと、散策路を左右に分かつところに「奥の細道」と書かれた標柱がある。その先の小丘の頂に見えるのが、「おくのほそ道」に「雲居禅師の別室の跡」と書かれた座禅堂である。把不住軒とも呼ばれる。

「奥の細道」と書かれた標柱

座禅堂は、寛永14年(1637年)石巻の笹町元清が、雲居禅師の隠棲所として建てたもので、ここから、松島湾に点在する島々を見晴らすことができる。現在、お堂の内部は荒れ、往時を偲ばせるものは残っていない。

同年、大沢(扇谷)に建てられた雲臥庵も雲居禅師の座禅堂で、禅師は多くの時間をこの庵で過ごしたという。扇谷は、松島展望の名所・四大観の一つで、ここから、松島湾の入り江を扇の面に映し出すように眺められることからこの名がある。

  

雄島の南端に建つ「頼賢の碑」

座禅堂から更に南に行くと、国の重要文化財「頼賢の碑」を納めた六角形の覆堂が見えてくる。「頼賢の碑」の碑文によれば、頼賢は、観鏡房と号し、15歳の時に出家して長崎成福寺で修行。42歳で円福寺(瑞巌寺の前身)を訪れて第4代無隠円範(覚雄禅師)に弟子入りした。その後、松島を離れるが、再度来松し第6代空巌慧(覚満禅師)に参禅し、師の推薦により妙覚庵の庵主となった。

弘安8年(1285年)に入庵して以来、22年間、島を出ることなくひたすら法華経を読誦し、見仏上人の再来と仰がれた。頼賢没後の徳治2年(1307年)、弟子の匡心や孤雲ら30名が、師の供養と頌徳のため、中国・元の使者として在日した鎌倉建長寺住持一山一寧(寧一山)に撰文を請い、雄島の南端に「頼賢の碑」を建立した。

碑の大きさは、高さ約3m、幅約1〜1.3m(上部が狭い)、厚さ約0.2mで、2つの龍の彫り物で上下に仕切られている。上部は、真ん中に梵字があって、右に「奥州雄島妙覚菴」、左に「頼賢菴主行實銘 並序」の文字を刻み、下部に、「巨福山建長禅寺住山唐僧一山一寧撰」の文字と撰文が刻まれている。

  

4.雄島で見られる句歌碑

芭蕉をはじめとする多くの文人墨客が、風雅の極みを求めて松島を訪れ、その印象をさまざまな文体で謳い上げた。雄島には、そうした先人の詩歌を刻む石碑が、板碑や墓碑と並び合って多数建てられている。ここでは、その中からおくのほそ道碑と芭蕉、曽良、大島蓼太、加賀千代女の句碑を取り上げて紹介している。
  


おくのほそ道碑

芭蕉句碑

曽良句碑

千代女句碑

蓼太句碑

  
おくのほそ道碑(芭蕉翁松島吟並序碑)と芭蕉句碑

おくのほそ道碑は、寛政元年(1789年)に雄島の最北端に建てられた石碑で、高さは2mほど。瑞巌寺の「おくのほそ道」碑と同じ松島湾の章段が刻まれているが、こちらは碑文の最後に「朝よさを誰(たが)まつしまぞ片心」の句が添えられている。

抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色、よう然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。 (おくのほそ道-松島湾の章段)

朝よさを誰まつしまぞ片心」を刻む句碑は、島のほぼ中央、石碑が林立した中に曽良の句碑と並んで建っている。「桃舐(ももねぶり)集」に見られるこの句は、「おくのほそ道」の旅へ出る直前の元禄2年(1689年)の春に詠まれたもので、これと同じ時期の句に、「去来文(ぶみ)」に載る「おもしろや今年の春も旅の空」や3月23日付落梧宛書簡に見られる「草の戸も住みかはる世や雛の家」がある。「草の戸も」の句は、後に「草の戸も住替る代ぞひなの家」に改められ「おくのほそ道」に採録された。

句碑の側面右に「勢州桑名雲裡房門人」、側面左に「延享四丁卯十月十二日建之」、裏に「仙台冬至菴連 山本白英 (以下略)」とある。
  

曽良句碑

芭蕉の句碑の右隣に曽良の「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」の句碑がある。この句碑は、文化5年(1808年)に曽良の百回忌を記念し、諏訪の俳人素檗(そばく)が遠藤日人(あつじん)に依頼して建てたもので、書は日人の手によるもの。碑面に上の句と「信州諏訪産曽良同郷素檗建之 石工伊之助」の文字が刻まれている。
  

千代女句碑

加賀千代女の「たまされてきて月を見千松島」の句碑は、見仏堂跡とおくのほそ道碑との中間付近にあり、碑の高さは1mほど。「朝顔やつるべとられてもらひ水」の句で知られる千代女は、加賀国松任の表具屋に生まれ、17歳にして蕉門十哲の一人・各務支考の門弟となった。52歳の時に剃髪し、素園と号した。
  

蓼太句碑

芭蕉の句碑のやや南寄りに、大島蓼太が芭蕉の足跡をたどり松島で吟じた「朝きりや跡より恋の千松しま」の句碑がある。蓼太は、蕉門十哲の一人・服部嵐雪(雪中庵)の流れをくむ江戸中期の俳人で、信州国伊那大島生まれ。33歳で雪中庵3世を継ぎ、門人千人余を擁したといわれる。

墨田区千歳にある雪中庵関係石碑群




【 参考文献 】 

松島町史 通史編1・2 資料編 1・2

堀野宗俊著「瑞巌寺の歴史」(瑞巌寺刊)

鈴木寅之助著「松島金石誌」(瑞巌寺刊)


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第2集 芭 蕉 と 松 島
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