瑞巌寺について

総門

参道

法身窟

御成玄関と本堂

庫裡

松島青龍山瑞巌円福禅寺、すなわち瑞巌寺は、東北を代表する観光地・松島の中軸を成し、千年を越す寺歴に、奥州藤原二代基衡、執権北条時頼、仙台藩藩祖伊達政宗らの名を連ねる東北地方切っての名刹である。
  

慈覚大師、青龍山延福寺を開山

瑞巌寺の歴史は古く、平安期にまで遡り、創建は天長5年(828年)と伝えられる。創建時の名称は青龍山延福寺で、寺号は天台宗の総本山延暦寺に由来している。瑞巌寺の歴史を綴る「天台記」は、この年、慈覚大師円仁が勅宣により比叡山王七社大権現の神輿を担って松島に下り、延福寺を開山としたことを伝えている。

慈覚大師について

後年、無住となって荒廃するが、藤原基衡が延暦寺弥勒堂の阿闍梨永快を住持として招き、延福寺の立て直しを図った。基衡は、延福寺に戒壇を造営し、法華経十万部を奉納した。

奥州藤原三代について

文治5年(1189年)の奥州合戦の際に、延福寺は、源頼朝の義経呪詛(じゅそ)の指示に三千の衆徒が護摩を焚いて応え、平泉陥落後、功賞として加州(加賀)産の織絹八千疋を得たという。延福寺は、頼朝の死後しばらく無住となるが、鞍馬山東光坊の弟子、儀仁和尚が、暦仁元年(1238年)に住持として招聘された。

  

法身禅師、青龍山円福禅寺を開山

延福寺は第28代住持儀仁を最後に破却され、禅宗の円福寺に転換することになるが、「天台記」によれば、その経緯はこうである。

延福寺で山王七社大権現の祭礼が行われていた宝治2年(1248年)4月14日のこと。東国修行中の執権北条時頼が、神楽が奏せられる中、舞楽の上演を楽しんでいたが、つい面白さの余り「前代未聞の見物かな」と大声を発したところ、衆徒の頭領普賢堂閣円が憤怒し、衆徒十余名に殺されかける事態となった。時頼は、一人の僧の「山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズ」の一言で事なきを得、近くの岩窟に入ってしばらく休息した。

宝治戊申ノ二歳四月十四日、山王七社大権現祭礼執行ス。儀仁初メ三千ノ衆徒堂衆学姓残ラズ、山王大師神輿守リ奉ル、法師崎ニテ神楽ヲ奏ス、五大尊明王ノ伊陀天ノ前ヨリ法師崎宝殿マテ中廊渡シテ、神楽ヲ奏ス、寔(まこと)二清明ノ見物ナリ。相模ノ平ノ将軍時頼、出家シテ東国修行ノ次(ついで)、吾郷二下着ス。然モ其日修行時頼逆縁ノ躰ヲ為シテ舞楽ノ面白サ絶エ難キニ依リ、大音ニテ前代未聞ノ見物哉ト宣声、衆徒ノ内二普賢堂閣円是ヲ怒リ、其ノ修行者殺害セント云フ。諸々ノ衆徒ノ中二、家多浦禅余房、象鼻崎ノ賀泉坊、安養崎ノ一流房、彼是十余人馳集マル。命ヲ失ント為ス。爰二亀崎坊良泉山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズト訴訟ヲ為シ、漸ク助命ス。仍ツテ瀟湘ノ岩洞に入テ暫ク休息ス。(天台記)

岩窟(瑞巌寺境内にある法身窟)には先住の修行僧・法身がいたが、二人は意気投合し法談で時を重ねた。やがて、延福寺の歴史を転ずるきっかけとなる問答が二人の間で交わされた。
時頼 「延福寺の住持になってみませんか。」
法身 「私は無知・無道の身で及びもつきません。」
時頼 「天台の諸法が失滅に及べばどうですか。」
法身 「それなら禅家の法祖、広めるに足ります。」

修行(時頼)問曰、御僧延福ノ住可叶哉、法身答曰、我雖禅家生受、無智無道也、争大伽藍ノ*(不明)叶、天台ノ秘事、難勤行*(不明)、修行又曰、天台諸法及失滅者如何、法身答、禅家ノ法祖広二タレリ。(天台記)

瑞巌寺境内にある法身窟

時頼は、鎌倉に帰った後、三浦義成が率いる千人の軍兵を松島に向かわせて、延福寺から三千の衆徒を追放し、儀仁和尚を佐渡に流した。こうして時頼は延福寺を破却し、岩窟での出会いから10年を経た正元元年(1259年)ごろ、法身禅師を開山として臨済宗円福寺を創建した。

  

法身禅師(真壁平四郎)について

法身禅師は、常陸国(茨城県)真壁郡の出で俗名を真壁平四郎という。領主の下僕を勤めていたが、ある宴のあった冬の日、履物(はきもの)を懐で温めて領主を待っていたところ、履物を尻に敷いていたと誤解され、額を割くほどに撲られた。これをきっかけに法身は出家し、後に、宋に渡って径山寺の無準禅師、仏鑑禅師無準師範に参禅。帰国後、諸国遍歴の旅中、松島の延福寺に滞在していたのである。

入山後、法身禅師は年数わずかにして、北条時頼が宋から招いた高僧欄渓道隆(鎌倉建長寺開山の大覚禅師)に円福寺の住持職を譲り、現在の十和田市洞内に移り住んだ。

  

伊達政宗が再建するまでの円福寺

大覚禅師が入山すると、円福寺の格式は更に高まり、室町期に到るまでの住持はすべて大覚派の僧が引き継ぐこととなり、東北最大の禅院として栄えた。円福寺が最も繁栄したのは13世紀末ごろとされ、当時の大伽藍の規模は、北は五大堂から南は雄島付近まで延び、現在の瑞巌寺の中心地は、円福寺境内の北西隅の一角にすぎなかったという。

室町期には、五山・十刹に次ぐ「諸山」格の幕府公認禅宗寺院として存立したが、幕府の勢力が衰えて戦乱の世を迎えると、寺勢は次第に衰退していった。戦国末期の天正6年(1578年)ごろ、建長寺派から妙心寺派に転派したが、伊達政宗が再建を決した頃は極度の荒廃ぶりを見せ、虎哉宗乙禅師著「松島方丈記」には当時の様子が「仏宇僧廬(仏像・堂宇・僧侶・草庵)尽廃壊」と書かれている。

  

伊達政宗、瑞巌寺を建立

伊達氏と禅宗との関わりは古く、鎌倉末期の四代政依まで遡る。政宗の父輝宗は、美濃国(岐阜県の南部)から虎哉禅師を米沢に招いて資福寺を中興開山させ、梵天丸(政宗の幼名)の学問の師に据えた。輝宗の死後、政宗は、父の菩提を弔うために虎哉を開山として覚範寺を建立している。

こうした禅宗との関わりを背景に、政宗は、慶長9年(1604年)8月15日、自ら縄張りをして円福寺の再興に着手し、足掛け5年の歳月をかけ、慶長14年(1609年)3月26日に完成させた。次の「木村宇右衛門覚書」に、政宗の瑞巌寺建立に込めた思いと松島に対する心情が綴られている。

松島は後世菩提のためなり。そのかみ相模の平将軍時頼公、円福寺の大伽藍たてられ、法身和尚の開山也。此法身和尚は入唐して(実際は「宋」)径山無準和尚の宗風を継きへたる人也。然るとはいへども、年久しき事なれば、ことごとく仏寺僧廬廃壊するを、紀州熊野山より数千里の海上を取くだし、円福寺の廃禅をあらため、瑞巌の大伽藍をたてて、海晏和尚を住持とす。菩提のため建つる寺なれば、士人一人憂うる心なき様にとかたく制し、諸細工人は申すにおよばず、人足等に至るまで心にかなふ様に物をとらせ、例えば陸地をはきたる草履、草鞋にては上にあがらぬ様に新しきをはかせ、釘かすがいにいたるまで、上より陸地に落ちたるを又ひろいあけぬ様にと制し、諸人此寺成就せん事を願ひ喜ぶようになれば、末久しくて菩提のため也。
およそ此松島は日本第一の霊地ならん。四囲みな山也、山の間みな海也、海中に数百の島あり。山のほとりには若干の人家軒をつらね、その風景愛すべし、楽しむべし。唐土西湖三万六千頂か、いつみてもはじめてむかふやふにおぼえ侍り。ある人の歌に松島や小島いかにと人とはば何とこたへんことの葉もなし、とよめり。ちかきほとりに宮戸島つづけり。古今集に、沖の井で身をやくよりもかなしきは、みやと島の事なりとの給ふ。 (木村宇右衛門覚書)


瑞巌寺は、本堂(方丈)と庫裡を配置する禅宗伽藍で、御成門と中門を太鼓塀でつなぎ、中庭から見て、正面に本堂、右に庫裡と廊下、左に玄関が造られている。造営にあたっては、紀州熊野から海路で用材が運ばれ、京都から名工130人が集められたという。本堂内部は桃山様式の粋を尽した作りで、彫刻や襖絵は絢爛豪華、総欄間の彫刻は極彩色で飾られている。

瑞巌寺完成の翌年、虎哉の推薦で越前法泉寺から第96代住持として海晏和尚が招聘された。寺院名は「青龍山円福禅寺」から「松島青龍山瑞巌円福禅寺」に改められた。寺号の「瑞巌」は、慶長13年(1608年)鋳造の大鐘に記された虎哉の撰文「号山曰松島名寺曰瑞巌」に因るという。

古徳云、坐水月道場、修空華万行、降鏡像天魔、成夢中仏果、抑大檀越黄門侍郎伊達藤原政宗公、建梵刹己竟、号山曰松島名寺、曰瑞巌、蓋松島者天下第一之好風景、而瑞巌者日本無雙之大伽藍也、公命匠人鋳一大鐘、以寄附于瑞巌精舎、就余請其銘、綴拙語応其需、銘曰、輪奐美哉殿閣連、蒲牢高吼白雲嶺、気清天朗接尊宿、月落潮平到客船、殷殷海*孤絶処、声々山寺夕日辺、従拈華暁称迦葉、礼楽縦横億万年 (瑞巌寺大鐘の撰文)

  

政宗の死と雲居禅師の来松

慶長16年(1611年)、虎哉と海晏が相次いで没し、以降5年間、海晏を継ぐ住持を迎えられず無住となったが、元和2年(1616年)に月叟玄良が第97代住持として入山した。その後、第98代碧堂智崔を迎えたが在職1年で没し、以降10年間、瑞巌寺は無住となった。

寛永13年(1636年)、政宗はこうした状況を嘆き、虎哉の孫弟子洞水に住持を懇請したが、洞水は若年を理由に断り、代わりに雲居禅師を推薦した。政宗は二度にわたって雲居に使者を遣わし入山を要請するがこれに応じず、三度目に洞水を使者として遣わすことなった。しかし、雲居の返答を聞くことなく政宗は70年の生涯を閉じた。雲居は、同年8月21日、ついに政宗と二代忠宗の強い願いを聞き入れ第99代として来松し、翌月、政宗の百ヶ日忌を営んだ。

以下は松島瑞巌中興大悲円満国師雲居和尚年譜」の寛永13年(1636年)の条からの抜粋である。

師五十五歳。此の夏、仙台中納言政宗、千里に使を遣わし、師を松島に請するも辞して来らず。其の歳、政宗逝去す。嗣君忠宗、先考の遺意を以て、再び福浦の洞水初首座に和会して書使を具え、花園智勝院の単伝和尚に寄せて、勝尾三請の義を助発せしむ。師、再三辞譲するも拒むこと能わざるをしいられ、了に服す。

           

雲居禅師について

雲居禅師は、天正10年(1582年)、伊予国上三谷(愛媛県伊予市)に生まれる。父は小浜左京で、土佐一条家兼定に仕えた。天正2年(1574年)、兼定は長宗我部元親との勢力争いに破れ、豊後に追われた。翌年、兼定は領地回復を狙い渡川(四万十川)で元親と戦ったがこれに失敗し、宇和島港外の戸島に身を隠した。

天正10年、左京が、道後(雲居年譜に「遂去国往筑紫、又移伊予道後」とある)で養生中の兼定を見舞うため身重の妻を差し向けたところ、途中で産気づき、三谷の毘沙門堂で雲居を出産したという。

雲居は、9歳にして宇山の太平寺に預けられ小僧となった。15歳のときに父と死別し、翌年、太平寺の真西堂如淵が、正式に出家した雲居を連れて上洛し東福寺に入った。

その後、二人は東福寺を出、真西堂は賢谷宗良に名を変えて京都大徳寺に入り、雲居は妙心寺山内の蟠桃院で一宙東黙に師事した。蟠桃院は、秀吉晩年に五奉行の一人となった前田玄以を開基、一宙東黙を開祖として、慶長6年(1601年)に創建された。前田玄以が没した後、伊達政宗がこの蟠桃院の大檀那となっている。

慶長12年(1607年)、雲居は、愚堂ら6、7人と行脚に出て、仙台の虎哉宗乙に会っており、元和元年(1615年)以降も、若狭国小浜、伊予国松山、奥州会津若松、伊豆熱海、摂津・勝尾山などへ行脚を続けた。そして、度重なる要請を受け瑞巌寺の住持となったのは、雲居禅師55歳のときだった。

  


【 参考文献 】 

松島町史 通史編1・2 資料編 1・2

堀野宗俊著「瑞巌寺の歴史」(瑞巌寺刊)

平野宗浄著「雲居和尚年譜」(思文閣出版刊)


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第2集 芭 蕉 と 松 島
スタートページ

Copyright(C) 1998-2002  LAP Edc. SOFT.  All Rights Reserved.
 
Maintained online by
webmaster@bashouan.com