金華山と「心細き長沼」について

金華山について

「おくのほそ道」に、「『こがね花咲』とよみて奉たる金花山」の記述がある。「金花山」は、今は金華山と書き、牡鹿半島突端の東南に浮かぶ周囲26km、面積10平方kmの島である。島内にモミやブナなどの巨木が生い茂り、神の使いとして保護されてきた野生のニホンジカが450頭ほど、ニホンザルも60頭余が生息している。

金華山は、古来霊場の島として知られ、港の桟橋から北へ行ったところに金山毘古神と金山毘売神を祭る黄金山神社が鎮座する。神社や島の名称から、金華山が産金の島だったと思われがちだが、当地で金が採れたという記録はなく、天平のころ日本で初めて陸奥の涌谷(宮城県涌谷町)で産金し朝廷に献上したとき、当地に黄金山神社が創建されたというのが、名に「金」をいただく由来となっている。
   
次に記す万葉集の巻十八・大伴家持「陸奥国に金を出だす詔を賀く歌」は、大伴家持が産金を祝し朝廷に奉った長歌で、それに付された反歌「天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く」を踏まえ、芭蕉は「『こがね花咲』とよみて奉たる金花山」と「おくのほそ道」に記した。しかし、大伴家持によって「金花咲く」と詠まれた「東なる」地は、金華山ではなく涌谷の里だった。

万葉集 巻十八・大伴家持「陸奥国に金を出だす詔を賀く歌」
陸奥国に金を出だす詔を賀く歌一首并せて短歌
葦原の 瑞穂の国を 天降り 知らしめしける 皇祖の 神の命の 御代重ね
天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を
広み厚みと 奉る 御調宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大君の
諸人を 誘ひたまひ 良き事を 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして
下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ
御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に
かかりしことを 朕が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら
思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も
女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み
嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて
仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは
せじと言立て ますらをの 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもそ
大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に
まつろふものと 言ひ継げる 言の官そ 梓弓 手に取り持ちて 剣太刀 腰に取り佩き
朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじと いや立て
思ひし増さる 大君の 命の幸の 聞けば貴み
反歌三首
ますらおの 心思ほゆ 大君の 命の幸を 聞けば貴み
大伴の 遠つ神祖の 奥つ城は 著く標立て 人の知るべく
天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 金花咲く
天平感宝元年五月十二日に、越中国守の館にして大伴宿祢家持作る
(日本古典文学全集)

  

「心細き長沼」について

芭蕉一行が旅した一関街道は、河北町の飯野川橋を越えるあたりから登米到着までの間、山あいを貫く北上川の流路に従い、16kmもの道程を長々と南北方向に伸ばしている。「おくのほそ道」本文の「遥なる堤を行」や曽良日記の「此間、山ノアイ(間)」を実感できる道筋である。

漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。(おくのほそ道)

十一日 天気能。石ノ巻ヲ立。宿四兵ヘ、今一人、気仙ヘ行トテ矢内津迄同道。後、町ハヅレニテ離ル。石ノ巻、二リ鹿ノ股(一リ余渡有)、飯野川(三リニ遠し。此間、山ノアイ、長キ沼有)。曇。矢内津(一リ半。此間ニ渡し二ツ有)。戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。検断庄左衛門。 (曽良随行日記)


この区間に、「芭蕉公園」と称される広場がある。命名は、芭蕉が足跡を残した所縁の地であるほかに、そのむかし、当地に、「おくのほそ道」本文に「心細き長沼」と書かれた沼があったことに因んでいる。

この長沼は、仙台藩藩祖伊達政宗に挙用された川村孫兵衛が、元和9年(1623年)から寛永3年(1626年)にかけて北上川などの改修工事を行った際、川筋の変更により、流域の一部が沼となって残ったものと考えられている。

長沼の名を「合戦ケ谷沼(合戦谷沼)」と言い、古地図によれば、東西300m、南北1500mにも及ぶ、巨大で、細長い沼だったという。生い茂る野の草で縁どられ、影を濃くした山間に、鏡面たる水面(みなも)を見る沼辺の景は、「心細い」の形容こそ相応しい風致を呈していたのだろう。

長沼を修辞したこの言葉は、短いながらも、石巻の旅を象徴するキーワードであり、その余韻を心に残しながら、「おくのほそ道」最大の山場となる平泉の章段に誘(いざな)われることとなる。

なお、「合戦ケ谷沼」は、大正末期に行われた新北上川開さく工事で河川の一部となり、今は、北上大堰の上流峡谷の地形に、その面影をわずかに残すのみとなっている。

芭蕉公園 説明板に描かれた合戦ケ谷沼(合戦谷沼)の絵 北上大堰


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第20集 芭 蕉 と 石 巻
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