芭蕉が歩いた一関への道



登米の芭蕉一宿の地付近


涌津を走る一関街道


芭蕉一行が渡った金流川


旧宿駅・金沢を走る一関街道


大槻集落の風景


日向集落の風景


五合田の芭蕉行脚の碑


導心塚杉


元禄2年(1689年)5月12日(新暦6月28日)、芭蕉一行は曇天の中、登米の宿を旅立ったが、途中、雨模様となり、一関到着時は「合羽モトヲル」(曽良随行日記)ほどの豪雨となっていた。

当日の道順については、昭和53年(1978年)に、岩手県が、県内の「おくのほそ道」の旅の経路調査を行い、その報告書の中で一関までの道順が説明されているので、これを参考に上の地図を描き、一行の足取りを追ってみた。

登米大橋近くの土手上に芭蕉一宿の碑がある。これは、もと検断庄左衛門の屋敷跡にあったもので、大正元年(1912年)の北上川改修工事で跡地が堤防に埋もれたため、昭和になって現在地に建て直されたものである。芭蕉は12日の朝、この一宿の地から一路、一関を目指し街道を北へと旅立って行った。

十二日 曇。戸今(登米)を立。三リ、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ、安久津(松島ヨリ此迄両人共ニ歩行。雨強降ル。馬ニ乗)一リ、加沢(金沢)。三リ、皆山坂也。一ノ関黄昏ニ着。合羽モトヲル也。宿ス。(曽良随行日記)

一行は、雨模様の中、上沼新田町(現在中田町)、涌津(花泉町の内。日記で「安久津」)と歩みを進めたが、次第に雨脚が強くなり、歩行困難のため涌津からは馬に跨っての道行きとなった。

当時、一関へ行くには、金沢宿への入り口近くで金沢川(今金流川)を徒渡りし、大槻を経て大門に出る一関街道が通常の道筋だった。

しかし、芭蕉一行は、大槻・大門間の川越えが増水で不能となったため、一関街道を選択することができず、止む無く、大槻から日向に抜ける「皆山坂」の道を行くことになったと考えられている。

こうして、五合田を経て導心塚杉に出、牧沢、燕沢、中屋敷、細田の集落を通過し、激しい雨の中、ようやく一関にたどり着いた。

芭蕉は「おくのほそ道」の中で「戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ」と、さらりと筆を走らせたが、実際は、馬上ながら雨中、悪路の山越えを強行する至難の旅だった。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第20集 芭 蕉 と 石 巻
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