石巻を訪れた背景を考える
旧北上川河口 元禄2年(1689年)5月10日(新暦6月26日)、芭蕉と曽良は快晴の中、瑞巌寺門前の久之助の宿を離れ、平泉を目指した。

松島から平泉へ行くには2通り道筋がある。1つは石巻街道と一関街道を利用し石巻・登米を経由するルートで、もう1つは、松島から大和町の吉岡まで歩いて奥州街道に入り、古川・金成の両宿を経て一関に入る経路である。
  
松島以降の旅程については、曽良が「おくのほそ道」の旅を前にして綿密に調べていたことが「名勝備忘録」から窺える。それは、後者の古川・金成を経由するルートであり、備忘録に次のように記されている。ちなみに、古川(大崎市)は「おくのほそ道」の中に記された歌枕「緒絶の橋」の地であり、金成(栗原市)は、歌枕「姉歯の松」の地である。

松島。(三リ半)大松沢、(二リ半)三本木。是ニテ南部へ。仙台ヨリノ道に出合。古川、緒絶橋有。荒ヤ町(此辺ニテ野々たけ見ユル)、高清水、月舘(此辺姉ハ村ヘ近シ)、宮野辺沢、金成、有カ辺(有壁)、一関(一リ)。山ノ目、松島ヨリ一ノ関迄二十リ程。(名勝備忘録)

「おくのほそ道」の旅は、五百年忌を迎えていた西行をはじめとする古の歌人の足跡を訪ねる歌枕探訪の旅であり、また、31歳にして露と消えた悲運の将・源義経を追慕する旅でもあった。「義経記」によれば、その源義経が平泉を目指した経路が、「名勝備忘録」にある古川・金成経由なのである。

かくて夜を日についで下り給ふ程に、武隈の松、阿武隈川と申す名所々々を過ぎて、宮木野(宮城野)の原、躑躅の岡を詠めて、千賀の鹽竈へ詣で給ふ。あたりの松、籬の島を見て、顕仏(見仏)上人の旧跡松島を拝ませ給ひて、紫の大明神(現在は紫神社。松島町高城)の御前にぞ参り給ひ、御祈誓申させ給ひて、あねはの松を打ち眺め、栗原にもつき給ふ。(義経記)

これらのことから、芭蕉が望んだ旅のルートは、石巻とは逆向きに進んで合流する奥州街道だったように思われる。では、芭蕉一行はなぜ石巻に足を踏み入れることになったのか。

その経緯を「おくのほそ道」の本文から読み取れば、平泉を目指したときに、途中、姉歯の松・緒絶の橋などがあると聞いたので(古川・金成を経由するルートで奥州街道から)行こうとしたが、人の通った跡もまれで、猟師や芝刈りなどが行き来する、どこともわからない道に入ってしまい、ついには道を誤まって・・・、ということになる。

十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。 (おくのほそ道)

しかし、これについては、曽良の随行日記から虚構であることが明らかになっている。それは、当日の行程が「馬次、高城村(間廿丁計)、(是ヨリ桃生郡)小野(弐里半)。石巻(四里余)。仙台ヨリ十三里余。」と記録されているからで、集落間の距離と高城・小野・石巻を経由したことをあわせて考えれば、芭蕉が通った道は、金華山、石巻港に通じる石巻街道に絞られる。すなわち、芭蕉一行は、道を迷いようがない往還道から、意図して石巻に入ったのである。

この往還道が「人跡稀」だったはずがなく、道迷いや里人によって疎外される描写は、章段全体を「こころ細いみちのくの旅」として描写するための文学的虚構と見られ、「おくのほそ道」全体を通して最大の山場を迎える平泉の章段の序幕と受け取られる。

それでは、なぜ芭蕉が石巻経由の道を選択したのか。これを仙台の旅まで遡って考えてみたい。仙台には 15年間を松島、仙台で過ごし仙台俳壇の基礎を築いた俳人大淀三千風がいた。三千風は、仙台藩四代藩主伊達綱村が領内にある名所、旧跡を再整備した時に、核となってその役割を果した人物である。

歌枕の再整備は、いつしか省みられなくなった歌枕を掘り起こし、領内に定着させる形で全国的に行われたが、一部には、資料・文献の乏しさから不確定のまま領内の名所に関連付けられたものもあり、該当地が重複してしまっている歌枕も少なくない。

芭蕉と三千風は面識はなかったようだが、三千風が撰集「松島眺望集」を著す折に発句を請われ、「武蔵野の月の若ばへや松嶋種」の句を書き送った間柄である。芭蕉は、仙台において三千風との出会いを期待したが、三千風は既に仙台を旅立った後で、その機会は得られなかった。

三千風門下の一人に、芭蕉をして「風流のしれもの」と言わせた画工加右衛門がいる。加右衛門は、歌枕再整備の時のメンバーであったことから、仙台近郊の歌枕には人一倍造詣が深かったものと思われ、然して加右衛門は、一行が仙台を離れる前日、芭蕉と曽良を再整備された歌枕の見物に誘い、玉田、横野、つゝじが岡、木の下などを終日案内して廻った。

大淀三千風が石巻の歌枕を再整備したかどうかは不明だが、住吉公園にある「巻石」を地名「石巻」のルーツであると初めて世に伝えたのが三千風であり、「松島眺望集」の中の「石巻。川中に大きな岩あり、此かげ浪巴をなせり、此故に此名有。」が文献初出とされている。さらに、「即袖の渡り也。川はら五丁余、川上にまのゝかやはらあり。」と続け、石巻の歌枕を全国に喧伝している。

このことと、三千風の俳諧基盤が石巻にまで及んでいたことが見込まれることから、石巻に存している歌枕が三千風やその門弟らによって再整備された可能性が高く、加右衛門がこれらの歌枕の定着を願い、芭蕉に強く石巻訪問を勧めたことが推測される。

芭蕉は、塩釜や松島の宿を紹介してもらった恩義などから、加右衛門の勧めに応じ、石巻経由で平泉を目指すことにしたものの、経路選択についての「心の迷い」を払拭することができず、これを本文の中で「道の迷い」に転化させてしまった可能性も窺えるのである。

もし、そうした事情によって芭蕉が石巻を訪れたのであれば、袖のわたり(袖の渡り)、尾ぶちの牧(尾駮の牧)、まのゝ萱はら(真野の萱原)は、芭蕉が「おくのほそ道」に叙したことによって広く知られるところとなり、加右衛門の望みは、十二分に果たされたことになる。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第20集 芭 蕉 と 石 巻
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