「石巻」の章段に書かれた歌枕について
「おくのほそ道」の石巻の章段には、次のように歌枕の数々が記されている。芭蕉が思いを寄せ、多くの歌人に親しまれたこれらの歌枕には、既に原風景が風化したものや興味深い逸話を今に伝えるもの、地元の人々の努力によって手厚く保護されているものなどがあり、さまざまな様態を示しながら21世紀を迎えている。

十二日、平和泉と心ざし、あねはの松緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更宿かす人なし。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり尾ぶちの牧まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。 (おくのほそ道)


   
あねはの松(姉歯の松)

 

歌枕「姉歯の松」は、伊勢物語の中で、みちのくから京に戻ろうとしていた主人公(在原業平)が土地の女性を詠んだ次の歌で広く知られる。

「伊勢物語」
栗原のあねはの松の人ならば都のつとにいざといわましを


金成(かんなり)町の姉歯地区がこの歌枕の地で、迫川と三迫川が合流する付近に植え継がれた姉歯の松が見られる。この松は武隈の松(宮城県岩沼市)、阿古耶の松(山形市)、末の松山(宮城県多賀城市)とともに奥州の名松にあげられ、松の傍らには文化2年(1805年)に建立された歌碑と明治30年(1897年)建立の「姉歯松碑」がある。歌碑には、業平の歌のほかに次の3つの歌が万葉仮名で刻まれている。

かくばかりとしつもりぬるわれよりもあねはのまつはおひぬらむかし 祐挙

(かくばかり年積りぬる我れよりも姉歯の松は老いぬらんかし)


ふるさとのひとにかたらむくりはらやあねはのまつのうぐひすのこゑ   長明
(ふるさとの人に語らん栗原や姉歯の松の鶯の声)


くりはらやあねはのまつをさそひてもみやこはいつとしらぬたびかな   秀能
(栗原の姉歯の松を誘いても都はいづと知らぬ旅かな)



姉歯の松には、小野小町と在原業平にまつわる話や松浦佐与姫にまつわる話も伝えられるが、ここでは采女として選ばれ旅の途中で命を絶った朝日姫の話を記しておく。


用明天皇のころ、全国から宮中の女官・采女(うねめ)を募り、陸奥国から選ばれたのが気仙郡高田の里(岩手県高田市)の武比長者の娘朝日姫だった。朝日姫は都に上がるときに慣れない船旅で体をこわし、陸路で都を目指すことになったが、姉歯の里にたどりついたころ重態となりついに絶命した。里人は朝日姫を不憫(ふびん)に思い、墓をつくって懇(ねんご)ろに葬った。その後、妹の夕日姫が代わりに都に上がることになり、夕日姫は、旅の途中姉の墓に立ち寄って供養のために岩蔵寺を建立し、墓に松を植えた。里人はこれを姉歯の松と呼び後世に伝えたという。
(金成町史などより)

旧金成町提供の「姉歯の松」の写真


   
緒だえの橋(尾絶の橋)

 

歌枕「緒絶の橋」は、中古三十六歌仙の一人・左京大夫藤原道雅の歌が後拾遺和歌集に入集し、広く知られるところとなった。

「後拾遺和歌集」 左京大夫藤原道雅
また同じ所にむすびつけさせ侍ける
みちのくのをだえの橋やこれならんふみみふまずみ心まどわす

緒絶の橋には、「嵯峨天皇の寵愛を受けていたおだえ姫が、皇后の嫉妬から左遷され、失望した姫はこの橋から入水して果てた」という悲恋物語が伝えられ、「緒絶の橋」は古来より悲恋の歌枕として多くの歌に詠み込まれた。


源氏物語 「藤袴」
妹背山ふかき道をは尋ねずて緒絶の橋にふみまどひける


「続千載和歌集」 亀山院御製
恋の心をよませ給うける
うき中はあすのちぎりもしら玉のをだえの橋はよしやふみみじ


「新千載和歌集」 藤原定家
名所百首歌たてまつりける時
ことの音も歎くははる契とてをだえの橋に中もたえにき


「新続古今和歌集」 藤原定家
後京極摂政前太政大臣家歌合に、寄橋恋
人心をだえの橋にたちかへり木のはふりしく秋の通路

「おくのほそ道」の旅で芭蕉が心を寄せた緒絶の橋は、大崎市役所(古川総合支所)の西を流れる緒絶川にかかる小さな橋で、畔に道雅の歌碑が建てられている。

平成12年に、東北郵政局が「21世紀に私たちが伝えたい東北のもの」を自然、祭り、建造物、民芸品などから募集したところ、地元の市民団体の働きかけもあって歌枕の地「緒絶の橋」が1位となり、山形県の「蔵王の樹氷」、象潟町の「九十九島」、八森町の「ハタハタ」、横手市の「かまくら」がこれに続いた。


   
袖のわたり(袖の渡り)

 

袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、・・・」と「おくのほそ道」に書いてあるので、芭蕉は袖の渡りに行っていないと解釈されそうだが、芭蕉が参詣した住吉神社の前が袖の渡りの地であるから、実際は視野に入れたことになる。

帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。
(曽良事項日記)

歌枕「袖の渡り」は平安中期ごろ既に成立しており、当時の歌人清少納言や相模は次のように詠んでいる。

「清少納言集」
さねかたのきみの、みちのくにへくたるに
とこもふちふちもせならぬなみた川そてのわたりはあらしとそおもふ

「新後拾遺和歌集」 相模
題しらず
みちのくの袖のわたりの涙がは心のうちにながれてぞすむ

旧北上川の河口付近に南北に長い島「中瀬」があり、その北端の先に袖の渡りの標柱が建つ住吉公園がある。袖の渡りは金華山道の渡し場だったところで、公園には句碑や歌碑などの碑が林立している。

金華山道は、文字通り金華山(大金寺)への参詣路として使用された街道で、仙台から塩釜、松島、石巻を経て牡鹿半島の西海岸を通り、半島突端の山鳥渡から海路で金華山と結ばれていた。


石巻市内の七十七銀行穀町支店前に建つ金華山道の道標

源義経が頼朝の追手から逃れ平泉に向かうときに、当地から舟に乗って一関に渡り、船賃として袖をちぎって船頭に渡したという逸話が伝えられている。この義経伝説は、歌枕「袖の渡り」の謂れとして語り継がれているが、上述のように、歌枕の発生起源は義経以前である。


袖の渡りの関連写真


   
尾ぶちの牧(尾駮の牧)

 

「尾ぶち(の牧)」は、平安のころ馬の牧場が歌枕になったもので、次の歌ではともに「をぶちの駒」として用いられている。

「後撰和歌集」 読み人しらず
男のはじめいかに思へるさまにか有りけむ、女のけしきも心とけぬを見て、あやしく思はぬさまなる事といひ侍りければ
陸奥のをぶちの駒も野飼ふには荒れこそまされ懐くものかは

「後拾遺和歌集」 相模
橘則長父の陸奥の守にて侍りけるころ馬にのりてまかり過ぎけるを見侍りて、男はさも知らざりければまたの日つかはしける
綱たえて離れ果てにし陸奥のをぶちの駒を昨日みしかな

歌枕「尾ぶち(の牧)」の地は、旧北上川の東岸にある海抜250mの霊境、牧山の山麓だったとされ、その山頂にある零羊崎(ひつじざき)神社には、上の後撰和歌集
の歌と「尾ぶちの牧 おくのほそ道」の文字を刻む標柱が建っている。また、曽良の名勝備忘録には「尾駮(ぶち)御牧。石ノ巻ノ向牧山ト云山有。ソノ下也」とある。

縁起によれば、零羊崎神社は豊玉彦命を祭神とし、今から1800年ほど前の応神天皇2年、神功皇后の勅願により涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)の名を授かり東奥鎮護のため牡鹿郡龍巻山(たつまきやま)に祭られた。

「涸満瓊別神」は、干潮・満潮を別ける神を意味し、後に、この神名が零羊崎になり、龍巻山の龍が除かれ牧山となったという。江戸時代、米を運搬した千石船は、航行ごとに海路の安全を零羊崎神社に祈願したといい、現在も、漁船乗組員や農業、商業を営む人々の崇敬を集めている。


尾ぶちの牧の関連写真


   
まのゝ萱はら(真野の萱原)

 

歌枕「真野の萱原」の発生起源は万葉集で、奈良時代にまでさかのぼる。

「万葉集」 笠女郎
笠女郎(かさのいらつめ)、大伴宿祢家持に贈る歌三首(中の一)
陸奥の真野のかや原遠けども面影にして見ゆといふものを

(注)「かやはら」は「草原」とも表記される。


下記の南北朝・室町時代の撰集にもこの歌枕を扱った歌が見られるが、このように歌枕は永きにわたって親しまれ詠み継がれたが、その大部分は時代とともに景観から姿を消し伝説化していった。そして今、多くがそうであるように、「真野の萱原」もゆかりの地が複数存在している。

「新拾遺和歌集」 大江忠広
冬の歌中に
冬枯のまののかや原ほに出でし面かげみせておける霜かな

「新続古今和歌集」 中務卿宗尊親王
月前旅行を
古郷の人の面かげ月にみて露わけあかすまののかやはら

石巻市の真野・萱原地区は、古くから萱や葦や荻の生育地で、「おくのほそ道」に書かれた「まのゝ萱はら」はこの萱原地区とされている。当地の長谷寺(ちょうこくじ)参道入口に、「真野萱原伝説地」の文字と、藤原定家の「露わけむ秋の朝気は遠からで都は幾日まのの葦原」の歌を記す木製の標柱が建てられている。

長谷寺は山号を舎那山とする曹洞宗の寺院で、創建は奥州藤原三代秀衡とされ、山号は、源義経が頼朝の平家追討の旗揚げの際、郎党とともに武運を祈願したことから、義経の元服前の遮那王にちなみ舎那山としたとも言われる。

萱原地区の東方、北上川(追波川)河川敷に自生する萱の光景
石巻「真野の萱原」関連写真

一方、福島県相馬郡鹿島町の真野川流域を歌枕の地とする説もある。鹿島町は、笠女郎が詠んだ「陸奥の真野のかや原遠けども面影にして見ゆといふものを」を掲げ、「万葉の里かしま」をキャッチフレーズにした町づくりを行っている。

真野川河口付近の桜平山公園には笠女郎の歌碑(碑文は「みちのくの真野のかや原遠けども面影にしてみゆというものを」)が建ち、付近の万葉植物園には歌枕「真野の草原(かやはら)」を今に伝える萱が植栽されている。


鹿島町提供の資料


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第20集 芭 蕉 と 石 巻
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