芭蕉について
 

「南部道遥にみやりて」と記した心情をさぐる

「おくのほそ道−出羽越え」の章段の冒頭に「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。」の行(くだり)がある。この「南部道遥にみやりて」に、芭蕉はいかなる想いを込めているのだろうか。

「南部道」について触れておけば、これは盛岡方面に通じる南部街道であり、五街道の一つ奥州街道を白河から青森・三厩(みんまや)まで延長して捉えれば、「南部道」は奥州街道と同じ道筋となる。

奥州街道は、日本橋から宇都宮を経て奥州・白河に至る街道で、宇都宮までは日光街道と重複する。これと、白河から三厩(みんまや。青森県)まで延びる街道を一続きにして奥州街道とする場合がある。(芭蕉と日光「日光へ続く街道と日光までの芭蕉の足跡」より)。

まず、芭蕉が「北上川南部より流るゝ大河也。」(平泉の章段)、「南部口をさし堅め、・・・」(同)、「南部道遥にみやりて」と、「南部」に心を寄せた事情を考察すると、この「南部」の先には、天養元年(1144年)、奥州・出羽方面に旅立った西行が、「むつのくの奧ゆかしくぞ思ほゆる壺の石文外の浜風」の歌を遺した「外ヶ浜」がある。

「おくのほそ道」の旅の発端の1つに歌枕の探訪があり、したがって、芭蕉は津軽半島東岸(三厩の先)の外ヶ浜までの旅を強く希望したが、健康の不安から断念せざるを得なかった。このときの心情が「幻住庵記」の中で次のように吐露されている。

猶うとふ啼そとの浜辺より、ゑぞが千しまをみやらむまでと、しきりにおもひ立侍るを、同行曽良何がしといふもの、多病いぶかしなど袖をひかゆるに心たゆみて、きさがたといふ処より越路におもむく。(幻住庵記)

猶、うとう(ウミスズメ科の海鳥)が鳴く卒都の浜辺から蝦夷の千島が見えるところまで行きたいと、しきりに考えたのだが、同行の曽良が、病気が気がかりと袖を引いて引き止めたので、心がゆるんで、象潟というところから越路におもむいたのだった。

南部道遥にみやりて」の表現は、こうした経緯により、歌枕・外ヶ浜に心を残しながら岩出山に至った無念さを潜在させたものと思われるが、芭蕉の思いはこればかりではあるまい。

それは、平泉の里における感動が、流れ行く月日を永遠の旅人に見立て、盛衰を繰り返す人の世も又旅であるとする「おくのほそ道」の主題を通して得た最大の感動だからであり、こうした視点から「南部道遥にみやりて」の九字を鑑賞すれば、これは、前日の心の高鳴りを余韻として残すフレーズと言ってもいいだろう。

南部道遥にみやりて」の位置については前日訪れた平泉とする見立てもあるようだが、「岩手の里に泊る。」までの時間的隔たりを考えれば、「一関で奥州街道に入ってから奥州上街道に踏み出すまでの間」と考えるのが妥当だろう。

しかし、須賀川や石巻の章段におけるように鳥瞰的に眺めての叙述であれば、その位置は岩出山の宿に到着した後であっても構わないし、むかしは一関からの道中、栗原郡の祠堂ヶ森で束稲山を直接見晴らすことができたそうだから、遥かに見遣った場所をこの祠堂ヶ森と捉えることも可能となる。
  

芭蕉は山刀伐峠で何に怯えたのか

本文の中で、芭蕉が「けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。」と言い、同行の若者が「此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したり」と安堵している。一行は何に怯え、どんな不用のことが予測されたというのだろうか。

芭蕉が歩んだころ山刀伐峠には獣道程度の道筋しかなく、通常の旅ルートから外れていたので、旅人の通行はほとんど無かったと見られてはいるが、まず真っ先に思いつくのが旅人をねらう山賊や追剥(おいはぎ)である。ほかには、今でも出没するクマがいるし、上街道の取材時に見かけたマムシも命を落としかねない怖い存在である。

本文には、対象となるものが明確に記されていないので、いざとなったら「反脇指」を使うほどに怖いものを、このように何でも思い浮かべて構わないということだろう。

この出羽越えの章段と同じく旅の辛苦を表現している章段に、石巻や飯塚の章段がある。これらは、起伏のある筋立てで読者の関心を引こうとした文学的虚構の可能性が高く、特に出羽越えの章段については、内容的にも地理的にも「おくのほそ道」の折り返し点と考えられることから、上記のような「何か怖いもの」に対し、平泉の余韻を払拭してしまうほどの大きな心の揺れを意識的に見せ、次なるストーリーの展開に期待を喚起した、ということになるのだろう。 
  


「おくのほそ道」と出羽越え/曽良随行日記
 

「おくのほそ道」と出羽越え
元禄2年(1689年)5月14日(新暦6月30日)〜5月17日(新暦7月3日)
曽良随行日記<原文> 現代語
一 十四日 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。四リ、一ノハザマ・岩崎(栗原郡也)、藻庭大隈。三リ、三ノハザマ・真坂(栗原郡也)(此間ニ二ノハザマ有。)岩崎ヨリ金成ヘ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。
    
四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山ハ正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也(二リ余)。故、川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓テ又曇テ折々小雨スル也。

中新田町。小野田(仙台ヨリ最上ヘノ道ニ出合)。原ノ町。門沢(関所有)。漆沢。軽井沢。上ノ畑。野辺沢。尾羽根沢。大石田(乗船)
 
岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。
右ノ道遠ク、難所有之由故、道ヲかヘテ、
          
一 十五日 小雨ス。二リ、宮。
 
○壱り半、かぢハ沢。此辺ハ真坂ヨリ小蔵ト云かゝリテ、此宿ヘ出タル、各別近シ。
 
○此間、小黒崎水ノ小島有。名生貞ト云村ヲ黒崎ト所ノ者云也。其ノ南ノ山ヲ黒崎山ト云。名生貞ノ前、川中ニ岩島ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小島也。今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。宮・一ツ栗ノ間、古ヘハ入江シテ、玉造江成ト云。今、田畑成也。
 
一リ半、尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有、断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。 
一リ半、中山。
 
○堺田。村山郡小田島庄小国之内。出羽新庄領也。中山ヨリ入口五・六丁先ニ堺杭有。
 
十六日 堺田二滞留大雨。宿和泉庄や新右衛門兄也。
 
十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。三リ、市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野ゝ五、六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ヘ着。一宿ス。
一 十四日 天気晴れ。一ノ関(岩井郡之内)を立つ。藻庭大隈(茂庭大蔵)の一ノハザマ(三迫)・岩崎(岩ヶ崎)(栗原郡也)まで四里。(岩ヶ崎から)三ノハザマ(一迫)・真坂(栗原郡也)まで三里。此間に二迫有り。岩崎より金成ヘ行く中程につくも橋(津久毛橋)有り。岩崎より一里半程、金成よりは半里程。岩崎より行けば道より右の方也。
 
(真坂より)四里半の所に伊達将監(岩出山三代伊達敏親)の岩手山(岩出山)有り。屋敷も町も平地也。上方の山は正宗(伊達政宗)の初の居城也。杉茂り、東の方、大川也。玉造川(江合川)と云う。岩山也。(岩出山の)入口半里程前より右へ切れ、一ツ栗と云う村に至る。小黒崎見物を予定した為。(しかし小黒崎まで)まだ距離があってこの先二里余。ゆえに川に添って岩出山に取って返し日暮れる。岩手山に宿す。真坂で雷雨に合う。すぐに晴れるが、にわかにまた曇って折々小雨降る。
 
【岩出山。】 中新田町(宮城県加美郡)。小野田(仙台より最上への道に出合う。加美郡小野田町)。原ノ町(小野田町)。門沢(関所有り。小野田町)。漆沢(小野田町)。軽井沢(小野田町)。上ノ畑(山形県尾花沢市)。野辺沢(尾花沢市)。尾羽根沢(尾花沢)。大石田(乗船。山形県北村山郡大石田町)。
 
岩出山より門沢まで、近道も有る。
右の道遠く、難所があると聞き経路を変更し、(後記の道筋をたどる。)
 
一 十五日 小雨降る。【岩出山から】宮(下宮。大崎市岩出山)まで二里。
 
○(下宮から)かぢハ沢(鍛冶谷沢。大崎市鳴子温泉)まで一里半。この辺に来るには、真坂から小蔵(小僧。栗原市一迫)経由で(鍛冶谷沢宿へ)真っ直ぐ来れるゆえ<岩出山経由と比べ>各別近い。[地図参照]
 
○此間(下宮と鍛冶谷沢の間)、小黒崎・水ノ小島(美豆の小島)有り。名生貞(名生定。大崎市鳴子温泉)と云う村を黒崎と土地の者は云う。その南の山を黒崎山と云う。名生貞の前、川中の岩島に松三本、その外小木が生えて有る。水ノ小島也。今は川原にあり向こう岸に付けている。古は川の中也。宮(下宮)・一ツ栗の間は、古は入江で玉造の江と云ったが今は田畑となる。
 
(名生定から)尿前まで一里半。尿前へ取り付く左の方、川向うに鳴子の温泉有り。「沢子(佐波古)の御湯」と云う。仙台の説也。関所有り、断(事情を説明しただけでは通行)六ヶ敷(むずかしき)也。出手形(通行手形)を用意するべき。
一リ半、中山。
 
○堺田(最上郡最上町)。村山郡小田島庄小国(最上町)の内。出羽新庄領也。中山より(堺田に入って、その)入口五・六丁先に堺の杭が有る。
 
十六日 堺田に滞留。大雨。宿は和泉庄屋新右衛門の兄の屋敷。
 
十七日 快晴。堺田を立つ。一里半、笹森関所有り。新庄領。関守は百姓で、貢(租税)を宥(ゆる)し置く也。笹森。三里、市野ゝ(尾花沢市)。小国という村へ掛かれば回り道と成る故、一バネ(一刎。最上町)と云う山路(山刀伐峠)へ掛かり、此所(市野ゝ)に出る。堺田より案内者に荷を持たせ峠を越す。市野ゝから五、六丁行ったところに関所有り。最上御代官所也。百姓番の関所也。関ナニトヤラ云う村(関谷村。「関屋」とも)也。正厳(しょうごん)・尾花沢の間、村(二藤袋村)有り。ここで野辺沢へ分かれる也。正ごん到着前に大夕立に逢う。昼過ぎ、清風宅へ着く。一宿す。
(2箇所)はの「岩出山」から続く意を表わす。
◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m

 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第21集 芭蕉と出羽越え
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