最上町と封人の家と「蚤虱」の句について
最上町について
  
赤倉温泉 最上町は山形県の東北部に位置し、東は宮城県、北部でわずかに秋田県に隣接し、山形県内においては、新庄市、舟形町、尾花沢市と接している。昭和29年(1954年)に、東小国村と西小国村が合併し現在の町制が敷かれた。「小国」は、周囲が大小の山々で囲まれ、さながら一国を形作るようなこの地形に由来している。

小国の地は、戦国時代、細川氏兄弟によって治められてい

たが、山形城主・最上氏に背いたため、天正8年(1580年)「万騎の原」で滅ぼされ、その後、最上家家臣・小国日向守光忠が小国八千石を支配したものの、元和8年(1622年)の最上家改易にともなって領地を没収され、以降、新庄藩戸部氏が所領した。

近世の新庄領小国郷は、仙台藩伊達領や寛永11年(1634年)に徳川将軍家直轄領となった尾花沢、秋田藩佐竹領に隣接していたことから、新庄藩にとっては、軍事・交通の両面で重要な地域であった。

堺田と「封人の家」について

出羽街道中山越における新庄領と伊達領の境目については、明確な線引きが行われていなかった為に、富沢村(山形県)と中山村(宮城県)との間でしばしば領地争いが生じた。この争いは幕府に仲裁を仰ぐ事態にまで発展し、正保2年(1645年)境界を二村間を流れる大谷川にする約定を取り交わし和解した。こうして大谷川の端に「境分杭」が立てられ国境の目印となった。曽良は、この杭を「境杭有」と日記に記している。この境目は今日も行政区域上の境界となっている。

堺田村は、このころに「仙台江之道筋二而、駅場無之候而ハ甚不都合二付別村二相立」(新庄図書館「御申送書」)という新庄藩の事情により、宿駅や国境警備のために富沢村から独立した村である。

堺田村では、村の庄屋が境を守備する役人に就き問屋役を兼務した。芭蕉が元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)から3日間逗留した家は、こうした役割の庄屋・有路家であった。早坂忠雄著「芭蕉と出羽路」によれば、有路家の祖先は延沢(尾花沢市)の霧山城主であった延沢家の家臣・有路小三郎の一族で、小三郎は元和8年(1622年)に没したが、有路家はそれ以前に堺田に帰農していたという。国境を守る人を「封人(ほうじん)」といったことから、芭蕉は止宿した有路家を「封人の家」と呼び、「おくのほそ道」に次のように記している。

大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

文化庁が江戸時代初期に既に建てられていたと推定している旧有路家住宅は、昭和44年(1969年)に重要文化財に指定され、昭和46年(1971年)6月から2年9ヶ月の歳月をかけて解体・復元工事が行われた。堺田村は新庄藩の保護・奨励のもと馬産地として発展し、有路家もこの大型民家で常時、数頭の母子馬を飼っていたと言われる。
封人の家の平面図   

蚤虱馬の尿する枕もと」の句について

封人の家には一宿の思いで宿を求めたものの、あいにくの雨で翌日の出立を見送り、都合3日間の逗留となった。その間、芭蕉は何をするでもなく時間を過ごし、時おり囲炉裏ばたに姿を見せたりしたのだろう。そうした中、芭蕉の心を強く捉えたのが馬屋(まや)の馬たちだったように察せられる。人馬が一つ家で寝食をともにする生活環境は、この道中で更に馬と因縁を深めた芭蕉にとって大変に興味深く、何度となく馬屋に足を運び、別れを辛くするほどに小馬や母馬と慣れ親しんだように思われる。

こうした中から「蚤虱」の句が生まれたものとして、「蚤や虱に悩まされる旅寝ではあるが、人と住まいを共にする習いの中、馬が枕もとで小便をするというのも心安く趣があるものだ」などと解釈すれば、芭蕉が次のように第二句に何度か推敲の手を入れ、馬たちへの思い入れを漂わせているのも頷ける。

蚤虱 馬のばりこく まくらもと(伊藤風国編「泊船集」)
蚤虱 馬の尿(バリ)つく 枕もと(支考編「俳諧古今抄」)
蚤虱 馬の尿(バリ)する 枕もと(芭蕉自筆本。曽良本)
 
しかし、芭蕉が就寝した部屋は馬屋から10m近く離れた中座敷と見られているので、枕もとで馬が尿をするなどということは考えにくい。誇張または座興といった按配に理解することになろうが、牛や馬が小便する音はかなりなものであるから、夢うつつの中で、10mほど先の音源を枕もとと勘違いしてしまうことはあったかも知れない。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第21集 芭蕉と出羽越え
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