出羽街道中山越を行く
おくのほそ道文学館収蔵
- 尿前の関跡から封人の家まで -

出羽街道中山越は、吉岡宿で奥州街道から分岐し、中新田、岩出山、尿前を経て堺田に至る。この脇街道は、宮城県大崎市鳴子温泉側の史料である「御勝手帳」、「安永風土記御用書出」にもとづき「出羽(仙台)街道中山越」と呼称され、隣接の山形県最上町でも堺田〜笹森間を同様に呼んでいる。ここでは、尿前の関跡から封人の家まで、約8.9qの区間にしぼり、往時の面影を偲んでみることにする。

尿前坂と薬師坂を登って薬師堂跡へ

尿前の関跡

尿前坂

薬師坂 1

薬師坂 2
尿前の関跡から急勾配の「尿前坂」を登って国道47号線に至り、左寄りに横断した先から「薬師坂」を上ると岩手の森に出る。この森は、尿前の関所が坂下に移るまで番所が置かれていた所で、源義経に同道して平泉に下るときに、腹痛を起こした北ノ方が山鳩に救われたという伝説の地であり、そのお礼として義経が弁慶に建立させたという薬師堂の跡地でもある。
鳴子トンネルを越えて小深沢橋の北側へ

町道と合流

右の道が旧道

整備された旧道

右手から坂を下る
旧道は薬師坂を登りきったところで「日本こけし館」から延びる町道と合流し北進する。これを右に100mほど歩くと、斎藤茂吉(1882〜1953)が芭蕉の道を訪ねて詠んだ「元禄の芭蕉おきなもここ越えて旅のおもひをとことはにせり」の碑がある。そのやや先から旧道は町道と別れて直進し、鳴子トンネルの上を跨いだ後、小深沢橋の北側で再び合流する。
斎藤茂吉の歌碑   ○小深沢橋
右手に鳴子スキー場を眺めながら西方に向かい「奥の細道」の道標が建つ小深沢入口に辿り着く。
鳴子スキー場に育つ白樺の若木
せせらぎの音が谷あいに響く小深沢

小深沢の入口

小深沢のV字谷

小深沢へ

小深沢の橋(春)
緩やかな坂道をおよそ200m歩くと小深沢から流れ込む清流が見えてくる。大深沢に次いで難所と言われた小深沢の渡りは、古代から近世の旅人へと受け継がれ、ここを起点に葛折(つづらおり)の道筋の中で繰り返されてきた。安永2年(1773年)の「安永風土記書出」に「小深沢、但右鳴子村ヨリ出羽江之往還二而難所御座候」とあり、「仙台領絵図」に「小深沢歩渡、幅二間、深さ二寸、長さ二町六間、難所御座候」とある。
小深沢の橋(夏)    ○崖上から谷川を眺める
小深沢の西の斜面を登る

石積みの階段

西の斜面を登る 1

西の斜面を登る 2

西の斜面を登る 3
木橋から上を眺めれば登坂(とうはん)を阻むように立ち塞ぐ崖が目に飛び込むが、今は、石積みの階段をゆったりと登っていくことができる。
平坦地に出る

平坦地に出る

憩(いこい)の森

木々を欠いた平坦地

まもなく下り坂
斜面を登り詰めたところから、旧道は数百メートルにもわたり平らに行く先を延ばしている。途中に、濃淡さまざまな緑が目に鮮やかな「憩の森」があり、その一角に神奈川県出身の歌人・前田夕暮(1883〜1951)の「あさかぜにふきあふらるるあおかしのさやくを聞けばすでに春なり」の歌碑がぽつねんと建っている。「憩の森」を抜けると、こんどは木々を欠いた平坦地が広がり、北側に花渕山や大柴山の頂を見晴らせるようになる。
前田夕暮の歌碑
砦の遺構を見て大深沢への斜面を下る

土塁跡

下り口

東の斜面を下る

まもなく大深沢
一棟の建物の前を過ぎたあたりから再び原生林に入り込むが、なおも平坦地が続く。しばらく行くと、森の中に何か違和感を覚える風景に出合う。なんと、砦を築いた土塁や空堀の遺構が道の左右に延びているのである。「安永風土記書出」に「大深沢坂、四丁三十二間、但右出羽江之海道(街道)尿前通第一之坂沢二而登り下り拾丁、軍用之所二御座候」とある。道中最大の難所大深沢は、古くから敵の東進を阻む軍用地として利用され、戊辰の役の際は、小深沢にも仙台伊達藩や岩出山藩から警備に出ていたという。
遺構が見られる地点から左へ右へ向きを変えながら山腹を下っていくと、せせらぎの音がどこからともなく聞こえ、歩を進めるにつれ次第に音量が増していく。花渕山と大柴山が織り成すV字の谷・大深沢を下る清流の響きである。
緑色の光輝く大深沢

大深沢に架かる橋

昔は飛石を踏んで・・

苔むした岩

大深沢の景観
芭蕉が訪れた当時、大深沢はどのような景観を呈していたのだろうか。とにかく美しい。目に眩しいほどの緑があたり一面に輝きを放っている。重く響き渡る蝉の越えも水音と調和して耳に心地よい。
せせらぎの中の飛石や、自然が織りあげたモスカラーの絨毯には、困難を極めながら峠を越えた、いにしえ人の汗が沁み込んでいる。
大深沢から西の斜面を登る

西の斜面を登る

東屋が見えてくる

緑のトンネルを抜ける

坂道を見下ろす
折れ曲がる度に様々な景観を見せながら続く峠越えの道。本のページをめくるように、映画の次なるシーンを観るように展開される自然の造形美を堪能しながら、大深沢渡りの旧道を行く。
東屋
平坦地に出る

峠道に至る

青面金剛童子碑

旧道脇の水子地蔵

国道47号線に合流
沢の西側に幾重にも続いている坂道を登り、大深沢を踏破する。坂が切れると旧道は平坦な峠道となり、小さな集落を過ぎたところで国道47号線に合流する。途中、右方の路傍に「青面金剛童子碑」が見られる。「青面金剛童子」は、民間で行われる庚申会で守り本尊として祭られるもので、当夜眠ると人体に棲む「三尸虫(さんしちゅう)」がその人の罪を天の神に伝えるとされ、これを防ぐため地区の人々が一軒の家に集まり、寝ないで一夜を過ごしたという。
中山宿跡から軽井沢へ

中山宿跡

旧道沿いの杉並木

西原地区を行く 1

西原地区を行く 2
中山平温泉郷を左に見て2kmほど国道を行くと、道の右側に「宿」という名の集落が見えてくる。ここが寛永年間(1624〜1644年)に設置された中山宿の跡地である。
中山宿は、玉造郡における岩出山、下宮、鍛冶谷沢、尿前の各宿が成立した後に設けられた宿駅で、設営にあたっては鳴子村の初代肝入(庄屋)遊佐氏六代平八郎宣重や七代平左衛門が大きな貢献を果たした。幕末期の中山宿の規模については、東西が1町1間、南北33間、戸数10戸、住人46人と伝えられる。
旧道は、「奥の細道 中山宿」の道標が建つところから国道と分かれ、集落の間を抜けて山中に入る。その際(きわ)に、幕末の大肝入遊佐甚之丞が平左衛門の得を偲んで建てたという遊佐大明神碑と、文久3年(1863年)に岩渕地区の人々が建てた岩渕大明神碑が見られる。その先に旧道の風情を残す杉並木の道が200m近く先まで延びている。
杉並木が途絶えた先からのどかな田園風景が広がり、西原地区の平坦な道筋が1kmほど続いている。
遊佐大明神碑(右)と岩渕大明神碑
軽井沢から甘酒地蔵尊へ

軽井沢への道標

軽井沢へ

軽井沢に架かる橋

甘酒地蔵尊へ
軽井沢の道標のところから左に折れ200mほど行くと、大柴山の清水を流す軽井沢の谷が見えてくる。山道はきれいに整備され谷川の上に頑丈な木橋も架けられているが、周囲の景観に手が加えられた形跡は見られない。軽井沢には小深沢や大深沢に見られるような険しさがない上に、国道から沢の入口まで車で入れるので、原風景を楽しみながら気軽に散策することができる。
義経ゆかりの甘酒地蔵尊へ

休憩所に至る

庚申塚

稜線伝いの道筋

間もなく地蔵尊
軽井沢の谷からさらに西へ行くとやや開けたところに庚申塚の建つ休憩所がある。休憩所から西へ行くにしたがって街道らしい趣が薄れ、次第に道幅が狭くなる。こうした中を500mほど歩いていくと右手に陣ヶ森の甘酒地蔵尊が見えてくる。
陣ヶ森の甘酒地蔵尊

甘酒地蔵尊の祠

甘酒地蔵尊

地蔵尊脇の石仏

堺田への道
甘酒地蔵尊について、次のような言い伝えがある。
義経が平氏との戦いで数々の功績をあげながら、遂には兄頼朝から追われ平泉に逃げのびる途次のこと。義経主従が、産後間もない北ノ方とともに陣ヶ森で一夜を明かそうとしているとき、猿が大地蔵と小地蔵に姿を変え、九尺四面の御堂を建てて北ノ方と子亀若丸に休息をさせ、義経主従には甘酒で接待をした。翌日、別れ際に、猿が、自分たちもお産で苦しんでいるので助けてくれと懇願したので、弁慶がこの地に安産の神として地蔵尊を祭ったところ、後に、猿が甘酒を供えるようになったことから、里人はこの地蔵尊を「甘酒地蔵尊」と呼んだという。
旧道は山形県の堺田へ

堺田へ

まもなく国道と交差

ここで国道と交差

封人の家へ
旧道は、国道の北側を甘酒地蔵尊から更に西へ延び、山形県との県境からやや西よりのところで国道47号線と交差する。交差後、国道の南側に位置を変え、芭蕉が2泊した堺田の封人の家の前を通過する。
旧道への出入口を国道から見る
芭蕉が2泊した封人の家

封人の家

「蚤虱」句碑

封人の家内部

馬屋(まや)
出羽街道中山越における新庄領と伊達領の境目については、明確な線引きが行われていなかった為に、富沢村(山形県)と中山村(宮城家)との間でしばしば領地争いが生じた。この争いは幕府に仲裁を仰ぐ事態にまで発展し、正保2年(1645年)境界を二村間を流れる大谷川にする約定を取り交わし和解した。こうして大谷川の端に「境分杭」が立てられ国境の目印となった。曽良は、この杭を「境杭有」と日記に記している。この境目は今日も行政区域上の境界となっている。
大谷川(関川)
堺田村は、このころに「仙台江之道筋二而、駅場無之候而ハ甚不都合二付別村二相立」(新庄図書館「御申送書」)という新庄藩の事情により、宿駅や国境警備のために富沢村から独立した村である。
堺田村では、村の庄屋が境を守備する役人に就き問屋役を兼務した。芭蕉が元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)から3日間逗留した家は、こうした役割の庄屋・有路家であった。早坂忠雄著「芭蕉と出羽路」によれば、有路家の祖先は延沢(尾花沢市)の霧山城主であった延沢家の家臣・有路小三郎の一族で、小三郎は元和8年(1622年)に没したが、有路家はそれ以前に堺田に帰農していたという。国境の守役を「封人(ほうじん)」といったことから、芭蕉は止宿した有路家を「封人の家」と呼び、「おくのほそ道」に次のように記している。
大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
文化庁が江戸時代初期に既に建てられていたと推定している旧有路家住宅は、昭和44年(1969年)に重要文化財に指定され、昭和46年(1971年)6月から2年9ヶ月の歳月をかけて解体・復元工事が行われた。堺田村は新庄藩の保護・奨励のもと馬産地として発展し、有路家もこの大型民家で常時、数頭の母子馬を飼っていたという。

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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡


第21集 芭蕉と出羽越え

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