鳴子と尿前の関について
鳴子について
  
鳴子の里 平成18年3月31日、かつての鳴子町は、古川、岩出山など1市5町と合併して大崎市となり、住所も「鳴子温泉」となった。

鳴子町は、鳴子、大口、名生定、鬼首の四つの村が合併してできた町であったが、その胎動が始まってから町制の施行まで、65年の歳月があった。まず、鳴子、大口、名生定の三村が明治22年(1889年)に合併して「温泉村」となり、それから32年後の大正10年(1921年)、
人口9,438人の温泉村が鳴子町と川渡村に分離した。そして温泉村の成立から65年後の昭和29年(1954年)、鳴子町、川渡村、鬼首村が合併し、鳴子町となる歴史をたどった。

芭蕉との関わりから、尿前地区に焦点をあてて旧鳴子町の歴史を見ていくと、当地は、陸奥と出羽の国を結ぶ交通の要所であると同時に、軍事上においても重要な位置を占め、戦国時代の大永年間(1521〜1528年)、栗原、玉造など五郡を領地とした大崎氏は、尿前の「岩手の関」に家臣湯山氏を配置し守りを固めていた。

当時、出羽国で最上、伊達氏らの対立が続いていたことから、その波及を恐れた大崎氏は国境の警備を更に強めるため、「岩手の関」に小屋館の番所を設置し、これを任されたのが遊佐勘解由宜春であった。小屋館は、尿前の西方の山上(岩手の森)、薬師堂跡付近にあったといわれる。

宜春は、関守の勤めの他に、軍事色が濃く集落の構築が難しかった尿前地区にはじめて田畑を開き、一族や手下を居住させて鳴子村の礎を作り上げたことから近世鳴子村の草分けといわれる。

遊佐氏は、大崎氏没落ののち百姓身分になったが、天正19年(1591年)に旧大崎領が伊達政宗の領地となった後も、引き続き国境の警備にあたり、小屋館は、伊達の支配後、「尿前境目」と呼ばれた。

尿前の関について

元和年間(1615〜1624年)の末になって、遊佐氏五代但馬宣兼の時に、山上の番所が尿前の遊佐氏屋敷の内に移され、「尿前の関」と呼ばれるようになった。遊佐氏は、八代権右衛門の時まで独力で警備にあたっていたが、寛文10年(1670年)になると、境目の見張りを厳重にする目的から「尿前番所」が設置され、侍身分の役人が取り締まるところとなった。

この背景として挙げられるのが「伊達騒動」であるが、当時の伊達藩にあっては、万治3年(1660年)、不行跡の廉(かど)で三代伊達綱宗が幕府によって隠居を命じられ、これにともない2歳の亀千代(後の綱村)が家督を継いだ。その後、亀千代を後見した伊達兵部少輔宗勝が伊達安芸宗重と藩を二分して対立し、寛文11年(1671年)に原田甲斐の暴挙で幕が引かれるまで、12年間にわたってこの騒動が続いたのである。

厳重警備の「尿前番所」は遊佐氏の屋敷内にあって、出羽街道中山越はこの屋敷の中を貫いていた。裏門と表門には遊佐氏と村人が配置され、夜中は鍵をかけて通行不能にした。付近の約140坪の敷地に、岩出山伊達家の役人が詰める番所が築かれ、中には鉄砲や槍、手錠、首筒が備えられたという。幕末ごろの屋敷は、間口40間、奥行44間、面積1,760坪、周囲は石垣の上に土塀がめぐらされ、屋敷内に、長屋門、役宅、厩、酒蔵、土蔵、板倉など10棟の建物があった。

屋敷周辺には尿前の宿駅が設けられ、人馬の補充や継立が行われた。明治9年(1876年)の「玉造郡地誌」に、尿前の宿駅の規模が「東西一町二十間、南北三十八間、道幅二間乃至二間半。戸数十三戸。人数男三十一人、女四十八人、総計七十九人」とある。岩出山から尿前の間には、他に、下宮、鍛冶谷沢、中山に宿駅があった。

芭蕉と尿前の関

元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)、岩出山で一宿した芭蕉は、「道遠ク、難所有之」(曽良随行日記)という理由から、尾花沢までの旅を、急遽、小野田経由から鳴子経由に変更した。このため、通行手形の用意がないまま尿前から中山峠越えを目指すこととなった。

一行は美豆の小島から岩渕まで江合川に添って北上し、岩渕から渡し舟で尿前の岸に到着した。当時の川越えの方法は「綱渡し」で、川の両岸に張った綱を自ら手繰(たぐ)るようにして舟を対岸に渡した。

こうして尿前の関に差し掛かるが、関所の警備は依然として厳しく、手形不携帯の芭蕉と曽良は、取り調べで足止めを食らうところとなった。曽良の随行日記に「断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。」と書かれていることから、事情を説明すれば通過できると踏んでいたように見えるが、その実、他国者の出入りに対する取り締まりは相当に厳しいものだった。

なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。(おくのほそ道)
鳴子温泉から尿前の関に差しかかって出羽の国へ越えて行こうとした。この道は旅人がめったに通らないので関所の番人に怪しく思われて、ようやく関を越すことができた。

一リ半、尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有、断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。 (曽良随行日記)
(名生定から)尿前まで一里半。尿前へ取り付く左の方、川向に鳴子の温泉有り。「沢子(佐波古)の御湯」と伝えられる。仙台の説也。関所有り、断(事情を説明しただけでは、通行)六ヶ敷(むずかしき)也。出手形(通行手形)を用意するべき。

尿前の関へ通じた道
  

中山越の旧道は、国道47号線に役割の大方を譲り、江合川の北側に市道として残っている。鳴子中学校と末澤山洞川院の間を東西に走る道がそれで、末沢、大畑、中屋敷地区を通って西へ延びている。

旧道は、川近くで北寄りに迂回して岩渕集落を通り、西詰にある旧家の西側で左に切れる道筋であった。そこから尿前の関の真向かいにあった舟渡しまで300mばかりの道程で、道端に

一里塚が築かれていた。現在一里塚は崩されて形跡は無く、旧道は田んぼの中にその姿を隠したが、十基ばかりの古い墓碑を覆い隠すように生えている雑木の木立が、大凡(おおよそ)の中山越の道筋を伝えている。

鳴子温泉郷の歴史について

「おくのほそ道」に「なるごの湯」と記された鳴子温泉、総じて鳴子温泉郷の歴史は極めて古く、千年以上前にさかのぼる。「続日本後記」に、平安時代の承和4年(837年)に当地で(火山性の)爆発が発生したことが書かれ、その時の様子が「仁明天皇承知四年癸巳朔申。陸奥国玉造郡の温泉石神。雷響き振動昼夜止まず。温泉河に流れてその色漿(しょう。米を煮た汁)の如し。加うるに以って山焼け、谷塞がり石崩れる。更に新沼を作る。沸く声雷の如し。」と記されている。

温泉神社は各地の温泉場に広く分布しているが、当地では、延喜年間(901〜923年)の「延喜式神名帳」に温泉石神社(川渡温泉)、温泉神社(鳴子温泉)、荒雄川神社(鬼首温泉)の三社が記載され、玉造の湯は、名取(秋保)の湯、飯坂の湯とともに古くから奥州の三名湯として知られ発展した。江戸期に作られた温泉番付「諸国温泉効能鑑」では、東前頭5枚目に鳴子温泉が、同24枚目に川渡温泉があげられている。

玉造の湯の中で最も古いのが川渡温泉で、上の通り「続日本後記」に既に温泉石神社が記されている。明治6年(1873年)の「大口村温泉場毎書上」には、川渡温泉の源泉について「温泉石神社の大石の根合より湧き出で候原泉と唱えおり申し候」とあり、その効用については「第一脚気に即効これあり、そのほか、湿瘡・打撲・金瘡(刀や槍でうけた傷)に奇功御座候義、衆人の能く経験仕る処に御座候。」と記されている。

藩政期、出湯は藩の所有物とされ、「湯守(ゆまもり)」に任命された農民がその管理を任されていたが、川渡温泉においては、庄屋を勤めた藤島氏が藩政初期以来湯守を勤め自らも湯治人宿を営んだ。川渡温泉は鳴子温泉郷の玄関口にあり、平成13年現在、江合川とその支流の築沢川、湯沢川沿いに16軒の宿泊施設が点在している。公民館の東に、平成2年(1990年)に新装された共同「川渡温泉浴場」がある。

玉造の湯の中で次に古いのが鳴子温泉である。温泉は古代から利用され、古事記や日本書記などでも触れられているが、湯治人用の宿泊施設が築かれたのは江戸期になったからと見られ、当地では、寛永9年(1632年)遊佐氏は湯治人宿「遊佐屋(ゆざや)」を創建し、寛政年間(1789〜1801年)に鳴子ではじめて元湯「滝の湯」の湯守に任ぜられた。藩政中期の享保年間(1716〜1736年)になると、遊佐氏の他に「大沼屋(のち源蔵湯)」を営む大沼三郎次と「横屋」の大沼善十郎が湯守に任命され、この三氏による「滝の湯」の管理は幕末まで続けられた。

文政10年(1827年)に書かれた水戸藩士小宮山楓軒の旅日記「浴陸奥温泉記」には、当時の「滝の湯」について「庭後の浴槽に入り試むるに、川渡の熱せる如くにはあらず。よきほどの温泉なり。又宅前に大なる浴室あり。浴槽三つに仕切り、熱・温・冷と分けたり。又懸桶より湯を流し滝の湯と号し、肩背をうたするなり。」と記されている。温泉神社の御神湯を引く「滝の湯」は古から参道の登り口に位置し、現在、共同浴場として地元の人々や観光客に親しまれている。

湯守を勤めた川渡温泉の藤島氏、鳴子温泉の遊佐・両大沼氏が営んだ湯治人宿は代々受け継がれ、藤島氏の宿は「藤島旅館」、遊佐氏の「遊佐屋」は「ゆさや」、両大沼氏については、「源蔵湯」は「鳴子観光ホテル」、「横屋」は「本陣・横屋ホテル」にそれぞれ名を変え、各温泉を代表する老舗旅館・ホテルとして今に伝えられている。

鳴子と源義経との関わりについて

当地の名称が「鳴子」となった謂われは様々に話されるが、火山の噴火で温泉が噴き出したとき、雷のように鳴り響いたことから「鳴郷」といわれ、それが「鳴子」になったという説があるほか、次のように源義経との関わりで語られることがある。

義経が平氏との戦いで数々の功績をあげながら、遂には兄頼朝から追われ平泉に逃げることとなった途次のこと。義経主従に同道した北の方が難所亀割峠で急に産気づき男の子(亀若丸)を産み落としたが、赤ん坊は産声をあげなかった。そこで当地の温泉を産湯に使ったところ、初めて元気な泣き声をあげたので「啼子」と呼ばれるようになり、それがいつしか「鳴子」に変わったという。

また、亀若丸を出産した後の話が次のように展開される場合もある。赤子が泣いて里人に気付かれることを恐れた弁慶は、生まれたばかりの亀若丸の口に手を押しあて、一行の立場をつらつら話し、泣かないように言い諭した。そして、尿前あたりまでたどり着いて出湯を産湯に使ったところ、初めて元気な声で泣いたので「啼子」と呼ばれ・・・、というのである。

さらに、岩手の森にあった薬師堂や「尿前」の地名の起こりについても義経との関わりで語られることがある。上と同じく、義経一行が平泉に向かう途中、岩手の森で北の方が腹痛を訴えた。産後の旅疲れからと大欅(けやき)の根元でしばらく休んでいたが、一向に回復せず困っていたところ、山鳩がイカリ草をくわえて舞い降り、北の方の口に含ませた。すると途端に痛みが治まり、北の方が臥していた跡に、見たことのない薬師如来像が置かれていた。義経はこれを見て、飛び去った山鳩が薬師如来だったのではと思い、弁慶に命じて岩手の森に薬師堂を建てたという。「尿前」の地名については、このとき北の方が苦しみの余り尿をもらしたことを起源とする口碑がある。

このほか、弁慶の福田石、弁慶手もみの道祖神、弁慶石、弁慶森、弁慶の船引きなど、当地には、弁慶に関わる伝説が多くある。

 

 
【参考文献】 鳴子町史 上巻
 

 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第21集 芭蕉と出羽越え
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