最上町資料写真と解説(1)

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封人の家 封人の家。

藩政期、堺田村では村の庄屋が境を守備する役人に就き問屋役を兼務したが、芭蕉が元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)から3日間逗留した家は、こうした役割の庄屋・有路家であった。
封人の家。

国境の守役を「封人」といったことから、芭蕉は止宿した有路家を「封人の家」と呼び、「おくのほそ道」に次のように記している。
  
大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
封人の家
封人の家内部 封人の家内部。

文化庁が江戸時代初期に既に建てられていたと推定している旧有路家住宅は、昭和44年(1969年)に重要文化財に指定され、昭和46年(1971年)6月から2年9ヶ月の歳月をかけて解体・復元工事が行われた。
 
封人の家の平面図
封人の家・中座敷。

芭蕉と曽良は中座敷(電燈が灯る部屋)に通され就寝したと見られている。この部屋は最も奥の馬屋(まや)から10mほど離れた位置にある。
封人の家・中座敷
封人の家・馬屋 封人の家・馬屋(まや)。

堺田村は新庄藩の保護・奨励のもと馬産地として発展し、有路家もこの大型民家で常時、数頭の母子馬を飼っていたという。人馬が一つ家で寝食をともにする生活環境は、道中何度か馬と関わってきた芭蕉にとって大変興味深く、幾たびも馬屋に足を運び、別れを辛くするほどに小馬や母馬と慣れ親しんだように思われる。
芭蕉句碑。

蚤虱馬の尿する枕もと

昭和36年(1961年)の建立。夏目漱石門下で芭蕉研究家の小宮豊隆(1884〜1966)の揮毫による。小宮豊隆は斎藤茂吉と山寺の蝉について論争を繰り広げたことでも知られる。
蚤虱馬の尿する枕もと (芭蕉)


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第21集 芭蕉と出羽越え
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