最上町資料写真と解説(2)

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山刀伐峠越の道 [1]
封人の家→笹森口留番所跡→かまと茶屋跡→新屋聖観音→万騎の原古戦場→赤倉

芭蕉は、当初、堺田から向町、満沢を経て背坂(せなさか)峠を越える予定であったが、堺田に逗留中この経路が遠回りであることを知らされたと見られ、旅を急ぐ芭蕉は急遽一刎経由の山刀伐峠越に変更した。しかし、当時山刀伐峠には獣が通るほどの道しかなく、峠越えは難渋を極めた。

封人の家 封人の家。

あいにくの雨で3日間「封人の家」に逗留することになった芭蕉一行は、天候が回復した元禄2年(1689年)5月17日(新暦7月3日)尾花沢を目指し旅立って行った。

○十六日 堺田二滞留。大雨。宿和泉庄や新右衛門兄也。
○十七日 快晴。堺田ヲ立。
(曽良随行日記)
笹森口留番所跡。

口留番所は旅人の通行や荷物の取り調べを行ったところで、当時、笹森にこの番所が設けられていた。口留番所は主要街道に設置された御番所と異なり百姓身分の村人が鉄砲や槍といった武器を所持して自宅でその任に当たり、笹森においては佐藤家が廃藩まで世襲して番人を勤めた。曽良の随行日記に笹森口留番所について「関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。」と書かれている。
笹森口留番所跡
かまと茶屋跡 かまと茶屋跡。

この周辺は「鎌戸」の集落だったところで、むかし「かまと茶屋」という茶屋があった。道中、人馬が休憩したところだが、今はその面影はなく、陸羽東線の鉄橋下に出羽街道中山越の旧道が延びているだけである。
新屋聖観音。

旧道は、「かまと茶屋」から明神川を渡って田圃の中を通り「明神」の集落に向かう。途中、田圃の中に杉林があり、旧道脇に小国郷七観音の1つである新屋聖観音堂が建っている。
新屋聖観音
万騎の原古戦場 万騎の原古戦場。

明神の集落を抜けた旧道は小国川の支流末沢川を渡るが、その手前に、「万騎(まき)の原古戦場」の旧跡がある。
小国郷は、戦国時代、細川氏兄弟によって治められていたが、山形城主・最上氏に背いたため、天正8年(1580年)、この「万騎の原」で滅ぼされた。
赤倉・虹の橋。

赤倉温泉は、慈覚大師が東国巡礼の旅に出たときに開いたと伝えられ、平成13年現在12の宿泊施設が小国川沿いに点在しているが、芭蕉が当地を通行したころはまだ温泉場として機能していなかったようである。芭蕉一行は、現在の「虹の橋」付近から徒渡(かちわた)りで小国川を越えたと伝えられるが、前日までの豪雨でかなり水かさが増し、大変な川越えだったろうと思われる。
赤倉・虹の橋


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第21集 芭蕉と出羽越え
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