一関から尾花沢までの旅路
おくのほそ道文学館収蔵

一関の宿〜岩ヶ崎〜真坂    真坂〜千本松長根〜岩出山・一宿の地

岩出山・一宿の地〜小黒崎・美豆の小島〜尿前の関

尿前の関〜中山峠越え〜堺田・封人の家

堺田・封人の家〜赤倉温泉〜山刀伐峠〜尾花沢

一関の宿〜岩ヶ崎〜真坂
元禄2年(1689年)5月14日(新暦6月30日)

一関止宿の地

一関台町・道標

道標の向い側

刈又一里塚

岩ヶ崎・六日町
5月13日に平泉への旅を果した芭蕉は、同夜地主町に二泊目の宿をとり、翌朝、岩出山を目指して旅立った。

まず奥州街道に出て台町の追分地点まで南下し、そこで奥州街道と分かれ脇街道の奥州上街道に足を踏み入れた。奥州上街道は、台町の追分を起点に、岩ヶ崎、真坂の宿駅を経由し、岩出山の天王寺追分で出羽街道中山越に合流する。
○奥州上街道には、陸奥上街道、松山街道、西街道、迫街道などの別称がある。

芭蕉一行は、祥雲寺や長昌寺などが建ち並ぶ丘陵の下道を通行して蔵主沢まで行き、山道に差しかかった。上街道はここから稜線伝いに南に走り、刈又で山を下り、「ひじまがり坂」から再び山道に入る。

次に、「よしめき坂」から山を下り、上片馬合、一塚坂、赤児を経由して岩ヶ崎の宿駅に至った。その後、三迫川、二迫川、金生川を越えて南進し、一迫川と昔川を歩渡(かちわた)りして真坂の宿に到着している。
○この章で記した坂の名称は「元禄の絵図」によるもの。位置については下図を参照。
一 十四日 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。四リ、一ノハザマ(三迫)・岩崎(栗原郡也)、藻庭大隈(茂庭大蔵)。三リ、三ノハザマ(一迫)・真坂(栗原郡也)(此間ニ二ノハザマ有。)岩崎ヨリ金成ヘ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。
四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山ハ正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗(一栗)ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也(二リ余)。故、川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓テ又曇テ折々小雨スル也。
(曽良随行日記)

  【地図 】   参照    芭蕉と平泉  一関止宿の地関連


一関・台町〜蔵主沢

台町の追分に、元文元年(1736年)に建てられた「これ従(より)右ハはざま道、左ハせんだい道」と刻する道標と庚申塚が建ち、付近に一関藩主田村家の菩提寺・大慈山祥雲寺や一関藩の「時の太鼓」を納める玉林山長昌寺の寺々が建ち並んでいる。
台町の追分   ○祥雲寺   ○長昌寺
 

道標は元文元年の建立であるから芭蕉は見ていないが、「一関に過ぎたるもの」としてその名を馳せた「時の太鼓」は、貞享3年(1686年)7月1日から昼夜十二の時を告げているので、藩主田村建顕の居館から聞こえる太鼓の音は、恐らく芭蕉の耳にも達したことだろう。

台町の追分から3kmほど行って蔵主沢に行き着くと、今来た道が蔵主沢で3つに分岐する。左の道は田んぼと集落のあいだを縫って山間部へ延び、右の方は市道の延長で刈又に続いている。これらの道に挟まれるように山があり、その裾に「奥の細道 蔵主沢」と書かれた道標が建っている。3つ目の道は、生い茂る雑草に覆い尽くされ、路肩さえ失いかけている山道で、これが奥州上街道の現在の姿だった。
 
台町の追分から蔵主沢に行く途中で見られる「芭蕉行脚の道」の標柱1   2
蔵主沢の登り口に建つ「奥の細道」の標柱


刈又一里塚

市道を1km近く行くと東北自動車道のガードがあり、程なくもう1つのガードが左手に見えてくる。この下を通る道が蔵主沢から山に向かった上街道で、稜線を伝った旧道はガードの先で山を下り、轍(わだち)を残す田の道から刈又に向かっていた。降り口を探しに山裾まで足を運んだが、雑草に埋もれ視認するに至らなかった。
上街道を潜らす東北自動車道のガード(写真の右端)
ガードを抜けた先の景。市道と交差する上街道


上街道が市道と交差する地点に「奥の細道」の標柱と刈又一里塚の説明板が建っている。これらを右に見て旧道を行き「ひじまがり坂」を登る。きれいに整えられ蘇生したかに見える上街道を500mほど登って峰まで行くと、右手に「おくのほそ道」の冒頭を刻む石碑があり、その先の、薄暗い山中に威風堂々たる一双の一里塚が構えている。
刈又の「奥の細道」の標柱    ○整備された上街道   ○「おくのほそ道」碑


この一里塚は江戸初期ごろのものと伝えられ、東側の塚は刈又地区、西側が古田地区に含まれている。高さはともに3、4mで、頂きに比較的若い杉や雑木を生やしている。古田側の塚には数百年の齢(よわい)を思わせる古木の切り株が残され、往時の面影を今に伝えている。
一里塚1   2   3    ○一里塚に残る古木の切株

岩ヶ崎

芭蕉一行は、一里塚から500mほど行って岩手県と宮城県の県境に達し、そこから「よしめき(吉目木)坂」を下り、上片馬合、一塚坂、赤児を経て岩ヶ崎に至っている。芭蕉が足跡を残した旧道は、現在ゴルフ場の一部になっていたり、所々に寸断箇所があるなど、実地の踏査を困難にしている。
一里塚から南に延びる上街道


取材班は赤児塚(金成)の前を通る県道・栗駒金成線から岩ヶ崎を目指したが、上街道はその北側の山中を南西方向に走っている。県道は赤児塚から7、800mほど西に行ったところで町道と交差し、そこの北東側に「芭蕉行脚の道」と題する大きめの説明板が建てられている。赤児塚は、その昔歌舞を好んだ奥州藤原秀衡が、春風という舞の上手な少年を寵愛していたところ、他の舞童がこれを妬み、春風を殺して当地に埋めたといい、春風がいつも紅色の衣を身につけていたことから里人は春風の墓を「赤児塚」と呼び、塚があるこの里を「赤児」と呼んだと伝えられている。
赤児塚    ○交差点に建つ「芭蕉行脚の道」の説明板


金成と栗駒の境目から岩ヶ崎まで3km余りで、上街道はこの間、県道・栗駒金成線に沿うように続いている。岩ヶ崎は、文治5年(1189年)藤原泰衡が源頼朝軍勢の進入を防ぐため黒岩口を固めたところで、芭蕉が訪れたころ伊達氏家臣・茂庭大蔵が当地を所領していた。その山城「鶴丸城」は町北部の丘陵にあり本丸、二の丸、三の丸、蛭子館が650mにわたって連なっていたという。曽良の随行日記に「岩崎(栗原郡也)、藻庭大隈」とあるが、「岩崎」は岩ヶ崎であって、「藻庭大隈」は茂庭大蔵のことである。「岩崎」は金成に実際にある地名なので混同することはできない。
栗駒総合支所の前に建つ「奥の細道」の標柱


天和2年(1682年)の「岩ヶ崎在郷屋敷絵図」(宮城県図書館蔵)から、当時の町並みが現在とほぼ同じであることが分かっているので、上街道は、県道と同じ道筋で末町、四日町、八日町を通過して駅前交差点に至り、20mほど栗駒駅方向に行ったのち、右左に向きを変えながら六日町と茂庭町を通過したものとみられる。その後、三迫川、二迫川を越えて南下を続けたが、現在の県道・栗駒岩出山線の経路が鳥屋地区から西に迂回して山麓を通っているのに対し、上街道はそのまま南進し一迫を目指している。
岩ヶ崎・六日町通り

芭蕉衣掛けの松

二迫川に架かる島巡り橋を渡って200mばかり南下し、県道・築館栗駒公園線との分岐点から700mほど行ったところに「芭蕉衣掛けの松入口」の標柱がある。ここから左に延びているのが祠堂ヶ森(志登ヶ森)への道、すなわち奥州上街道で、この道を1500mほど行くと、芭蕉が衣を掛けて一休みしたという松がある。しかし、今は保存の為に建てられた覆いの下に切り株だけが残るのみで、芭蕉を偲ぶよすがにすることはできない。

切り株の傍らに二代目の松が植え継がれ元気に育っている。今はまだ背丈が2mほど幼松ではあるが、今後も順調に成育し、後世の人々に芭蕉が「おくのほそ道」の旅で休息した縁(ゆかり)の地として語り継がれればと願うばかりである。

今は、周囲の木々が高く育ち遠望を妨げているが、むかしこの峠付近は眺望佳景のところとして知られ、仙台藩主が上街道を通行のとき領内を望み見たことから「御遠見場」と称されたといい、栗駒山はもとより、北は束稲山まで見晴らすことができたという。それなら、芭蕉もここから南部へ続く道を眺めることができたことになる。
二迫川    ○「芭蕉衣掛けの松」(栗駒と一迫の境界付近)1   2  周辺
「芭蕉衣掛けの松」付近を走る上街道1   2

曽良の随行日記に「岩崎ヨリ金成ヘ行中程ニつくも橋有。」とある。津久毛は文治5年(1189年)8月に、源頼朝と平泉藤原泰衡の軍勢が交わった古戦場で、日記の行(くだり)はこれを踏まえたものである。曽良はこれに続けて「岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。」と記したが、岩ヶ崎から津久毛へ往復する時間的なゆとりは無かったと見ていいだろう。日記内の「右ノ方」の記述については、「左」の誤りであるとか、昔の道筋では「右」だとか、いろいろな説が見え隠れしている。

一迫・真坂

上街道は祠堂ヶ森を下って栗原西部広域農道と合流し、その後、右に折れて県道に入り真坂に続いている。上街道を坂下から眺めると、単に「山道」と言い放てない風格があり、いかにも街道然とした景観の中から、様々な道中姿に身を包んだ旅人が姿を見せるかと錯誤するほどの異次元的空間が広がっている。
農道に向かって下る1   2    ○上街道の標柱    ○上街道を下から眺める(480X360)

芭蕉が訪れた元禄2年当時、城を上真坂・上台に構える富塚出雲重長が真坂を所領していたが、享保3年(1718年)に領地没収となり、その後白河氏の体制が幕末まで続いた。白河氏は奥州白河の城主で、宗広の代になって伊達家一門に名を連ねた。

真坂・御免角の北詰に芭蕉の時雨塚が建つ秋葉神社がある。本社に芭蕉の塚があること、創建が元和2年(1616年)と伝えられていること、日記に「真坂ニテ雷雨ス。」とあることを合わせて考えれば、将(はた)ここが芭蕉の雨宿りの場所かとも思われたが、こうした話の伝承は聞こえてこなかった。
真坂町内    ○秋葉神社    ○時雨塚1   2


この塚は、寛政12年(1800年)の建立で、地元の俳人午夕の門弟が次の句を刻んで「時雨塚」としたものである。

今日ばかり人も年寄れ初時雨 ばせを
野は仕付けたる麦の新土   許六
春も時にとりてやしぐれ塚  午夕


○芭蕉の「今日ばかり」の句は、元禄5年(1692年)10月3日に許六の江戸旅亭(彦根藩邸)で開かれた五吟歌仙における発句で、「野は仕付けたる麦の新土」はこれを受けて許六が脇をつけたもの。連衆はほかに酒堂、岱水、嵐蘭。秋葉神社の時雨塚には、いずれの句も「初時雨」が「初志九禮」のように変体仮名まじりのくずし字で刻まれている。
  
  

真坂〜千本松長根〜岩出山・一宿の地
元禄2年(1689年)5月14日(新暦6月30日)〜5月15日(新暦7月1日)

堂の沢

千本松長根

長根・ほそ道碑

天王寺一里塚

天王寺追分
奥州上街道は、真坂から昔川に沿うように南下を続け、昔川が垂直に向きを変えるあたりから左に緩やかにカーブし、次第に勾配を増していく。一迫と岩出山の境目を過ぎれば、やがて堂の沢一里塚に至り、駅馬の継立が行われた馬館から千本松長根の松並木に入り込む。

芭蕉と曽良は、右手に栗駒の山並みを眺めながら松並木の街道を通り抜け、堂の沢から一里を隔つ天王寺一里塚を目指した。間もなく出羽(仙台)街道中山越と合流する天王寺追分に至る。

一行は、歌枕「小黒崎」を一目見ようと、天王寺追分から西へ向かったが、日没が迫ったためこれを断念し、一栗から江合川添いの道を通って岩出山に引き返し、城下の旅籠に一宿した。
南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。
(おくのほそ道)
四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山ハ正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗(一栗)ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也(二リ余)。故、川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓テ又曇テ折々小雨スル也。

中新田町。小野田(仙台ヨリ最上ヘノ道ニ出合)。原ノ町。門沢(関所有)。漆沢。軽井沢。上ノ畑。野辺沢。尾羽根沢。大石田(乗船) 
 
岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。
右ノ道遠ク、難所有之由故、道ヲかヘテ、
(次の章に続く)
(曽良随行日記)

  【地図 】   参照 岩出山と伊達政宗について


岩出山・堂の沢

県道・栗駒岩出山線と重複する奥州上街道を真坂から岩出山に向かって南下する。昔川が垂直に流れを変えているあたりから2kmほど行った所に、堂の沢一里塚の跡地がある。土地を所有される方に話を聞くと、子供のころ父親と一緒に一里塚を崩し畑に変えたのだという。4、50年前のことになるだろう。「今になって考えれば」と、塚を無くされたことをたいそう残念がっておられたが、上街道にしても、これまで生活に利用できなかった箇所が残っているに他ならない。
堂の沢旧道の東端1   2    ○堂の沢旧道の西端(潜松坂への出入口)1   2


林に入り込んでいるために三日月湖のように取り残された堂の沢の上街道(@)は、他のA〜Fと同様、昭和53年(1978年)から「歴史の道」として整備・保存事業が行われ、見事に昔の街道風情を取り戻している。源頼朝の軍勢が勇ましく駆け抜け、芭蕉一行が出羽を目指したこの上街道は、中山道、熊野古道とともに日本三古道の1つに数えられている。

  


奥州上街道・千本松長根

潜松坂出入口から西に向かって馬館まで行くと、山に延びる細道があって右の道端に「馬館跡」と「馬館古墳群」の白い標柱が建っている。馬館地区は、かつて役場や駐在所もあった真山地区の中心地で、「馬館」の名は、むかし駅舎を置いて駅馬の継立を行ったことに由来する。

細道を進むと、山の際に「奥州上街道」と書かれた説明板がある。芭蕉も足を踏み入れた上街道・千本松長根の東の入口である。松並木に至るまでの坂道に雑割石が整然と敷かれ、道端に枝を迫り出す雑木と相まって興趣を深めている。こうした中しばらく歩き続けると、一瞬、時を旅したかと思われる光景が目に飛び込んでくる。これが1400m先まで延々と松を連ねる奥州上街道である。
千本松長根の東端付近(馬館)1   2   3


松の大木は戦時中「松根油」採取のために伐採され、今は見事な枝ぶりの松にお目にかかることはできないものの、昭和27年(1952年)ごろ小中学生の手によって植え継がれた松は、現在まで往時の風を香らすほどに成長し昔の道中文化を今に伝えている。
千本松長根1   2   3

旧道を中ほどまで行ったところに屋根を四方に葺きおろす東屋がある。その傍らに、「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る」を刻む「おくのほそ道」碑が建っている。平成元年に「おくのほそ道」紀行300年を記念して旧岩出山町が建立したもので、千本松長根で見られる唯一の芭蕉関連碑である。松並木の街道は更に続き、「歴史の道上街道案内図」の建つ位置がその西端にあたる。
東屋付近     ○「おくのほそ道」碑     ○千本松長根の西端付近     ○千本松長根から下る

天王寺一里塚・天王寺追分

上街道の西端から1.5kmほど距離を置いたところに、対をなして堂々と構える天王寺一里塚がある。岩出山地内で一里塚が築かれたところは、既述の堂の沢のほか、赤新田と天王寺であるが、現存するのはこの天王寺一里塚のみである。旅人に里程を知らせるため、各街道の両側に一里ごとに築かれた一里塚は都市化とともに消滅しているが、一里塚や風化しかかった道標は原風景の点景に相違なく、難儀した旅人の汗さえ沁みるこれらの文化遺産は、未来に向けて確実に伝え残すべきものだろう。
天王寺一里塚1   2   3


一里塚から南進すると程なく天王寺追分に至る。一関の台町で奥州街道から分流し、数々の起伏を見せながら岩出山まで道を延ばした奥州上街道は、天王寺のこの地点で出羽街道中山越と合流しその道筋を絶つ。
この先が天王寺追分    ○天王寺追分1   2
芭蕉が追分から鳴子方面に向かった道


分岐点には、江戸期に道標を兼ねて建てられた山神塔のほか、「おくのほそ道」のルート図などが建てられている。旧岩出山町教育委員会刊の「岩出山のむかしかたり」によれば、追分付近に、大正の初期まで「たまを茶屋」という店があって、川渡温泉や鳴子温泉に往来する旅人の休憩所に利用され繁盛したという。

出羽街道中山越は、吉岡宿で奥州街道から分岐し、中新田、岩出山、尿前を経て堺田に至る。この脇街道は、宮城県大崎市鳴子温泉側の史料である「御勝手帳」、「安永風土記御用書出」にもとづき「出羽(仙台)街道中山越」と呼称され、隣接の山形県最上町でも堺田〜笹森間を同様に呼んでいる。この道筋は、現在の国道47号線とほぼ同じルートを辿り、羽州街道と舟形町(山形県)で合流する。

岩出山一宿の地と芭蕉の旅路

芭蕉の岩出山の宿泊先については資料が無く不明とされるが、伝承によれば、当時、荒町に商人宿「留平屋」、仲町に旅人宿「石崎屋」があったとされ、芭蕉はこの中の「石崎屋」に止宿したといわれている。
  

曽良の随行日記から、芭蕉一行は当初、中新田・小野田経由で尾花沢に向かう予定であったことが推測され、したがって、天王寺追分に至った後、直接城下に向かうはずのところ、「小黒崎可見」の思惑により小黒崎への「寄り道」を試みた。

しかし、一栗まで行った辺りで、小黒崎は「遠キ所也(二リ余)」と知らさ
れ、芭蕉はなくなく小黒崎探訪を断念し、「川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿」した。が、翌日の出立までの間に、「道遠ク、難所有之由故」という理由から中新田・小野田経由のルートが鳴子経由に変更され、道すがら念願の小黒崎に立ち寄ることができたというのが14日と15日の成行きと見られる。

○はじめに予定されたルート:  ○次に予定されたルート:    ○実際のルート:

                            (B+Dへの変更は堺田逗留時と思われる)

「岩出山のむかしかたり」の中で、旅籠・石崎屋の子孫である石崎東吉郎さんが芭蕉一行の宿泊について次のように記しておられる。

「南部道遥かにみやりて、岩手の里に泊る」と奥の細道に記されています。一関を後にした芭蕉と曽良は、その日、岩出山に泊まりましたが、それは私の祖先のところで一宿したのでした。私の家は、私の父の母の代までは現在の伊藤英二さんの場所で、代々「石崎屋」と称し、旅籠屋を営んでいました。主人は、代々「東七」と名乗っていたようです。それが明治九年の岩出山の大火の際、類焼したため、下町の現在地に移ったのでした。母から聞かせられていましたが、その建物は、当時としては珍しく、二階建で、二階の欄干は朱塗りだったとのことです。「石崎屋」という屋号は、殿様からいただいたのだそうです。その頃、岩出山には、荒町にも旅籠屋が一軒あったそうです。翌朝、芭蕉一行は、小野田を通り、山形へ行くつもりでしたが、道路が悪いというので予定を変更し、鳴子を通り、山形へ行ったのだそうです。

   
   
岩出山・一宿の地〜小黒崎・美豆の小島〜尿前の関
元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)

小黒崎

小黒崎・芭蕉像

美豆の小島

尿前の関跡

尿前・芭蕉句碑
芭蕉一行は、前日まで、中新田・小野田経由で尾花沢を目指そうとしていたが、「道遠ク、難所有之」の理由で、急遽、鳴子経由に変更し、通行手形の用意がないままに岩出山を出立した。

こうした事情から、前日取りやめた歌枕の見物が可能となった。その小黒崎は、岩出山の旅籠から12kmほど行った鳴子との境目にあり、美豆の小島はその先の名生定にある。

芭蕉は、美豆の小島から出羽街道中山越の道を更に西へ進み、大口村の川渡温泉を左に眺めながら鳴子村に足を踏み入れた。

鳴子における街道の道筋は、江合川の北を大畑、中屋敷を経由して東西に延び、岩渕からは綱渡しで尿前の関に通じていた。

芭蕉と曽良は、厳重な警戒の中、手形不携帯の廉(かど)で取調べを受けることとなったが、その日の内に放免され、漸(ようよ)うにして関越えを果たした。
小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。
(おくのほそ道)
一 十五日 小雨ス。二リ、宮(下宮)
○壱り半、かぢハ沢。此辺ハ真坂ヨリ小蔵ト云かゝリテ、此宿ヘ出タル、各別近シ。
○此間、小黒崎・水ノ小島有。名生貞(名生定)ト云村ヲ黒崎ト所ノ者云也。其ノ南ノ山ヲ黒崎山ト云。名生貞ノ前、川中ニ岩島ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小島也。今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。宮・一ツ栗ノ間、古ヘハ入江シテ、玉造江成ト云。今、田畑成也。

一リ半、尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有、断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。
(曽良随行日記)

   【地図1   2 】  参照 芭蕉が訪ねた歌枕、小黒崎と美豆の小島   鳴子と尿前の関について


小黒崎・美豆の小島へ

一行は、岩出山の旅籠から北へ進んで天王寺追分まで行き、そこから山裾伝いに一栗、下宮へと歩みを進めた。一栗は、かつて一栗城があったところで、岩手沢城主・氏家氏の一族が居城していたが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原城攻略に不参した大崎氏が領地を奪われたことから家臣の氏家氏も岩手沢城を追われ、同時に一栗城も廃城となった。

その先の下宮は出羽街道中山越の宿駅で、岩出山から堺田までの間には、当時下宮の他、鍛冶谷沢、尿前、中山に宿駅が置かれていた。歌枕・小黒崎は下宮から3kmほど行った鳴子との境目にある。

標高244.6m、長さ800mの小黒ヶ崎は、田園の中に一山孤立し重厚な姿を見せている。小黒ヶ崎の絶景は春と秋に尽きる。萌え出づる春は山一面がモスカラーで纏(まと)われ、秋には、春に笑った小黒ヶ崎が紅色に転化し、その所々に姿の良い老松が相反する色相で文様を描く。
歌枕では「小黒崎」だが、山の名称は「小黒ヶ崎」。
小黒ヶ崎


小黒ヶ崎の向かい側に小黒崎観光センターがあり、その駐車場に芭蕉像が建つ小庭園がある。優しい微笑で東の方角を見遣る芭蕉像の傍らには、「おくのほそ道」の旅を顕彰して本文の一節を掲ぐ説明板が建てられている。
芭蕉像とその周辺1   2   3


小黒ヶ崎から1kmほど西方に行くと歌枕で知られる美豆の小島がある。現在、美豆の小島は江合川の早瀬の中にあるが、随行日記に「今ハ川原、向付タル也。」とあるので、当時は対岸に接していたことになるだろう。
美豆の小島への入口    ○美豆の小島の説明板と歌碑   ○美豆の小島1   2   3


美豆の小島がある名生定は、大崎市鳴子温泉地区にあった四ヶ村(鳴子、大口、名生定、鬼首)の1つで、戦国時代、大崎氏家臣・湯山氏が隣村の大口村とともに治めていたところである。

尿前の関へ

当時、鳴子の温泉郷には既に大型の宿泊施設がつくられ、奥州の名湯として多くの湯治客を集めていた。芭蕉一行は、左手に鳴子の温泉場を眺めながら尿前の関を目指し、岩渕の舟渡しに到着した。

鳴子大橋を渡って川沿いの道を500mばかり東へ行くと北に延びる道に出合う。これを約200m歩いて左手を眺めると西に走る道が目に止まる。この道が、昔の出羽街道中山越で、芭蕉と曽良が尿前の関に急いだ道である。
末澤山洞川院    ○末澤山洞川院の「奥の細道」の標柱    ○芭蕉が歩いた旧道
 

岩渕から対岸の尿前へは綱渡しで渡ったと見られるが、綱渡しとは、瀬の速いところで採られた川越えの方法で、両岸に太い綱を張り、これを手繰(たぐ)るようにして舟を渡すやりかたである。当時の江合川越えについて、徒渡(かちわた)り、すなわち川を歩いて渡ったと説明される場合があるが、元禄9年(1696年)に師の旅を辿って著した蕉門・天野桃隣の「陸奥衛」に「鳴子の温泉前に大川、綱渡し」とあるので、上記の方法で渡ったとみていいだろう。
 
一行が着いた先は、代々関所を警備した遊佐氏の屋敷で、この屋敷が尿前番所として機能し屋敷内に岩出山伊達家の役人が詰める番所が築かれていた。街道は関所の中を通り、番所の表門と裏門に遊佐氏一族と村人が配置されていた。
 
「おくのほそ道」に「此路旅人稀なる所なれば」とあるように、中山峠を越える山道が難所であるため尿前の関を通行する旅人は稀であり、その上、出手形(通行手形)を所持していなかったことから、芭蕉と曽良は「関守にあやしめられ」て取調べを受ける事態となったが、その日の内に放免され漸(ようや)く関越えを果たした。出手形は、仙台藩で領内に入る時に発行したもので、領外に出るときこれを差し出すきまりになっていた。
尿前番所の表門跡    ○表門跡付近から見た関道    ○復元された関所の門構え
関所跡の芭蕉像とその周辺1   2   3    ○薬師神社に建つ芭蕉句碑

関所跡から見た出羽街道中山越の道筋
   
 
尿前の関〜中山峠越え〜堺田・封人の家
元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)〜5月17日(新暦7月3日)

薬師坂

小深沢

大深沢

軽井沢

封人の家
番所裏の尿前坂、薬師坂を登ると旧関の地、岩手の森に至り、その先に峠越えの山道が延々と続く。
尿前の関から中山宿まで「一リ半」(「随行日記」)、中山宿から堺田まで約一里あり、中山宿寄りの堺田「入口五・六丁先ニ」新庄藩と仙台藩の境目を示す杭が打ってあった。

芭蕉一行は、日暮れ時になって堺田に到着し「封人の家」に止宿した。風雨(随行日記では「大雨」)のため翌日も同家に宿泊し、快晴となった17日、尾花沢を目指し堺田を旅立って行った。
大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
  蚤虱馬の尿する枕もと

(おくのほそ道)
一リ半、中山。
○堺田。村山郡小田島庄小国之内。出羽新庄領也。中山ヨリ入口五・六丁先ニ堺杭有。 
○十六日 堺田二滞留。大雨。宿和泉庄や新右衛門兄也。
○十七日 快晴。堺田ヲ立。
(曽良随行日記)

   【地図1   2 】   参照 出羽街道中山越を行く    最上町と封人の家と蚤虱の句について


整備された中山峠越えの道

旧鳴子町は、文化庁と宮城県の指導のもと、昭和53年(1978年)に中山峠越えの道を「おくのほそ道」遊歩道として整備・保存する事業を開始し、初年度は、山形県との県境・堺田から軽井沢までの約2.3kmを整備し、翌年からの3ヶ年の間に、西原〜星沼間、星沼〜尿前間、花渕山〜小深沢間を整備した。総延長は約5kmに及ぶ。

芭蕉は中山峠を歩いたか

軍用地のため橋を持たなかった小深沢、大深沢の難所は、通行を極めて困難にしたと思われるが、本文には「大山をのぼつて日既暮ければ」、曽良の随行日記には「一リ半、中山。」としか記されていない。このことは、峠越えで難儀な旅をしていない、すなわち、既に当時成立していた尿前宿や中山宿で馬を借りた可能性を意味するものだろうか。

芭蕉が通行した百年後の寛政元年(1789年)のものではあるが、馬を用立てた場合の駄賃は次の通りであった。

尿前〜中山間:本馬が52文で軽尻は34文。
中山〜堺田間:本馬が35文で軽尻は23文。
○「本馬」は1駄40貫目(または36貫目。1貫は3.75kg)まで積荷可能な馬で、「軽尻」では人を乗せた場合は5貫目まで積荷が可能で、人を乗せない場合は20貫目の積荷が可能。

尿前の関から小深沢まで

尿前の関跡から急勾配の「尿前坂」を登って国道47号線に至り、左寄りに横断した先から「薬師坂」を登ると岩手の森に出る。この森は、尿前の関所が坂下に移るまで番所が置かれていた所で、源義経に同道して平泉に下るときに、腹痛を起こした北ノ方が山鳩に救われたという伝説の地であり、そのお礼として義経が弁慶に建立させたという薬師堂の跡地でもある。
尿前坂    ○薬師坂1   2    ○薬師坂から見た鳴子の里


旧道は薬師坂を登りきったところで「日本こけし館」から延びる町道と合流し北進する。これを右に100mほど歩くと、斎藤茂吉(1882〜1953)が芭蕉の道を訪ねて詠んだ「元禄の芭蕉おきなもここ越えて旅のおもひをとことはにせり」の碑がある。そのやや先から旧道は町道と別れて直進し、鳴子トンネルの上を跨いだ後、小深沢橋の北側で再び合流する。
斎藤茂吉の歌碑


右手に鳴子スキー場を眺めながら西方に向かい「奥の細道」の道標が建つ小深沢入口に辿り着く。緩やかな坂道をおよそ200m歩くと小深沢から流れ込む清流が見えてくる。
小深沢への入口


木橋から上を眺めれば登坂(とうはん)を阻むように立ち塞ぐ崖が目に飛び込むが、今は、石積みの階段をゆったりと登っていくことができる。大深沢に次いで難所と言われた小深沢の渡りは、古代から近世の旅人へと受け継がれ、ここを起点に葛折(つづらおり)の道筋の中で繰り返されてきた。安永2年(1773年)の「安永風土記書出」に「小深沢、但右鳴子村ヨリ出羽江之往還二而難所御座候」とあり、「仙台領絵図」に「小深沢歩渡、幅二間、深さ二寸、長さ二町六間、難所御座候」とある。
春の小深沢   夏の小深沢    ○小深沢からの上りの道1   2   3


斜面を登り詰めたところから旧道は数百メートルにもわたり水平に行く先を延ばす。途中に、濃淡さまざまな緑が目に鮮やかな「憩の森」があり、その一角に神奈川県出身の歌人・前田夕暮(1883〜1951)の「あさかぜにふきあふらるるあおかしのさやくを聞けばすでに春なり」の歌碑がぽつねんと建っている。「憩の森」を抜けると、こんどは木々を欠いた平坦地が広がり、北側に花渕山や大柴山の頂を見晴らせるようになる。
平坦地に出る    ○「憩の森」を走る旧道    ○前田夕暮の歌碑    ○平坦地に続く峠道

大 深 沢

何のための建物かは分からぬが、それを過ぎるあたりから旧道は再び原生林に入り込む。更に続く平坦地をしばらく行くと、眼の前に尋常でない森の光景が飛び込んでくる。道の左側に2、30mの長さの土塁跡が円弧を描いて延び、右手の斜面にもかなりの長さに渡って土塁跡が見られる。土塁跡の西側には空堀の遺構もはっきり残っている。尋常でない光景の正体はなんと「砦」跡であった。「安永風土記書出」に「大深沢坂、四丁三十二間、但右出羽江之海道(街道)尿前通第一之坂沢二而登り下り拾丁、軍用之所二御座候」とあり、道中最大の難所大深沢は、古くから敵の東進を阻む軍用地として利用され、戊辰の役の際は、小深沢にも仙台伊達藩や岩出山藩から警備に出ていたということである。

遺構が見られる地点から左へ右へ向きを変えながら山腹を下っていくと、せせらぎの音がどこからともなく聞こえ、歩を進めるにつれ次第に音量が増していく。花渕山と大柴山が織り成すV字の谷・大深沢を下る清流の響きである。
軍用地跡に残る土塁    ○空堀
大深沢への下りの道1   2   3
大深沢1   2  3
大深沢からの上りの道1   2   3


沢の西側に幾重にも続いている坂道を登り、大深沢を踏破する。坂が切れると旧街道は平坦な峠道となり、緩やかな坂を下りたところで国道47号線に合流する。途中、右方の路傍に「青面金剛童子碑」が見られる。「青面金剛童子」は、民間で行われる庚申会で守り本尊として祭られるもので、当夜眠ると人体に棲む「三尸虫(さんしちゅう)」がその人の罪を天の神に伝えるとされ、これを防ぐため地区の人々が一軒の家に集まり、寝ないで一夜を過ごしたという。
峠道    ○青面金剛童子碑

中山宿跡

国道に下りたところから中山平温泉郷を左に見て2kmほど行くと、道の右側に「宿」の集落が見えてくる。ここが寛永年間(1624〜1644年)に設置された中山宿の跡地である。中山宿は、玉造郡における岩出山、下宮、鍛冶谷沢、尿前の各宿が成立した後に設けられた宿駅で、設営にあたっては鳴子村の初代肝入(庄屋)遊佐氏六代平八郎宣重や七代平左衛門が大きな貢献を果たした。幕末期の中山宿の規模については、東西が1町1間、南北33間、戸数10戸、住人46人と伝えられる。
中山宿跡

中山峠越えの旧道は、「奥の細道 中山宿」の道標が建つところから国道と分かれ、集落の間を抜けて山中に入る。その際(きわ)に、幕末の大肝入遊佐甚之丞が平左衛門の得を偲んで建てたという遊佐大明神碑と、文久3年(1863年)に岩渕地区の人々が建てた岩渕大明神碑が見られる。その先に旧街道の風情を残す杉並木の道が200m近く先まで延びている。
山中への入口付近    ○遊佐大明神碑(右)と岩渕大明神碑    ○杉並木の道

軽井沢越え

杉並木が途絶えた先からのどかな田園風景が広がり、西原地区の平坦な道筋が1kmほど続いている。これを西へ行って道標のところから左に折れ200mほど行くと、小柴山からの清水を流す軽井沢の谷が見えてくる。山道はきれいに整備され谷川の上に頑丈な木橋も架けられているが、周囲の景観に手が加えられた形跡は見られない。軽井沢には小深沢や大深沢に見られるような険しさがない上に、国道から沢の入口まで車で入れるので、原風景を楽しみながら気軽に散策することができる。
西原地区の平坦な道1   2   3    ○軽井沢1   2   3   4

甘酒地蔵尊

軽井沢の谷からさらに西へ行くとやや開けたところに庚申塚の建つ休憩所がある。休憩所から西へ行くにしたがって街道らしい趣が薄れ、次第に道幅が狭くなる。こうした中を500mほど歩いていくと右手に陣ヶ森の甘酒地蔵尊が見えてくる。この甘酒地蔵尊について、次のような言い伝えがある。
休憩所周辺    ○休憩所に建つ庚申塚
甘酒地蔵尊への道    ○甘酒地蔵尊1   2


源義経が平氏との戦いで数々の功績をあげながら、遂には兄頼朝から追われ平泉に逃げのびる途次のこと。義経主従が、産後間もない北ノ方とともに陣ヶ森で一夜を明かそうとしているとき、猿が大地蔵と小地蔵に姿を変え、九尺四面の御堂を建てて北ノ方と子亀若丸に休息をさせ、義経主従には甘酒で接待をした。翌日、別れ際に、猿が、自分たちもお産で苦しんでいるので助けてくれと懇願したので、弁慶がこの地に安産の神として地蔵尊を祭ったところ、後に、猿が甘酒を供えるようになったことから、里人はこの地蔵尊を「甘酒地蔵尊」と呼んだという。

旧道は、国道の北側を甘酒地蔵尊から更に西へ延び、山形県との県境付近で国道47号線と交差する。その後、国道の南側に道筋を変え、芭蕉が2泊した堺田の封人の家の前に到達する。
甘酒地蔵尊から堺田への道    ○堺田の出入口周辺1   2

堺田と「封人の家」について

「芭蕉と出羽越え-最上町と封人の家と蚤虱の句について」より

出羽街道中山越における新庄領と伊達領の境目については、明確な線引きが行われていなかった為に、富沢村(山形県)と中山村(宮城県)との間でしばしば領地争いが生じた。この争いは幕府に仲裁を仰ぐ事態にまで発展し、正保2年(1645年)境界を二村間を流れる大谷川にする約定を取り交わし和解した。こうして大谷川の端に「境分杭」が建てられ国境の目印となった。この境目は今日も行政区域上の境界となっている。
大谷川(関沢)


堺田村は、このころに「仙台江之道筋二而、駅場無之候而ハ甚不都合二付別村二相立」(新庄図書館蔵「御申送書」)という新庄藩の事情により、宿駅や国境警備のために富沢村から独立した村である。

堺田村では、村の庄屋が境を守備する役人に就き問屋役を兼務した。芭蕉が元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)から3日間逗留した家は、こうした役割の庄屋・有路家であった。早坂忠雄著「芭蕉と出羽路」によれば、有路家の祖先は延沢(尾花沢市)の霧山城主であった延沢家の家臣・有路小三郎の一族で、小三郎は元和8年(1622年)に没したが、有路家はそれ以前に堺田に帰農していたという。国境の守役を「封人(ほうじん)」といったことから、芭蕉は止宿した有路家を「封人の家」と呼び、「おくのほそ道」に次のように記している。

大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

文化庁が江戸時代の初期に既に建てられていたと推定している旧有路家住宅は、昭和44年(1969年)重要文化財に指定され、昭和46年(1971年)6月から2年9ヶ月の歳月をかけて解体・復元工事が行われた。堺田村は新庄藩の保護・奨励のもと馬産地として発展し、有路家もこの大型民家で常時、数頭の母子馬を飼っていたという。
封人の家1   2    ○芭蕉句碑    ○封人の家内部1   2   3

    
   

堺田・封人の家〜赤倉温泉〜山刀伐峠〜尾花沢
元禄2年(1689年)5月17日(新暦7月3日)

赤倉・旧道

一刎

最上町・登山口

山刀伐峠

尾花沢・登山口
尾花沢への経路として当初背坂峠越えを予定していたが、回り道との理由から、山刀伐峠越えに変更し、宿の主人の「道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べき」との教えに従い「究境の若者」を道連れにした。

芭蕉一行は、笹森口留番所、万騎の原古戦場、赤倉、一刎を経、山刀伐峠を越えて尾花沢に到着した。
あるじの云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て人を頼侍れば、究境の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。
(おくのほそ道)
一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。三リ、市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。
(曽良随行日記)

  【地図 】   参照 最上町と封人の家と蚤虱の句について


「山刀伐峠越」の呼称

歴史の道保存整備事業では、笹森を境に、これより東を「出羽街道(仙台)中山越」、これより西の一刎経由・山刀伐峠越えの道を「山刀伐峠越」としている。

コースの変更について
 

芭蕉は、当初、堺田から向町、満沢を経て尾花沢の岩谷沢に抜ける背坂(せなさか)峠越えを予定したが、堺田逗留中この経路が遠回りであることを知らされたとみられ、急遽、一刎経由の山刀伐峠越に変更した。曽良随行日記の「小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故」は向町経由の背坂峠越えについて記したものであり、当時はこの経路が尾花沢への一般道で多くの人馬が往来していた。

これは、山刀伐峠越の山道が、特に小国側で険峻だったからであり、
この為、芭蕉は、宿の主人の勧め通り道案内と荷物運搬のために「究境の若者」を道連れにして峠越えを果たしている。若者は、芭蕉と曽良の護衛のため「反脇指をよこたえ」ていた。

笹森に置かれた口留番所

口留番所は旅人の通行や荷物の取り調べを行ったところで、当時、笹森にこの番所が設けられていた。口留番所は主要街道に設置された御番所と異なり百姓身分の村人が鉄砲や槍といった武器を所持して自宅でその任に当たり、笹森においては佐藤家が廃藩まで世襲して番人を勤めた。曽良の随行日記に笹森番所について「関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。」と書かれている。
笹森口留番所跡    ○一刎を走る山刀伐峠越の道

山刀伐峠越の道筋には、笹森に次いで一刎にも口留番所が設置されたが、その時期は交通量が多くなった江戸後期ごろと見られている。

赤倉温泉

赤倉温泉は、慈覚大師が東国巡礼の旅に出たときに開いたと伝えられ、平成13年現在12の宿泊施設が小国川沿いに点在している。芭蕉が当地を通行したころはまだ温泉場として機能していなかったようである。

芭蕉一行は、現在の「虹の橋」付近から徒渡りで小国川を越えたと伝えられるが、前日までの豪雨でかなり水かさが増し、大変な川越えだったろうと思われる。その後、渡り着いた岸から真っ直ぐに進み、かつて阿部旅館と旅館三之丞の間にあった坂道を登り裏山(日山)へ向かった。現在、坂道は途絶えているが、「一本橋」を渡りきった先の坂道から山刀伐峠越の旧道に至ることができる。整備済旧道の東端に「山刀伐峠越」の標柱が建っている。
虹の橋    ○赤倉温泉の裏山を走る旧道    ○整備済旧道の東端  西端

山刀伐峠越 [東側斜面]

「山刀伐峠」の名称は、東の最上町側が切り立って、西の尾花沢側がなだらかになっている山容が、山稼ぎで使用した「山刀伐」という被り物に似ていることに由来するといわれる。曽良の随行日記に「一ハネト云山路」とあるように、芭蕉が登坂したころはまだ固有の名詞を持たず、山刀伐峠と呼ばれるようになったのは江戸後期ごろからと見られている。
封人の家に展示されている「なたぎり」

 

最上町側の山刀伐峠越えの道 山刀伐峠は標高470m程度の山であるが、東の斜面は急勾配のため「二十七曲り」と称する全長800mの坂道を右へ左へと方向を変えながら登っていく。登りやすく整えられた今でも難儀する山道であるから「道さだかならざ」る坂を「篠の中踏分踏分」頂上まで登るのは至難の業
だったろうと思われる。この峠越えの道が改修され一般に利用されるようになったのは、嘉永4年(1851年)以降のことであった。
登山口周辺    ○登山口1  2

見上げれば、鬱蒼と茂るブナの原生林が空を塞いではいるものの、今は本文にあるような「木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。」といった印象はない。実は、芭蕉のころに原生していたブナの古木は、第二次世界大戦のとき軍事利用のために伐採され、現在見られるブナの木々はその後に成長したものである。このような訳で、芭蕉が記したこの行(くだり)は、当時の山中の有り体をそのまま書き出したものとみていいだろう。
登山道1   2   3

 
山刀伐峠の山頂

東側斜面の登山道を踏破し、最上町と尾花沢市の境界をなす山刀伐峠の山頂に到着する。山頂には東屋が建ち、そこから、葉山、月山、朝日連邦を一望することができる。東屋付近に、近年大きめの祠に移された子宝地蔵尊があり、その脇に「子持ち杉」の老杉が聳えている。

実のところ、山刀伐峠は、ここが頂上といった地点を持っておらず、東屋や子持ち杉付近を頂上と呼んでいる。また、頂上に尾花沢市と最上町の境目が置かれているが、これについてもはっきりした線引きは行われていない。
東屋周辺    ○子宝地蔵尊と子持ち杉


その北側にあるのが俳人・加藤楸邨の筆による「おくのほそ道」紀行の顕彰碑で、出羽越えの章段の一節が刻まれている。石碑上部に「奥の細道 山刀伐峠」の文字が大きく彫られている。顕彰碑は昭和42年(1967年)11月に完成し翌年6月に除幕式が行われた。
おくのほそ道顕彰碑

山刀伐峠越 [西側斜面]

山頂や西端付近に急坂も見られるが尾花沢側は概して平坦である。しかし、西側斜面の道程(みちのり)が800mであるのに対し、こちらは3000mと4倍に近い距離がある。旧県道と重複する箇所もあって往時の面影を追いながら遊歩できるのはおよそ1500mほどである。

最上町側との違いは、こういった山容や道程のほか、杉の木の多いことや山水の小流が見られる点にもある。
芭蕉に「木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。と記させたのが東斜面でブナの木だったとすれば、西の斜面においては杉木立であった可能性もあるだろう。また、「水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。」の「水」については、山腹から湧き出る水の流れが幾筋か見られ、西側の斜面には無いものであるから、尾花沢側での体験と考えていいだろう。
薄暗い杉木立の中で見られる小流


元禄2年(1689年)5月17日(新暦7月3日)、芭蕉は「おくのほそ道」最大の難所となった出羽越えを果たし、ついに念願の尾花沢の鈴木清風宅に辿り着いた。このとき、折しも紅花の開花時期にあたり、集散地の尾花沢は大変な賑わいだったろう。生誕の伊賀上野も紅花の生産地であったことから、当地での逗留は芭蕉にとって格別感慨深いものがあったように思われる。
登山道1   2   3   ○尾花沢側の登山口   周辺

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資 料 提 供

平泉郷土館、一関市教育委員会生涯学習課

  

旧金成町教育委員会、旧栗駒町教育委員会、旧一迫町教育委員会

  

旧岩出山町教育委員会
旧岩出山町産業振興課
  

旧鳴子町教育委員会、旧鳴子町観光農林課、旧鳴子町公民館

  

最上町企画観光課、最上町教育委員会


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第21集 芭蕉と出羽越え

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