芭蕉が訪ねた歌枕、小黒崎と美豆の小島

小 黒 崎

小黒崎 岩出山から陸羽東線に平行して走る国道47号線を北西に進み、鳴子温泉地域との境目に差し掛かると、右手に、岩山が木々の衣を羽織ったように佇む小黒ヶ崎が目に止まる。これが、平安朝の昔から歌に詠まれた「小黒崎」である。

「古今和歌集」 東歌
をぐろ崎みつのこじまの人ならば都のつとにいざといはましを

「続古今和歌集」 順徳院
をぐろ崎みつのこじまにあさりする田鶴ぞなくなり波たつらしも


標高244.6m、長さ800mの小黒ヶ崎は、齢を重ねた姿の良い松を点在させ、山笑うころ、そして全山紅葉の中に緑の点景を織り成すころになると、歌枕の地であることを自ら吹聴するかのように絶景を醸し出す。

歌枕では「小黒崎」だが、山の名称は「小黒ヶ崎」。


しかし、小黒ヶ崎には悲しみの歴史が刻まれている。それは、むかし財政建て直しのため伊達藩がこの山で金の採掘を行っていたころ、作業中坑内で落盤事故が頻発し多数の工夫が生き埋めになったといい、このような経緯から、小黒ヶ崎は「死人山しびとやま)」と呼ばれていたのである。

元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)、芭蕉一行は、出羽越えの道すがら当地で足を止め、満山緑に染む初夏の小黒ヶ崎を仰ぎ見た。この「おくのほそ道」の旅を顕彰し、「小黒崎観光センター」の一角に芭蕉像と本文の一節を掲げる説明板が建てられている。

小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。 (おくのほそ道)

入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也(二リ余)。故、川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿ス。
(曽良随行日記)

   

美豆の小島

美豆の小島(説明板を撮影したもの) 小黒ヶ崎から国道をさらに西方向に進むと、左手に「おくのほそ道 美豆の小島」と書かれた看板が立ち、そこから田の道を西に歩くと、いかにも名勝然としたところに辿り着く。

そこには、「おくのほそ道」の道標と「をぐろ崎みつのこじまの人ならば都のつとにいざといはましを 東歌」(古今和歌集)の歌碑のほか、芭蕉と曽良の姿を挿絵にした説明板が建てられている。

 
美豆の小島を見遣る師弟の姿を現実のものと錯覚する瞬間を覚えながら背後を眺めると、江合川の流れの中に何百年にもわたって佇む小島の姿があった。

その方向に、左手から迂回して近づくと、島の頂きに松の木が3本と数本の小木が植えてあり、この景観は曽良の随行日記に書かれた「川中ニ岩島ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小島也。」と符合している。小木はともかく、松の木は前代の遺風を伝うべく代々植え継がれ、現在の松は、明治43年(1910年)の大洪水で流出したため、土地の人々が修復し、歌枕を蘇らせたものである。

「続古今和歌集」 順徳院 
人ならぬ岩木もさすが恋しきは美豆の小島の秋の夕暮れ

更に近づくと、松の根元に小さな祠が見られ、その傍らに鳥居が建っている。この祠は近年になって弁財天を祭ったもので、弁財天について広辞苑をひもとくと、「もとインドの河神で、のち学問・芸術の守護神となり、・・・。古来、安芸の宮島、大和の天の川、近江の竹生島、相模の江ノ島、陸前の金華山を五弁天と称。」とある。

曽良随行日記の中の「今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。」は、当時小島が向こう岸に接していたことを伝えているが、今は「古ヘ」と同じように川の中にあり、轟きを立てながら早瀬を二分している。昭和32年(1957年)に鳴子ダムの完成を見るまで氾濫の歴史を刻み「暴れ川」とあだ名されてきた「江合川は、幾度となく美豆の小島との隔たり具合を変化させてきた、ということなのだろう。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第21集 芭蕉と出羽越え
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