紅花について

俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡 「芭蕉と尾花沢」

サ|サ

つましゃれ

つましゃれ
つんだ花から恋が出る 花の六月ナ

それ来た咲いたよ
サ|サ

つましゃれ

つましゃれ
つんで楽しむ花の唄 咲いた花より


見る花よりもよ
サ|サ

つましゃれ

つましゃれ
イラカ刺すのもなんのその 紅花つむのもナ

そもじとならばよ
サ|サ

つましゃれ

つましゃれ
唄に浮かれてとぶ雲雀 夜明け前だよ


紅花つみのよ
サ|サ

つましゃれ

つましゃれ
それで山形花だらけ 千歳山からナ

紅花の種まいたよ
 
 
 
 
 
 
 
伝承者/
加藤桃菊
 
 
 
 
 
 
 
伝承地

山形市
山形民謡

紅花摘み唄

紅花と紅花餅について

本ページに掲載している紅花の写真は、アニメーション映画「おもひでぽろぽろ」の舞台となった山形市高瀬地区の紅花畑で、芭蕉が山寺街道を旅した7月13日(旧暦で5月27日)に撮影したもの。当地では、今も3.4ヘクタールの畑で紅花の栽培が行われ、紅花は、鑑賞用の生花として出荷されているほか、花だけを摘み取って加工し染料や口紅の原料として出荷されている。また、栽培地の一部は観光用になっているので、気軽に畑に近づいて紅花を鑑賞することができる。

茎の末端に咲く花を摘み取ることから、紅花は、「末摘花(すえつむはな)」とも呼ばれ、古くは、万葉集(巻10)に「外のみに見つつ恋ひなむ 紅の末摘花の色に出でずとも」と詠んだ歌が記され、源氏物語にもその名の登場人物が見られる。紅花は、呉の時代に中国から渡来し、その名の紅(くれない)は、「呉(くれ)の藍(あい。古くは染料の総称)」を語源とする。

紅花の茎丈は1メートル近くまで伸び、キク科ながらアザミのような棘(とげ)が見られる。生花用の紅花には棘の無いものもあるが、染色には棘のある方が用いられる。紅花の開花時期を表す山形の言葉に「半夏(半夏生の略)の一つ咲き」というのがある。半夏生(はんげしょう)は、七十二候の1つで、夏至から11日目、新暦では7月2日頃にあたる。そのころ、紅花が一輪だけぽっと咲くことを、昔の人はこのように表現した。

半夏生のころを境にして紅花は次々と花を開き、花畑を紅黄色に染める。紅味がかった黄色は、咲き始めの色で、次第に紅色に変色していく。染料や口紅の原料としては咲き始めの花が良質とされ、したがって「紅花摘み唄」に「
夜明け前だよナ 紅花つみのよ」とあるように、摘み取りは早朝に行われる。茎やガクに伸びている棘は、早朝の露で柔らかくなるため、痛みを防ぐ意味でも早朝の摘み取りが適している。

紅花の花弁は、紅色と黄色の2つの色素を持ち、原料生成を目的に摘まれた花は、水溶性の黄色素を抜くことからその作業工程が始まる。黄色素を抜くほどに紅さが増すため、下の「紅花屏風」に描かれているように、素足で揉み出して品質を高める。これが終わると発酵の工程に移り、黄色素を抜いた花弁を、木枠に敷いた莚(むしろ)に広げ、それに濡れた莚をかぶせて発酵させ、紅色の発色を促進させる。

次に、発酵によって粘りけが出た紅花を臼(うす)に移し、搗(つ)いて餅状にする。これを少しずつ丸めて莚に並べ、その上に莚をかけて、素足で均等に踏んで煎餅のように展ばし、天日で乾燥させる。こうしてできたのが染料や口紅の原料となる紅花餅(紅餅。花餅)で、紅花餅は、このようないつもの工程を経てようやくできあがることから値段が高く、昔は、同量で米の百倍の値がついたこともあるという。
  

紅花を産した村山地方

山形市高瀬地区の紅花畑

近世の紅花産地は日本各地に分布したが、今の山形県、特に村山地方(最上、置賜地方に挟まれた山形県東部。山形市、上山市、天童市、村山市、河北町など)が一大産地として名を馳せ、全国の生産高2000駄(紅花1駄は3俵45貫)のうち1000駄を占めたほどといわれる。当地への紅花伝来について、詳細は定かではないが、室町期に西廻り海運と最上川の舟運によって西国から伝えられものと見られ、当地が栽培適地であったことから、一大産地として頭角を表すこととなった。

村山地方に古くから言い伝えられている1つの金句がある。それは「紅花は川霧のかかる所に、煙草は山霧のかかる所に。」というもので、「煙草」はさておき、紅花については、川霧のかかるほどの大川があるところなら土は肥沃で、(朝に立つ)霧は、刺を柔らかくして摘花作業を行い易くする上に、紅の色素を強める作用があることを教えている。こうした栽培条件に適した最上川中流域は、良質の「最上紅花」の産地として栄え、尾花沢の鈴木清風をはじめとする大型問屋商人の経済基盤を支えた。


○「鈴木清風について」参照

摘み取られた紅花は、紅花餅などに加工されて羽州街道から陸路大石田まで運ばれ、河岸から船に荷揚げされた。大石田まで陸運に限られた背景には、天童や六田、楯岡など、大石田に至るまでの宿駅を保護する施策のほか、その上流域に立ち塞がる「最上川三難所」があった。「おくのほそ道」にも記された碁点(ごてん)・隼(はやぶさ)や、三ヶ瀬(みかのせ)の難所がそれで、巨大な岩礁によって破船の恐れがあることから、紅花を積んでの船下りは嘉永期(1848〜1854)頃まで禁止されていたのである。


○「最上川の三難所めぐり」参照

村山地方における紅花栽培の北限は、楯岡を中心とする現村山市域で、芭蕉が10日間にわたり逗留した尾花沢は、播種時期の3月末から4月上旬ごろになっても雪が残り、加えて、養蚕が盛んだったことから、紅花の摘み取りがちょうど蚕飼いの時期と重なるなどの事情で、紅花の栽培は行われなかったと見られている。

  

山寺芭蕉記念館所蔵の「紅花屏風」

現在、紅花を描いた屏風が村山地方に2双残っている。1つは現在、山形美術館に所蔵されている「紅花屏風」で、もう1つは、ここで取り上げている山寺芭蕉記念館所蔵の山形県指定有形文化財「紅花屏風」である。本屏風は、山形県東根市六田生まれの青山永耕が文久年間((1861〜1864)に描いたものとされ、永耕は、上山藩の画師丸野晴耕に学んだのち、出府して狩野永真に師事。後に、名を狩野永耕応信と改めた。

永耕の故郷六田は、最上川の支流、白水川流域にあり、近隣の長瀞や蟹沢地区とともに紅花の一大産地であった。永耕は、自らの生活環境の中で繰り返し行われた「紅花の栽培から紅花餅の売買」までの過程を、作業ごとに写実的に描き出し、当時の世俗風景を今に伝えている。

  

右半双の図
(各画像をクリックして拡大できます)
屏風-右前半双 第3景 屏風-右半双 第2景 屏風-右半双 第1景
紅花餅作り 播種と花摘み 春祭り
右前半双 第3景 右半双 第2景 右半双 第1景
紅花餅に作り上げられるまでの工程が、水洗い、花踏み、(発酵の為の)花寝せ、餅丸め、餅踏み、餅乾しの作業などに区分して、詳しく描かれている。 大川を隔て、手前が耕耘(こううん)と紅花の播種の景で、向こう岸が花摘みの景。第1景の左端に、問屋筋の商人と思しき編笠姿の旅人が描かれている。 農家の庭先。豊作を祈る春祭りの景。庭先でお祝いの餅つきが行われ、道端で凧あげをする子供の姿が見られる。桜が満開。いよいよ農作業が始まる。
左半双の図
(各画像をクリックして拡大できます)
屏風-左半双 第3景 屏風-左半双 第2景 屏風-左半双 第1景
京の紅花問屋 紅花の海路搬送 紅花の荷造り
左半双 第3景 左半双 第2景 左半双 第1景
京の紅花問屋(屋号から「美濃屋」と判断されている)と敦賀を経て京に運ばれた紅花の荷。二階座敷の景は、荷主と商談している様子を描いたものと見られる。 海路搬送の場合、大石田で船積みされた紅花は、酒田で海船に積み替えられ、西回り航路で敦賀の港まで運ばれた。白帆の上部に様々な屋号が見られる。 紅花問屋で行われている荷造りの景。問屋の主人が庭先に出張って采配する中、荷造りや屋号の書き入れ、荷運びなどの作業が着々と進められている。

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山形県指定有形文化財

山寺芭蕉記念館所蔵 「紅花屏風」展示室

松尾芭蕉・おくのほそ道文学館


「紅花摘み歌」の歌詞の出典

本ページに掲載している「紅花摘み唄」の歌詞は、

「山形県の民謡-民謡研究調査報告書」(山形県教育委員会)から

引用したものです。
   
[資料提供]  山形県河北町役場 商工観光課


掲載している画像について

「紅花屏風」の画像は、山寺芭蕉記念館が所有するポジフィルムを

もとにして、LAP Edc. SOFTがホームページ用に作成したものです。

画像は、財団法人山形市文化振興事業団の許可を得て掲載しています。

【掲載許可番号】 財山文事 平成14年度-第36号

掲載している画像の無断使用・転載を禁止します。


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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡

  
第22集 芭蕉と尾花沢
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