芭蕉が尾花沢に残した11日間の足跡
おくのほそ道文学館収蔵

元禄2年(1689年)5月17日(新暦7月3日)、尾花沢にたどり着いた芭蕉は、旧友鈴木清風を訪ねたが、時まさに紅花の開花期。紅花問屋を営む島田屋鈴木家は多忙を極めていた。清風の計らいで止宿先を養泉寺に移すことになった芭蕉は、涼風寄す坂上の寺でくつろぎ、長旅の疲れを癒した。

5月17日(新暦7月3日)

曽良随行日記
十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。三リ、市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野ゝ五、六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村(関谷村)也。正厳・尾花沢ノ間、村(二藤袋村)有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ヘ着。一宿ス。
 

市野々地区

関谷・番所跡

正厳地区

二藤袋地区

鈴木清風邸跡
鈴木清風について
紅花について
山刀伐峠・尾花沢側登り口付近の景
市野々から鈴木清風邸跡まで1 2
  
5月17日(新暦7月3日)、堺田を立った芭蕉一行は、ついに「高山森々」たる山刀伐の峠越えを果たし、市野々、岩谷沢、関谷、正厳、二藤袋を経て、昼過ぎ、尾花沢の素封家島田屋に到着した。当時、島田屋は鈴木清風の父二代目八右衛門の代で、芭蕉が訪ねた若旦那清風は、齢三十九の働き盛りだった。

時まさに半夏生のころ、生産地では、いよいよ紅花の摘み取り作業が始まり、大手の紅花問屋として名の聞こえた島田屋は、既に繁忙期に差し掛かっていた。芭蕉は、この時期の島田屋の有り様については予め清風から聞き及んでいたと思われ、芭蕉にとっては、恐縮しながらの訪問だったと察せられる。

○「半夏生」は、七十二候の1つで夏至から11日目に当る日を指し、太陽暦では7月2日頃にあたる。村山地方では、紅花は、このころに一輪だけ咲き、この日を境に次々と咲き出す。

清風にしても、大切な客人をこうした喧騒の店に止宿させることを忍びなく思ったに相違なく、清風は、心を開いた芭蕉主従との語らいの中で、当日の内に明日以降の止宿先について話を切り出したものと思われる。

5月18日(新暦7月4日)

曽良随行日記
十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。
 

養泉寺の小丘

門前の旧羽州道

養泉寺・山門

養泉寺・観音堂

涼し塚・覆堂
尾花沢資料写真と解説(4) 養泉寺
芭蕉が旅した羽州街道
江戸期の尾花沢を描いた「尾花沢村絵図」
  
前日快晴(一時夕立)だった天候が一転し、小雨降る空模様となる。芭蕉は、午前中清風宅で過ごし、その後近隣の某寺に出向き、昼、そこで風呂に入っている。

曽良が「昼、寺ニテ風呂有。」と記した寺がどこかについては記録が無く不明だが、清風の勧めで身を移すことになった養泉寺ではないかと思われる。いかに名家の子息の紹介とはいえ、長期逗留を願う寺に、見ず知らずの芭蕉と曽良がいきなり旅荷を抱えて戸をたたくことになる非礼を避け、清風または側近の者が近隣の逍遥を兼ねて2人を養泉寺に案内して住職に引き合わせ、そこで風呂をもらって一旦島田屋に戻り、午後、改めて養泉寺に出向いたと、いうのが当日の経緯と推測される。

弘誓山養泉寺は、鈴木家屋敷から700mほど離れたところにあり、山寺立石寺と同じ慈覚大師を開祖とする天台宗の寺である。江戸時代までは上野東叡山寛永寺直系の寺院として格式を誇ったが、時代の変遷や火難のために規模の縮小を余儀なくされ、現在に至っている。本尊は、慈覚大師作の聖観世音菩薩で、最上三十三観音の第二十五番札所として崇敬を集めている。

芭蕉が訪れた元禄2年は、養泉寺伽藍が大修理された翌年にあたり、院内にはまだ芳しい木の香りが漂っていた。奥羽山脈と出羽山地に挟まれた高温多湿の盆地にあって、坂上に立地している養泉寺には最上川や丹生川からの涼風が吹き込み、芭蕉にとって、旅の疲れを癒すに絶好の休み処となった。「涼しさを我宿にしてねまる也」の句は、こうした環境を提供してくれた清風への、感謝を込めた挨拶句であった。
  

5月19日(新暦7月5日)

曽良随行日記
十九日 朝晴ル。素英、ナラ茶賞ス。夕方小雨ス。
 

上町観音堂

上町観音堂

村川素英の墓

墓前・旧羽州道

楯岡・旧羽州道
尾花沢資料写真と解説(5)   念通寺、上町観音堂、村川素英の墓
  
清風は、多忙を極む自身の名代として、親友の村川素英に養泉寺における芭蕉の接待役を頼んでいるが、こうしたことも、到着当日の内に芭蕉と曽良に打ち明けられ、芭蕉はこれを快諾していたのだろう。

滞在3日目の天候は、朝方晴れ、夕方になって小雨がぱらついた。この日、素英は芭蕉と曽良を自宅に招き、「ナラ茶」を振舞っている。「奈良茶」は、もともと奈良の東大寺や興福寺の僧坊で食された茶粥で、茶を煎じた汁に少量の塩を加えて炊かれる。芭蕉の句に、この奈良茶を詠んだ「侘びてすめ月侘斎が奈良茶歌」(天和2年刊、千春編「武蔵曲」)がある。

村川素英については、その弟子・鈴木素州が宝暦11年(1761年)に著した「尾花の系譜」に詳しく、これによれば、村川素英こと村川伊左衛門は伊勢国の武家の出で、若き日は和漢の軍書を紐解き、のちに経典詩文、和歌を学び、また俳諧にも通じる文人であった。

その後、清風と交わりを持ち、島田屋へ出入りするようになる。島田屋との関わりについては同書に「朝暮彼家に入りて俳諧の点例を助け、或は客の応答をしてくらす。」と記されている。また、素英は、紅花商売の清風を助け江戸への往来に同道することもあったようである。

晩年近く、素英は実子に招かれ楯岡に身を移すが、この時、尾花沢に墓碑を残すため上町の観音堂境内に石像観音を造り、その基石に辞世の一首「苔の下に有りとや来つゝ問ふ人の衣手さむき萩のうは風」を彫り遺した。

この基石が、現在、旧羽州街道沿いの上町観音堂の境内に、素英の逆修墓(生前墓)として残る墓碑である。素英が楯岡の地で亡くなったのは、元文元年(1736年)9月10日のことで、享年70余歳であった。

5月20日〜26日(新暦7月6日〜12日)

曽良随行日記
廿日 小雨。

廿一日 朝、小三良ヘ被招。同晩、沼沢所左衛門ヘ被招。此ノ夜、清風ニ宿。

廿二日 晩、素英ヘ被招。

廿三日ノ夜、秋調ヘ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。

廿四日之晩、一橋、寺ニテ持賞ス。十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ。

○秋調 仁左衛門。○素英 村川伊左衛門。○一中 町岡素雲。○一橋 田中藤十良。遊川 沼沢所左衛門。東陽 歌川平蔵。○大石田、一栄 高野平右衛門 ○同、川水 高桑加助。○上京、鈴木宗専、俳名似林、息小三良。新庄、渋谷甚兵ヘ、風流。

〇廿五日 折々小雨ス。大石田ヨリ川水入来。連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被招。

廿六日 昼ヨリ於遊川ニ東陽持賞ス。此日モ小雨ス。
 

  
清明ノ日ナシ

山刀伐峠を越えた17日は、その頂きから、雪を冠する月山や鳥海山を拝めるほどの快晴となったが、随行日記24日の条に「十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ」とあるように、翌日以降は小雨降る、あいにくの空模様が続いた。東北地方で梅雨が明けるのは例年(新暦で)7月下旬になってからであるから、このころはまだ梅雨の真っ最中だったことになる。

「清明ノ日ナシ」の「清明」は二十四節気の1つで、春分の日から数えて15日目、新暦で4月5日頃を指すが、ここでの「清明ノ日」は、梅雨空を吹き飛ばすような天気の良い日、ほどの意味で使われている。ちなみに、村山地方の紅花栽培においては、古くから「清明」のころに種を播き、「半夏生」のころ摘花作業が行われる。

俳人や地域住民との交流

芭蕉は、尾花沢滞在中、素英をはじめとする地元の俳人からの招待に応じ、積極的に交流を図った。随行日記には、20日から出立前日の26日まで、小三良、沼沢所左衛門(遊川)、素英、秋調、一橋、秋調、東陽から自宅や友人宅に招かれ、または養泉寺で持て成しをうけたことが記されている。

こうした交わりの中で、芭蕉は蕉風俳諧の伝授に努め、また、土地の習俗についての談話に耳を傾けたのだろう。芭蕉は、秋調に「日待ち」(23日)、「庚申待」(25日)といった行事にも招待され、地域住民と交流する機会を得ている。さらに、尾花沢の章段に見る4句中の2句が蚕の句であることから、交流した俳人の中に蚕飼いの農家があって、実際に「かひや(飼屋)」に案内してもらった可能性もある。

這出よかひやが下のひきの声
蚕飼する人は古代のすがた哉 曽良


○「日待ち」は、前夜から体を清め、日の出を待って拝む行事、または、農作業の一区切りで地域の人が集まって会食することを言うが、当夜の「日待ち」は、芭蕉が、秋調宅ではなく清風宅に泊まっているので後者の方と見られる。
○「庚申待」は、庚申の夜に神仏を祭って徹夜する禁忌の習俗。


ただし、曽良の「蚕飼する人は古代のすがた哉」の句については、須賀川で巻かれた「風流の」歌仙に、曽良の「蠶(蚕)飼する屋に小袖かさなる」の句が見られ、また、俳諧書留中、当該歌仙を記す右手に「蠶する姿に残る古代哉」の句が記されていることから、初案は須賀川で成されたものと見られる。

「風流の」歌仙


平成14年現在、尾花沢には蚕飼いの農家が一軒も見られなくなったが、村山地方は、紅花のみならず古くから養蚕も盛んで、繭の産地として広く知られていた。現在の養蚕では、年に4、5回の蚕飼いが可能になっているが、江戸中期頃までは年1回のみ蚕が飼われた。

今の養蚕では、「掃立て」から「上蔟」までの期間が30日ほどだが、昔は、約50日を要したとされ、掃立ての時期を、現在と同じ5月30日ごろと見て判断すれば、芭蕉が尾花沢に滞在していたころ、蚕はまだ繭になる前の姿で、三眠または四眠ほどの成長期であったことが推測される。蚕は、孵化してから4回の眠り(四眠)と脱皮を繰り返し、やがて熟蚕となって繭作りを開始する。

○「掃立て(はきたて)」は、孵化した毛蚕(けご)を、蚕卵紙から羽箒で掃きおろし蚕座へ移すこと。
○「上蔟(じょうぞく)」は蚕の体が透き通るほどに成長したころ、繭を作らせる蔟(まぶし)という用具に入れること。
○幼虫期に四回眠る四眠蚕のほか、三眠蚕、五眠蚕などもある。    

尾花沢での歌仙興行

国立国会図書館所蔵の幽嘯編「繋橋」に、尾花沢滞在中に巻かれた五吟歌仙と四吟歌仙が記載されている。この2つの歌仙がいかなる事情で俳諧書留に記されなかったか、また、なぜこの句会のことが随行日記に記されなかったかについて考えてみたい。

○次の2つの歌仙は、清風と親交があった須賀川・相楽等窮の家に伝来したもので、これを地元の俳人石井雨考が見つけ、文政2年(1819)ごろ幽嘯が書き写して「繋橋」に載せたもの。石井雨考は、文政8年(1825年)に、須賀川可伸庵にある「軒の栗」碑を竹馬、英之、阿堂とともに建立した人物。
  

歌仙「すゞしさを」の巻 歌仙「おきふしの」の巻
すゞしさを我がやどにしてねまる也
つねのかやりに草の葉を燒
鹿子立つをのへの清水田にかけて
ゆふづきまるし二の丸の跡
楢紅葉人かげみえぬ笙のおと
鵙のつれくるいろいろの鳥
ふりにける石にむすびしみしめ縄
山はこがれて石に血をぬる
わづかなる世をや継母に偽られ
秋田酒田の波まくらうき
うまとむる関の小家もあわれ也
桑くうむしの雷に恐づ
なつ痩に美人の形おとろひて
霊まつる日は誓はづかし
入月や申酉のかたおくもなく
鴈をはなちてやぶる艸の戸
ほし鮎の蓋ては寒く花ちりて
去年のはたけに牛房芽を出す
蛙寝てこてふに夢をかりぬらん
ほぐししるべに國の名をきく
あふぎにはやさしき連歌一両句
ぬしうたれては香を残す松
はるゝ日は石の井なでる天をとめ
えんなる窓に法華よむ聲
勅に來て六位なみだにたたずみし
わかれをせむる炬のかず
一さしは射向の袖をひるがへす
かはきつかれてみたらしの水
夕月夜宿とり貝も吹よはり
とくさかる男や簔わすれけん
たまさかに五殻のまじる秋の露
かがりに明ける金山の神
行人の子をなす石に沓ぬれて
ものかきながす川上の家
追うも憂し花すふ蟲の春ばかり
夜のあらしに巣をふせく鳥
芭蕉
清風
曽良
素英
清風
風流
素英
芭蕉
風流
曽良
芭蕉
清風
曽良
素英
清風
芭蕉
素英
曽良
芭蕉
清風
曽良
素英
清風
芭蕉
素英
曽良
芭蕉
清風
曽良
素英
清風
芭蕉
素英
曽良
清風
素英
おきふしの麻にあらはす小家かな
狗ほえかゝるゆふたちの蓑
ゆく翅いくたび罠のにくからん
石ふみかえす飛こえの月
露きよき花摘の朝もよひ
火の氣たえては秋をとよみぬ
この島に乞食せよとや捨つらむ
雷きかぬ日は松のたねとる
立どまる鶴のから巣の霜さむく
わがのがるへき地を見置也
いさめても美女を愛する国有て
べにおしろいの市の争ひ
秀句には秋の千種のさまざまに
碑に寝てきさかたの月
篷むしろ舟の中なるきりぎりす
つかねすてたる薪雨にほす
貧僧が花よりのちは人も來ず
灸すえながら眼きはるの夜
まつほどは足おとなくてとぶ蛙
菅かりいれてせばき賤が屋
はての日は梓にかたるあはれさよ
今ぞうき世を鏡うりける
二の宮はやへの几帳にときめきて
鳥はなしやる月の十五夜
舎利ひろふ津輕の秋の汐ひがた
桝かける三ツの樟の木
つくつぐとはたちばかりに夫なくて
父が旅寝を泣あかすねや
うこかすも雲の遮る北のほし
けふも坐禅に登る石上
盗人の葎にすてる山がたな
簗にかゝりし子の行へきく
繋ほし導く猿にまかすらん
けふりとほしき夜の詩のいへ
花とちる身は遺愛寺の鐘撞て
鳥の餌わたす春の山守
清風
芭蕉
素英
曽良
芭蕉
清風
曽良
素英
清風
芭蕉
素英
曽良
芭蕉
清風
曽良
素英
芭蕉
清風
素英
曽良
清風
芭蕉
曽良
素英
芭蕉
清風
素英
曽良
清風
芭蕉
曽良
素英
芭蕉
清風
曽良
芭蕉
  
この2つの歌仙が、清風宅で巻かれたと見て事の成り行きを推測すれば、芭蕉主従が清風宅に宿泊したのが17日、21日、23日であり、17日は疲労困憊の峠越えの日であるから、興行日としては、21日、23日が有力である。「すゞしさを」歌仙は清風、「おきふしの」は芭蕉がそれぞれ亭主となっているので、「すゞしさを」が先行したことは明らかである。

とすると、21日の句会において、養泉寺で快適に過ごさせて頂いている旨の報告と感謝の気持ちを込めて、芭蕉が「すゞしさを我がやどにしてねまる也」の挨拶句を詠み、その3日後に、主客入れ替わって、清風の「おきふしの麻にあらはす小家かな」を発句とする歌仙が巻かれた、という筋書きが浮かんでくる。

「すゞしさを」の連衆を見てみると、夜遅い帰宅になることを案じてか新庄から来会した風流が2句のみで退席し、残った顔ぶれは、芭蕉、清風、曽良、素英の4人。「おきふしの」も同様で、すべて内輪の人間である。こうした俳士たちが、清風が用意した宴席の座興として歌仙を巻き、(曽良ではなく)清風側近の素英がこれを筆書きして残した、と推量すれば、曽良が敢えて俳諧書留や日記に記さなかった理由が捉えやすくなる。

25日の条に「連衆故障有テ俳ナシ」の一文がある。当日、俳諧の興行が組まれ、既に大石田の大庄屋・川水が顔を見せていたが、予定された連衆の中に都合のつかないメンバーが出たため中止にしたというのである。曽良がここでわざわざ「俳ナシ」と記したのであるから、もし、欠席した俳士が当日来会し予定通り興行されておれば、「俳アリ」となって、今度は俳諧書留に筆書された筈、などと考えてみるのだが。

5月27日(新暦7月13日)

おくのほそ道
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。(山寺の章段)
 
曽良随行日記
廿七日 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。
 

楯岡・晦日町

楯岡・旧脇本陣

東根・六田

天童・一日町

天童・旧山寺道
芭蕉が旅した羽州街道
資料写真と解説 羽州街道界隈(1)
資料写真と解説 羽州街道界隈(2)
江戸期の楯岡を描いた「楯岡村全図」
旧山寺街道を行く
  
尾花沢に10泊した芭蕉主従は、次の訪問地大石田に心を向けていたが、土地の人々の勧めにより山寺立石寺への立ち寄りを決め、羽州街道を南に向けて旅立った。養泉寺が立石寺と同じ天台宗であることから、住職の強い勧めもあったことだろう。

随行日記から、芭蕉一行が、清風が用意した馬で楯岡まで送られたことが知られる。尾花沢から楯岡まで三里の距離があり、その間、土生田、本飯田の宿があった。これらは本陣を持たない間宿(あいのしゅく)で、本飯田の一里先に、楯岡の宿駅があった。楯岡宿の本陣は、現在の村山郵便局の敷地にあった笠原家が代々つとめ、この笠原家が問屋場も兼ねていたので、芭蕉一行は、ここで下馬したと見ていいだろう。

その後、一行は宮崎、六田の宿を経て天童に到着。一日町の北詰付近から山寺街道に入り、午後2時半ごろ立石寺に到着した。

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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡


第22集 芭蕉と尾花沢

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