鈴木清風について
 
鈴木清風と松尾芭蕉の略年譜
年号・西暦 清風 芭蕉 鈴木清風 松尾芭蕉
正保元 1644 -- 1歳 -- 伊賀上野赤坂町に生まれる。
慶安4 1651 1歳 8歳 尾花沢村に生まれる。 --
寛文12 1672 22歳 29歳 -- 江戸下向。
延宝5 1677 27歳 34歳 -- このころ宗匠立机。
延宝7 1679 29歳 36歳 残月軒清風と号す。 岸本調和編「富士石」に、芭蕉の立机を祝す相楽等躬(須賀川)の句が入集。
天和元 1681 31歳 38歳 清風編「おくれ双六」に、芭蕉の句が入集。
天和2 1682 32歳 39歳 大淀三千風編「松島眺望集」に入集。
清風の母の句も入集。
貞享2 1685 35歳 42歳 撰集「稲筵」を刊行。 このころ河合曽良、門弟となる。
江戸小石川で、芭蕉主催の七吟百韻「古式百韻」を興行。連衆は、清風、芭蕉、嵐雪、其角、才麿、コ斎、素堂。
貞享3 1686 36歳 43歳 江戸小石川で、清風主催の七吟歌仙を興行。連衆は、芭蕉、清風、挙白、曽良、コ斎、其角、嵐雪。
撰集「俳諧一橋」を刊行。 芭蕉庵で蛙の二十番句合を興行。
貞享5 1688 38歳 45歳 妻、死去。 岐阜から更科へ旅立つ。
元禄2 1689 39歳 46歳 池西言水編「前後園」に入集。
尾花沢で二度俳諧を興行。二歌仙を巻く。
相楽等躬編「怱摺」に入集。
元禄5 1692 42歳 49歳 父(道西)の隠居により家督を継ぐ。三代目八右衛門を襲名。 第三次芭蕉庵完成。
元禄7 1694  44歳 51歳 -- 「おくのほそ道」素龍清書本成る。江戸を発つ。
10月12日、大坂(大阪)で死去。
元禄15 1702  52歳 -- -- 「おくのほそ道」が刊行される。
正徳元 1711  61歳 -- 家産分与、遺言して隠居する。 --
享保6 1721 71歳 -- 1月12日、死去。 --
 ○(残月軒)清風は俳号で、名は道祐。後、三代目八右衛門を襲名。
 ○芭蕉について詳細は「松尾芭蕉の総合年譜と遺書」を参照。
 ○貞享5年は9月29日迄。30日に「元禄」に改元。表の内容はともに貞享5年のこと。
鈴木清風について
尾花沢鈴木家の祖は、平泉に逃れた源義経のもとに弟亀井六郎重清とともに紀州熊野から馳せ参じ、高館の地で殉死した鈴木三郎重家であるといわれ、清風は、慶安4年(1651年)、その分家筋の島田屋二代目八右衛門(道西)とたへ(妙良)の間に長男として生まれた。島田屋は、銀山が隆盛を極め、近隣から30万人もの出稼者が集まった寛永8年(1631年)ごろ、すなわち、一代目、二代目の代に諸物品の仲買や金融業で財力を蓄えたと見られる。

清風は、島田屋の切り盛りを父に任せ、江戸、京都、大坂などに出向いて手広く商売をし、その間、談林派の伊藤信徳門に入って俳諧を学び、俳人や商人たちとの交流を深めた。清風編「おくれ双六」の自序にある「花の都にも二年三とせすミなれ、古今俳諧の道に踏迷ふ。」や鈴木素州著「尾花の系譜」の中の「多年の上京、しり人も多く、又在京も永き時ハ、風雅に心を寄て、さらは俳諧にと、信徳、言水に近付て附合なと仕習ひて、尾花沢の宗匠たり。」の文面から、清風が本格的に俳諧と取り組んだことが窺い知られる。

このころ、芭蕉も、談林派の中心的人物西山宗因を迎えた百韻俳諧に一座するなど談林俳諧に傾注し、清風が師事した伊藤信徳とは、延宝5年(1677年)と6年に三吟歌仙に同座。池西言水についても、延宝6年(1678年)刊行の「江戸新道」に芭蕉の発句が3つ、翌年刊行の「江戸蛇之鮓」に3句入集している。

清風と芭蕉は、こうした談林派の俳人を通して知り合ったことは自明で、清風は、天和元年(1681年)板行の撰集「おくれ双六」に芭蕉の句「郭公まねくか麦のむら尾花」を載せ、芭蕉は貞享2年(1685年)6月2日、江戸小石川で清風歓迎の古式百韻の俳諧を興行している。翌年も、芭蕉、清風、河合曽良などを連衆とする七吟歌仙があり、清風は、この折の歌仙を、同年板行の清風編「俳諧一橋」に採録した。

「おくのほそ道」の旅で成された清風邸訪問は、以上のような二人の交友歴が礎となって自然発生的に企画されものだったろう。尾花沢到着の時期については旅先から大凡のことが清風に伝えられ、これに対し、清風は、到着が紅花の開花期に重なった場合、十分な持て成しができなくなる懸念などを、予め芭蕉に伝えていたものと見られる。

「道遠ク、難所有之由故」(随行日記、5月14日の条)中新田・小野田経由の道が、一晩の内に尿前の関を控える鳴子経由に変えられ、また、「小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故」(17日の条)山刀伐峠を行くことになったのは、紅花の開花時期を鑑みての近道選択だったように思われる。尾花沢に到着すると、島田屋は既に繁忙期に差し掛かっており、清風は、思案の末、喧騒の店(たな)を離れ近くの養泉寺で長旅の疲れを癒すことを芭蕉に勧めた。

こうして芭蕉を迎えた3年後の元禄5年(1692年)、父八右衛門が隠居したことにより、清風が島田屋の身代を継いで三代目八右衛門を襲名することになった。俳諧の世界でその名を高め、江戸や上方に出向いて精力的に商いを行い、そして尾花沢に芭蕉を迎えたのは、すべて、清風が「大旦那」になる前の「若旦那」と呼ばれた時代のことだった。もし、元禄2年に清風が三代目八右衛門として芭蕉を迎えていたら、多忙な中にあっても、芭蕉の尾花沢逗留は少しばかり異なった成行きを見せていたかもしれない。

清風をして「紅花大尽」と言わしめた紅花は、当時、最上川の中流域・村山地方の一大特産品であった。当地方に「紅花は川霧のかかる所に、煙草は山霧のかかる所に。」の金句がある。「煙草」はさておき、紅花に関しては、川霧のかかるほどの大川があるところなら土は肥沃で、(朝に立つ)霧は、刺を柔らかくして摘花し易くする上に、紅の色素を強める作用があることを教えている。然して、母なる最上川をいただく村山地方は、良質で鳴らした「最上紅花」の産地として知られ、最上川の舟運を利用して上方や江戸にその積荷が運ばれた。

尾花沢の南隣の、楯岡を中心とする現村山市域が、村山地方の紅花栽培の北限であった。多雪の尾花沢においては、雪解けが遅く、播種時期にあたる3月末から4月上旬ごろはまだ融雪に至らず、加えて、養蚕が盛んだった尾花沢では、紅花の摘み取り時期がちょうど繭を加工する時期と重なるなどの事情から、紅花栽培は行われなかったと見られている。

そのかわりに、尾花沢は、羽州街道の宿駅であり、最上川舟運の要所・大石田に隣接していることから紅花の集散地として大いに栄え、村山地方の各生産地、広くは奥州各地から紅花の積荷が届けられた。尾花沢の商人は、こうした紅花や米、青苧などを上方や江戸で売りさばくことによって経済力を高め、その1人、島田屋鈴木清風は、「紅花大尽」の異名をとった別格の豪商で、豊かな財力をもとに金融業も営んだ。

ここに、清風が、手練手管の江戸商人と紅花の商売で一歩も引かずに渉り合った逸話がある。それは、元禄15年(1702年)の夏のこと。江戸の紅花問屋は、紅花の値を下げる思惑で、不買同盟を結んで清風の積荷の買い付けを拒否した。この結託を知った清風は、誰も買わないなら、持って帰ることもできないのですべて焼き払うとして、品川の海岸で山と積んだ荷に火をつけた。

この話が巷に流れると、紅花の価格は暴騰した。実は、清風のこの仕業は見せ掛けで、本物の紅花は倉庫に隠し、火をつけたのはかんな屑であった。こうした経緯で三万両の利益を得た清風であったが、清風は、これを真っ当な商売と受け取らず、儲けた大枚をすべて吉原で働く遊女の休養のために使い果たしたという。鈴木家秘蔵の柿本人麿は、このことが縁となり吉原の高尾太夫から清風が貰い受けたものと伝承されている。

清風は、こうした名うての仲買商人として知られながらも、前述のように「おくれ双六」や「俳諧一橋」、また「稲筵」を板行して俳人清風の名を後世に残し、尾花沢俳壇においては源流たる人物としてその名を残している。清風が、蕉風俳諧に心を寄せながら引き続き談林系の俳諧を継承する中、芭蕉の尾花沢訪問をきっかけにして村川素英や高桑川水、高野一栄らが蕉風に傾倒し、後に、山寺に「せみ塚」を建てた坂部壷中や「尾花の系譜」を著した鈴木素州らが蕉風を受け継いだ。

享保6年(1721年)1月12日、清風は、辞世の句「本来の磁石を知るや春の雁」を遺して70歳の生涯を閉じ、遺骨は、元禄10年(1697年)に自費建立した念通寺の骨堂に納められた。

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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第22集 芭蕉と尾花沢
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